共に往こう、果てに 筆:遊月奈喩多
目の前にそびえ立つ巨大な壁。人類を守る最後の砦だったはずのそこは、今となってはあまりにも恐ろしい地上の地獄への門に他ならなかった。それでも、俺たちには立ち止まる時間などなかった。
爺さんが文字通り命懸けで助けたランを狙う麗刃の手から逃れられたわけではないというのなら、カグヤの言うように桃源郷のマザーコンピューターを目指さなくてはいけないのだろう。
「なぁ、カグヤ。そのコンピューターって、どこにあるんだ?」
『私も直接は訪れたことがありません。しかし、閲覧したデータによると、ヴァルハラ・アスガルド――貴方たちが学園と呼ぶ施設の地下深くにあると言われています。そのキーは、浦島太郎が持っていました』
「え、浦島校長が?」
『はい、彼は「始まりの鬼」に関するデータと共にキーを保管していました。けれど、彼の生体反応が消えたときにキーの反応も消失しました。もしかすると……』
「それなら、きっとカラスが持ってると思う」
不意に口を挟んだのは、ランだった。
「あのとき、校長先生を……その、殺した後で何かを抜き取っていたの。すぐに先輩がわたしのことを引き離してたから、ちゃんとは見てないんだけど」
先輩、というのはバロルのことだろう。ランを護ろうと必死にカラスに抵抗していたらしいことはその最期の姿から想像できた。まるで弾け飛ぶように消えたバロルの最期を思い出してしまう。
「だから、もしそのキーを持っているとしたら……」
そこまで言ったところで言葉を切って、ランはその身体を震わせる。余程怖かったのだろう、ただでさえあんな恐ろしいやつに捕らえられていただけでもそうだが、ましてランはその精神力の強さから、瘴気と化した麗刃に呑まれていても自分の意識を保っていたみたいだしな。
「ら、」
「あいつに何されたんだ? 身体はもう大丈夫なのか?」
うまく励ましの言葉を見つけられずに言い淀んでいるうちに、サンがランに近付いてストレートな言葉をかける。幼馴染みならではの距離感ってやつだろうか、ランもそれについては受け入れたようで、口を開いた。
ちなみにそれを聞こうとしていた俺は熊に急かされて、カグヤと一緒に門を開けることになった。うーん、こういう迷いとか躊躇のなさとか、ほんとに獣っぽくて「姐さん」って呼びたくなるわ。
「うん、身体はもう平気。ちょっと頭が痛いけど、さっきまでみたいに朦朧とはしてないし……、たぶん先生が打ってくれた注射のおかげだよね、きっと……。
カラスに捕まってるときも、特に何かをされたわけじゃなかった。もしかしたらわたしが気付かないうちに何か仕掛けられてたのかも知れないけど、少なくともわたしと話してるときはどっちかっていうと優しいくらいで……」
けど、と言葉を続ける。
「なんだか凄く……寂しそうな人だった。わたしが自分の意識を持てなくなった頃はずっと傍にいたんだよ。もしかしたらわたしが逃げないようにっていう監視だったのかも知れないけど、たぶん、何かが違った」
「――――そっか、でもな、事情はどうあれ、」
後ろから聞こえる、ランのどこか辛そうな声音。
バロルのときもそうだったが、ランはたぶんその人のよさから誰かに同情しやすいんだと思う。いや、バロルのときは純粋に敵意を感じなかったし、ただ後味の悪いだけになってしまったが。
その声をまず受け止めて、それから少しだけ間を置いて。
「どんな事情があったとしても、あいつはランのこと怖がらせたやつだ。だったら、少なくとも俺はあいつを許す気はねぇ」
「――――、サン……」
ふたりを後ろにしていることがもったいなく感じてしまうくらい、真摯な言葉だった。いつも怒っているときや何かあったときの感情的な調子ではなく、本気で言っているからこその静かな、けれどその実、辺りに静電気が走り出す程度には怒りが見えるサンの声。
「ほら、エタ坊、開きそうなのかい?」
