喫茶店で佃煮を
俺は空を飛ぶんだ。
又四郎はそう竹林のなかのけっこう盛り上がった土山から下に飛んでいるショウリョウバッタかなにかに叫んだ。
割り箸と習字に使う半紙で作った、肩から腕の先、そしてその長さの1.5倍を付け加えた大きさの翼をロープで背負って正面の大きな竹の上から三、四番目の枝目掛けて、クロールの時のプールへの飛び込みよりはもっと遠くへ飛ぶイメージでなどと考えながら空中で風に浮かぶ試みをしたが、ドスンともちろん、そのまま下に落ちた。
薄暗い、曇りの天気の学校のやっている時間に少年は独りでこのようなことを郊外でしていた。
「くそう!」
又四郎はいつも、この郊外のかなり広い竹林の中で遊んでいた。いや、少年から言わせれば崇高な学習、をしていた。いつもその竹林にいる人間はこの少年、一匹だった。
雨が降り始めた。少年は空を睨んだ。
アホか。と呟いた。
少年はいつもより早い帰り支度をした。
少年は誰よりも強くなりたいと思っていた。精神面ででだ。漫画を読んでいてそう思ったのである。その必要があると。
しかし、やはり人間というのはなかなか独りでは成長できないもので少年の心はいつも不安定、よく泣いていた。
少年はスマートホンをカバンから出し、電話した。時報にだ。ぴ、 ぴ、 ぴ という音を聴くととても安心できるのだ。
水色のコードのイヤホンをスマートホンに差し込み、L'Arc~en~CielというロックバンドのHonnyという曲を聴きながら家へと歩いた。
彼の年代がL'Arc~en~Cielを聴くのは珍しかったがボーカルの書いた詞とドラムの気持ちよさにはまって彼らの曲ばかり聴いていた。
少年ははインターネットはしなかった。してはいけないような気がしていた。
だから空を飛ぶために無駄な準備をしてしまうのだ。
少年は路地を抜けて、車がたまに通るくらいの通学路になってる道をなぜか久しぶりに歩いている。
雨はもうやんでいて、曇り空になっていた。
道のアスファルトは色を少し濃く、濡らされていた。
いつもは避けている道をなにか夢遊病のように虚ろに歩く。
この道を通る度にいろいろ思い出して嫌な思いをしていたのであるけど。
又四郎は学校や学校に関することで、いい思い出というものがほとんどなかった。
とくにこの道は腹痛ものなのである。
しかし、この日に限ってとても頭のなかでは楽しいなあ微笑んでいた。
見たことのないような白い鳩が真上を飛んでいった。
その時、少年はビクっとした。
彼の旧友が三人こちらに向かって歩いていたのだ。
正之助がこちらに気づいたかもしれない。
見ている。
正之助はかつての親友だった。
又四郎は、あ、そうだ、本屋に行こうと自分に言い訳して、くるりと方向を逆に変えて歩き出した。
少し速歩きをした。
正之助は、マタシロ!と乾いた声で叫んだ。
又四郎は気づかないふりして、足をもう少し速めて歩いた。L'Arc~en~Cielの音量はそんなに大きくなかったが、イヤホンをしているのでバレないと思っていた。
かなり気まずいのだ。
心臓が重たい。
正之助は一人でダッシュしてきた。
もうだめだ。
うずくまった、又四郎を正之助は泣きながら抱きしめた。
「マタシロ!今まで何してたんだ!」
正之助は紺色の背広姿だった。
なんでだろう。
実は私は皆をだましていた。
又四郎は少年ではない。もうすぐ34歳になる。世間的には立派な年齢なのだ。
「マタシロ!なにしてんだよ!こっちを見ろ!」
又四郎はガクガクと震えていた。顔が青い。目が半分白くむかれている。
又四郎は気を失った。夢を見た。
中学校の放課後に入るチャイムが鳴っている。
又四郎は机に顔を隠して、じっとしている。
いや小刻みに震えている。
机から水が何滴か落ちた。涙のようだ。
蛍光灯の消された教室に西日が窓から入ってくる。
黒板には、policy、How、groupという英単語がなぜか消されずに残っている。
部活に急ぐ一年生の廊下を走る音、女生徒の笑い声、ボールがグラウンドをバウンド
する音、トランペットの練習の音などが、所せましと響いている。
又四郎は声を出して泣き出した。
泣いて、泣いて、オオォと吐き出すようにも鼻水も流して泣いた。
かなりの時間が流れた。泣きつかれて、頭がジーンとする。
外では運動部員がキャッキャ言いながら、水飲み場の水をかけあっている。
