人類の敗北 筆:月輪あかり
「嘘だろ……!」
取っ払われた屋根に圧してくるような風が身体を押さえ付けてくるなか、曇りに崩れた空を背に俺たちを見下ろす彼女のその顔を見る。
――俺はその正体を受け入れられないでいながら。
「ラン!」
サンの野郎は誰よりも早くその正体を決定付けた。
追い討ちをかけるように、ゴウガすらも「そうだ……こいつが……!」と震えながら声を絞り出す。
なんで。
なんでランが。
なんでランが今目の前にいて、なんでランが鬼の因子を持っていて、なんでランが今俺たちに風の刃を向けているんだ……?
不可視ながら高密度に凝縮した風が、首筋に停滞してこの場にいる誰もを牽制していた。
「ら、ラン! どういうことだ!」
ランは答えない。答えないけど、彼女の周りに蠢くような瘴気が、その存在を際立たせる。
幸い第二段階……肉体の変異に至っていないのは確かだけど、なんだあの瘴気は?
OGREウイルスの症例に統一性はないが、学校で教わったOGREウイルスの仕組みは、本人も自覚できない内に魔力を蝕み、書き換え、変質をもたらしていくもの。
記憶を徐々に奪い、認識能力を低下させ、自我を奪っていくんだ。その過程に、マリアのような肉体の老化だったり、たぶん今目の前にいるランも、何かしらが発症しているのだろう。有無もあるが、独自性のある現象が見られるようになる。
そして、その果てに第二段階、ビースト化があって、そこではじめて感染者と気付けるケースが多い。
要するに変質。個体ごとに異なる結果を及ぼすが、一貫して自覚できない・記憶の欠乏・ビースト化が待ち受ける。
いま目の前にいるランは、エクストラだ。第一第二第三のどれにも数えられない、固有の症状。
それは、鬼の因子を持つが故――?
……ランは泣いているようにも見えた。
必死に抗うように、でも敵わなくて、自分自身と戦うような、苦痛の表情。その瀬戸際。
俺たちに、出来ることはあるのだろうか。
「ラン! ラン! 聞こえるか、ラン!」
サンが必死に呼び掛ける。不可視の刃がぐぐっとサンの皮膚に触れて、溢れ出さない赤が覗けてしまうなか。
――――逃げて……。
ふいに聞こえたその声が、最後だった。
蠢くような瘴気が彼女の身体を包んでいく。変質しない身体に、その瘴気がまとわりついて、擬似的な鬼を形成する。
「ラン!」
一際大きな風が吹いた。
やり過ごし、気付けば熊太郎は吹き飛んでいて、熊がそれを助けに行きながら、俺、サン、ゴウガだけが、拓けて跡形もなくなった風車小屋をおいて、空を眺む。
そこには禍々しい瘴気の鎧で構成された、まるで魔王のような鬼が――。
す、っと持ち上げたラン……いや、魔王の片手には、並々と溜まった緑色の液体が入っているカプセルがあった。
あれは、まさか、そんなわけ、ないよな!?
『解析完了。あれは、OGREウイルス……直ちに逃げてくださ』パリン、と音が鳴って。
ジュウ……と蒸発するような音と共に、液体は直ちに空気と溶け込んで、散布されそうになれば。
まるで見せつけるように魔王は、それを穹操で凝縮するように広げた掌の上へ纏め、風で丸めた球体状のOGREウイルスは出来てしまう。
もし、それが拡散……いや、風に乗せて、ここだけじゃなく、桃源郷全域にばらまかれたら?
想像するだに恐ろしい地獄ができるぞ……!