そして隣の熊姉ちゃんマジで空気読まないなぁ! カグヤに訊いてみると、桃源郷内にOGREウイルスが蔓延していることで、門の解錠条件がかなり厳しくなっているらしい。
あと数分のうちに解錠できるという――それはつまり、今のある意味平和と言える時間があと数分で終わることを意味している。ふと、開けるのが怖くなって後ろを振り向いた……そこに。
「お困りのようだね、君たち」
そこに現れたのは、派手な柄の和服を着流した、片眼鏡の初老紳士だった。
え、え、誰? たぶん俺ら全員がそう思ったことだろう、全員の視線が集まったところで、彼は「あぁ、怪しい者じゃない」と怪しいやつの常套句みたいな台詞をかましながら首を振る。
「もちろん、わかっているさ。ワタシだってウイルス蔓延の報せは受けている。恐らくキミたちくらいしか生き残れてはいないはずだ。外にいたばかりに手を打てなかったのは、本当に残念でならないが……」
勝手にひとりで話を進める紳士に戸惑っている俺の指から、無機質な声が聞こえる。
『お久しぶりですね、キンダーゲシヒテンナハトムジーク。桃太郎がマリアと結ばれたとき以来でしょうか?』
「………………っ、その本名呼びはおやめいただきたい、カグヤ! ワタシのことは『キジ』とお呼びくださるようにと、何度申し上げたかわかりませんぞ!?」
途端に顔を赤くして手で顔を隠し始めるキンダー……、キジ。その呼び名は、紛れもなく桃太郎の英雄譚、そしてカグヤの話した過去に現れる人物であることを示していて。
「キジ、ってことは、あんたもしかして桃太郎の知り合いなのか……?」
それまで会話に交ざることのなかったゴウガが、眠っている熊太郎を見守りながら問い掛けてくる。キジは咳払いひとつして「あぁ」と返す。
「ワタシたちは桃源郷が完成した後、ナパージ各地を巡ってウイルスのデータ収集とワクチンの生成、そして事態の原因究明に奔走したんだよ。サルだけは桃源郷や研究施設の管理ということで残る必要があったけどね」
キジの話だと、イヌはOGREウイルスに関して、キジは鬼や――カグヤの話した過去のこともあるのだろう――人間側の動きを調べて回っていたらしい。そして爺さんは消えた麗刃を捜しつつも、両方のことをしていたという。
「もっとも、マリアちゃんが感染してからはマスターも調べて回るどころではなかったけどね。マスター本人は麗刃ちゃんのことも気にしていたけれど、ワクチンの生成を何よりも優先していただいたんだ。
マスターはかつて辛い思いをたくさんしてここまできたんだ、だからせめて、ようやく掴んだ幸せくらいは守れるように、と思っていたんだがね……」
曇ったその顔は、キジもまたマリア――婆さんの死を知っていることを示していた。もしかしたら桃源郷には何かしらの通信手段があるのかも知れない。そんなことを考えていると、キジは続きを話し始めた。
「今キミたちは桃源郷に戻ろうとしている、そうだね?」
「あ、あぁ」
「そうか、それなら心しておいてほしい」
言いながら、キジは持っていたバッグから小さなディスクを取り出す。そして何故か俺に手渡しながら、言った。
「このディスクを、桃源郷のマザーコンピューターに接続してほしい」
「え?」
「どうしてかは、わからない。だが、恐らくこの中ではキミが1番コンピューターの扱いには慣れていそうに思えるんだよ。何故だろうね」
首を傾げながら手渡されたときには「ははは、何でっスかね」と答えたが、次の瞬間「それが人類を救う鍵を握っているからね」と言われて、思わずディスクを落としそうになってしまった。え、なに、そんなの俺に託したの、この着物紳士!?
いやいやいやいや、荷が重いから!
学生の頃から何かの決め事には受動的に過ごしてきた俺だよ? この世界に来る前にやってた事務職ですら、ただ適正診断に従って面接受けたら受かったからそのまま就いただけだし!
こんなの引き受けるには俺、全然足りないから! 資格とかないから!