どうすればいいんだ。 これから。
同じクラスの立岡という女子がその教室に少し駆け足で入ってきた。
「三島どうしたの?」
又四郎、返事は返さない。
立岡は自分のアルトリコーダーを机から出して、教室から立ち去ろうとしたが、扉をすべてくぐるまえに、くるっと向きな押し又四郎を見た。
「大丈夫?」
立岡は教室の後ろの棚に飾ってある、何かのトロフィーを又四郎の前の席の机に置いて、拍手をした。
1分間くらい拍手をしてくれていた。
開いた窓から蒸し暑い風が入ってきた。
じゃあ、またね。と言って立岡は教室を出ていった。
又四郎はじーっと机に伏せていたが、鼻を三回鳴らしてから、前の席の机にある大きなトロフィーを細くした目で見た。
マサチューセッツ工科大 特別賞と英語で書いてあった。
三島又四郎、彼は天才だった。まさに、神童だった。
文章と絵画と数学において、もちろん学校で一番だった。
夢の中での話じゃない。実際、又四郎は凄くテンションが高く、髪はボサボサ、変な金縁メガネをしていたが、それなりに充実した中学生活を送っていた。
たまに本を読みながら通学することがあって、二度小さな事故にあった。
小学校に入る前から、折り紙が好きで、一人で黙々と作っていたのだが小学生になると紙ヒコーキばかり折るようになった。自分流の折り方で、よく飛ぶヒコーキを考えて作っていった。
そして中学に入ると夜に近くの公園で紙ヒコーキに夜光塗料を塗り、それを飛ばして一人遊んでいた。ヒコーキに糸をつけて、回収しやすくしたのは、又四郎が足の骨折
をした時だった。
その骨折をした、いきさつが何か説明のしようがないような不思議な出来事だった。
中二の夏休みに、自転車で1日旅行をしようと思い立ち、同じクラスの男子生徒を誘ったが、皆、用があるといい、一人、気ままに行き先も決めずに、鞄に折り畳みの傘と水筒と、方位磁石と地図、それとヘッドホンステレオに入れるカセットを数枚詰め込んで、中学入学の祝いに祖母から買ってもらった黒の三段変速自転車で朝8時半まえに出かけた。
北に向かって走っていった。
たまに上り道があったり、カーブした下り坂があったり、汗をかきながら車道を主に走った。車は結構多くて、ぶつかるんじゃないかと冷っとすることもあった。
雨がパラパラと降ってきて、大丈夫かなと思っていたら、すぐ、ドシャブリになった。雷も鳴り出した。傘をさして走るのは危ないと思ったので、雨宿りできそうなところまで急ごうと走っていると、前方の車道の脇の枯れそうな木に、ズドドドドドドドと雷が落ちた。光と音がいっぺんに又四郎に襲いかかり、自転車と又四郎は一緒に滑り倒れ、それに車が3、4台、ボンとあたっては走っていった。
走りながら聴いていたヘッドホンステレオのイヤホンからなにか悲しく音が漏れていた。
誰かが又四郎を大声で呼んでいた。名前を知ってるから、誰かなっと思ったが、意識がなくなった。
雷に撃たれた木は裂けて燃えていた。
又四郎が気がつくと、大きな喫茶店の中にいた。木造のコテージのような雰囲気の本当に大きな体育館の半分くらいの大きさの 喫茶店でテーブル席に又四郎は腰かけていた。ホットコーヒーが置いてある。湯気がたっている。イヤホンをつけていて、爆音でZARDの曲が聴こえる。
目の前に女性が座っている。クリームソーダがその娘の前にある。
なにか又四郎に向かって言っている。
イヤホンをはずした。
「あなたのお父さんが悪いのよ。そうでしょ、私が悪いわけじゃない。そもそもの話をしてるのよ」
けっこう大きな声で言っている。
周りの席では、指が一つの手に6、7本ついてる人や額にも大きな目がある三つ目の人や天狗や化け狸やキョンシーがアイスコーヒーとかを飲みながら、それぞれに話していた。
夢だなと思った。
「あなたのお母さんは認めるわ。でもあなたのお姉さんはほんっとに、何を考えているんだか」
目の前の娘は口を尖らせるように言っている。
青ぶちメガネで金髪のショートカットのよく見ると可愛らしい女の子だった。
又四郎の体には怪我はなかった。
「ここの喫茶店てオシャレでヘンテコで面白いとこだね。
と又四郎は前の娘に言ってみた。」
「バカなのあなたは。いつも話をはぐらかして。あなたのお父さんの店でしょ。お父さんがほんっと好きなのね。オシャレでたしかにヘンテコな店ですわよねぇ」