「やめろ……やめさせなきゃ……」
全滅だ。人類最後の砦が、あっという間に風の力で呑み込まれる。制圧されてしまうのに。
しかし、魔王はそれを行わない。
まるで俺たちの反応を面白がるかのように、ゆっくりとした動きで、瘴気は、その鎧のなかにいるランの顔を見せるように、頭部をさらけ出した。
掲げたOGREウイルスが、風に乗せて、ランそのものへと伸びていく。
それはただのウイルスでは目覚めなかった鬼を呼び起こすための、更なる濃度の注入。
ランが、ランでなくなってしまう――。
「させないぞ、麗刃」
その声はどこから滑り込んできたのだろう。
重々しく、荘厳で、力強くて。でも孤独で、悲しくて、誰も信じれないでいた、一人の男の――。
「爺さん!?」
そのOGREウイルスがランへ呑み込まれる直前、魔王の背後を取っていた爺さんが、その手に持っていた注射器を迷うことなくランへと打ち込む。
刹那、吹き飛ぶように瘴気が霧散し、ばたりと地上に落ちるランが。
そして、風に押さえ込まれていたウイルスがゆっくりと広がっていくなか、ランを抱き止めて着地した爺さんが吐血しながら。
「その子を、守れ」
眼を真っ赤にしながら、それだけを俺に告げて、呻く。肉体を変異させていく。吸い込んだOGREウイルスによって、爺さんは、もう。
「あんたたち! あたしに乗って、早く逃げるよ! ここはもうだめだ、ウイルスに呑み込まれちまう!」
熊が気絶してる熊太郎と俺たち三人とランを乗せて、空気に溶け込んだ緑色の霧状ウイルスが徐々に広がっていく桃源郷からずっと逃げていく。
離れ、後ろも振り返らずに、ただずっとウイルスから逃げ続けて。
壁を越えてあのジャングルまで出ると、入り口辺りで少しだけ漏れる緑色がこちらまで来ないのを見つめながら、俺たちは。
――最後の砦を失い、この物語のキーたるラン以外の全てを犠牲にしながら、生き延びたのだった。
◆ ◆ ◆
「ランは何者なんだ?」
その日の夜。沈痛な面持ちで、ジャングルから脇にそれたところにある滝、その裏側にある小さな洞窟のなかに隠れながら、未だ安静にして眠るランと、いびきをかいて盛大に眠る熊太郎と、焚き火を囲む俺たちがいた。
ちなみにここはクマの隠れ家らしい。
とくに何かある訳じゃないが、桃源郷からそう遠くないもののここなら届かないからとここに身を寄せた。
そんな場所で、俺はそう切り出す。
「……さァてね。あたしにゃ何がなんだかさっぱりだよ。そのカグヤってのが知ってんじゃないの」
『………』
きつい眼差しが俺の右手中指、カグヤへと注がれる。
サンも、ゴウガも見るものだから、俺は右手を伸ばして中央に差し出しつつ。
『彼女は人間です。紛れもなく。ですが、麗刃の崩壊する肉体に、更に適していたのはカラスではなくサタニックランページサイクロンだったようですね』
………。
『あの瘴気は、麗刃。更に言えば、彼女とカラスに刻み込まれている因子が、ウイルスで活性化している状態。ワクチンで吹き飛ばしたように見えても、核は刻み込まれたまま。麗刃が彼女の肉体を求める限り、恐らく何度でも今回のようなことは訪れるでしょう。カラスがそれに協力している』
「おいまて、カグヤ。お前は何を知ってるんだ? 何を隠している?」
『……そうですね。私も、桃太郎と接するうちに、人を嫌いになっていたのかもしれない。彼を裏切ったこの世界に、麗刃の独自的な計画に、抗うふりをしてずっと肯定していたのでしょう。それを桃太郎が望んでいないことに気付いていながら、私にはどうしようもありませんでした』
とたんにおぞましく思えてくるこの無機質な電子音が、『でも』と言葉を綴るから。
『間違っていたのは私だったのでしょう。謝罪します。心の底からの協力を、貴方たちに』
―――。
『桃源郷のマザーコンピュータへ連れていってください。そこで全てを明かそうと、私は思うのです』
かくして。
魑魅魍魎でごった返しているはずの桃源郷へ、再び足を踏み入れなくてはいけない理由が出来たのだった。
桃源郷バイオハザード。