「え、いや……」
「誰かが、やらなければならないんだ」
キジの真剣な目が、俺に向けられる。
「サルから聞いていたんだ、あのマスターが直々に訓練をつけて、その才能を認めている赤子がいると。あぁ、浦島さんの玉手箱で今は立派な青年になっている、ともね」
その目は、尚も俺を見つめていた。
あぁ、確かにこの男は歴戦の戦士なのだろう、爺さんほどではないにしろかなりの年齢になっていることは窺えるのに、その眼光だけで俺のことを捕まえて離さないと言わんばかりの凄みがあった。
「キミになら、託せる」
その言葉はまるで、始めから――俺が桃の中でこの世界にやって来た時から――聞くことを定められていたかのように、俺の中にスっ、と馴染んだ。今日この日、この時から、俺がここに来た意味が始まったとでもいうように。
何もかもが腑に落ちるという感覚は、生きているうちにそうは経験するものではないだろう。こんな、何もかもに納得するこの感覚は、恐らく経験することなく生涯を終える者だって少なくはないのだろう。却って怖いくらいだ。
そして、そんな俺の気持ちもお見通しなのだろう、キジはフッ、と微笑んだあと、薬箱からいくつかの小瓶を取り出した。
「キミたちにはこの薬を飲んでいってもらう」
「え、なんだよ、それ?」
「OGREウイルスの特効薬……そして予防薬だ。これを飲んでいけば、どんなに高濃度にウイルスが蔓延していようとも1日は冒されないだろう……今朝ようやく完成して、桃源郷に届けようとしていたものなんだがね」
それは、人類にとって最後の希望になるはずのものだった。それは誰もがわかっていた、だから、サンが真っ先に口を開くのは当然のことと言えた。
「そんなものを、俺たちが飲んでいいのかよ?」
「キミたちが今飲まなくて、誰がこの先飲むというんだい? もう、キミたちしかいないんだよ、たとえキミたち自身がそう望まなかったとしてもね」
お茶目にウインクして言うことではないが、キジなりの気遣いのようなものなのかもしれない。
『オールグリーン、ゲートを開きます。皆様、用心してください』
カグヤの無機質な声と共に、桃源郷に入ったときにも通ったゲートがゆっくりと開き始める。こうなったら……行くしかない! 全員が薬を飲んだのを確認してから、俺は先頭に立って壁の中へ戻った……!
しかし、壁の中は拍子抜けするくらい静かだった。
OGREウイルスに感染した『鬼』たちでごった返して連戦を余儀なくされる……そう思っていたんだが。なんとなく肩透かしを食らったような気分のまま歩いていた俺たちは、すぐにそれが思い違いであったことを知る。
月明かりだけが視界を保ってくれている夜の平原。
足下にいくつも転がっていたのは、人間さながらに“恐怖”の感情をこれ以上ないというくらいに露にした、“鬼”たちの首だった。切り落とされた風のものもあれば、乱暴に引き千切られたのか、背骨の一部と思しきものが付いていたり、取られるときにどれくらいの力が働いたのか、ひしゃげて頭部とは思えない形をしたものもあった。
一言でいうなら、“鬼”たちは虐殺されていた。
いったい、誰が? いや、何が?
そんな疑問を挟みたかったのは、もしかしたら現実から目を背けたかったからかもしれない。後ろで怯んだように息を飲むみんなに「見るな!」なんていう余裕もないくらいの吐き気に襲われていた俺がなんとか戻さずに済んだのは、見てしまったからだ。
「Grrrrrrrraaaaaaaaaa――――――――ッ!!!!」
そこに立っていたのは、1体の“鬼”。
狂ったように暴れ回る、鬼殺しの鬼。
自身を裏切った者すら救おうとした、稀代の鬼殺し。
姿形はあまりに変わっていた――銀色の髪はごっそり抜け落ち、赤黒く変色した皮膚のそこかしこに突起物のようなものが見えて、それが皮膚を突き破ってはみ出た骨だとわかった。
それでも、わかってしまう。
数ヵ月の間だけだったが、こんな気配、間違えようがない。
「…………っ、爺さん」
その声が届かないのはわかっている、もはや爺さんはいないものであることも、わかっている。だから、目の前にいるのはただの鬼だ。人間とは違う、理性を失くした命を持った災厄、意思を持った破壊。
それは、もはや迷いすらも許さない。
その一歩は、大地を砕くように重々しく。
しかし一度踏み出せば、その速度はまるで猛烈な嵐のように。
大気すら震わせて、鬼が迫ってきた……!!
英雄の時代が始まるときは、常に悲惨な戦いがあった