メニュー表には ビャル・コーディア という店名が大きくでていた。
「とにかく又四郎さん。あなたにも罰をうけてもらいます。富岳さん、お願いします」
と、茶色い体の鬼がやって来て、頭のユニコーンのような大きな一本の角で、席から板張りの床に突き落とした。又四郎の右足のすねをズゴーと刺した。その時に完全に骨が折れた。
また気を失うとき、店中から大きな拍手が起こっていた。
救急車で運ばれる前のチェックでは打撲と擦り傷だけだった、又四郎は病院に着くと右すねを骨折していた。その右すねにビャル・コーディアのクリームソーダとホットコーヒーの注文が書かれた伝票が張り付いていた。
結局、少年の頃の栄光などはどこかの時点で永遠に失われるものなのだろうか。
見ていた夢も希望も、またごうとした、濁流に落としてしまった。
三十四歳になり、十九の頃に自転車に乗っていてトラックにぶつかり、電柱で頭を打ったことを思い出した。その時に頭はスッカラカンになったのだが、もっと前に完全に自尊心も笑顔も、友達に電話する勇気も無くなっていたのだ。
高校に上がってからは毎日、墨汁で壁も廊下も電灯まで塗られた、自分の所属した教室までの道を、九十度下にうつむき通りすぎた。
教室では赤い顔や青い顔をした、黒服の生徒たちが口は笑い、目はつり上がり泳いでいた。
すぐにまた、ツルツル滑る廊下を通り、保健室に向かった。
保健室はよく陽の入る部屋で、電灯の明かりも柔らかかった。
「また来たの。」
と白衣のぽっちゃりした定年前の女性がいつものように言った。
「うん。」
と、なにかを含んだ短い返事をして、すぐさまブレザーを脱ぎベッドの寝ころんでカーテンをひいた。
息を吸い込んで、勢いなく吐いたあと天井を仰いだ。白に短く刻んだような黒いもようなのついた正方形が適当に並んでいた。
「単位とれるの?」
どうでもいいことを聞いてきた。
学校なんていつでも辞めてやる。
その前にやることがあるんだ。
秋の空に重たい雲が垂れる
スリッパが廊下を跳ねる
生徒があちこちでぶつかり、笑いあう
男子生徒が宙を舞う
小雨が降る
女子生徒の地面に垂直の悲鳴
死ぬ気ではなかった
死ぬ勇気などない
一度、飛びたかった
屋上から、ひらげた傘を五本持ちとんだ
落ちていく中、真っ青な夏の光に包まれ
空高くまで、大きなジャンボ機が音をたてて上昇していき
綺麗な蓮の花が無数に空中に咲いた
地面に落ちた又四郎は笑顔だった
メガネは割れていた
又四郎は、救急車で土砂降りの雨を押し退け搬送された
命には別状はなかった 奇跡的に
人はいつかみんな死ぬんだ
生きててよかったと思ったことがない人間の命は凄い軽い
又四郎はそう思うようになった
高校を中退した又四郎は、活動を深夜に移した
頭を坊主にし、体も鍛えぬいた
山に登り、暗闇の中、重い石を上げ下げし、河で水浴びし、木に抱きつきながら瞑想した
屈強な大人に襲いかかる自分の姿が浮かんで膨張し破裂した
心の中に火の灯った、ろうそくを持った
決して、消してはならない
たまに後ろを獣が通った
しかし彼の目の前にはいつも活火山のような巨人が立っていた
巨人の前では、自然さえも無力だ
そう思った
巨人からはいろんなことを教えてもらった
「腕力だけでは、人は屈しない
何が人を動かすのか 恐怖でもない
欲望だと 思うか 欲望より 楽を選ぶものもいる
将棋で強いのは、飛車か?角か?
駒を動かしてるやつの方が強い
盤をひっくり返して秩序や人生をも破ることもできる
地球という、盤の前に座るのは神か?仏か?
それは、もっと大きな秩序のことだ
そして宇宙よりも大きな秩序もあり
その秩序をも含めた、もっと広い秩序もある
無限に続く
そして無限とは何か
消滅しないということ、それ故に失われ続けるということ 死なないということ故に死に続けるということ
どこまでも希望があり 絶望も続く
しかし希望も絶望も、ただの妄想だ
妄想とは真空を埋める空気と一緒だ
実態などない 夢もよう
無限とは夢だ
夢が人を動かす」
「夢」
又四郎は目を覚ました
巨人は目の前を突風とともに 朝日に向かった
太陽に近づいて燃やしつくされ
又四郎は笑った
巨人は夜になると、闇とともにまた産まれるのだ
ある夜、大きな地震があった
一緒に暮らしていた、曾祖父が屋根に潰され死んだ
又四郎の前で息が絶えた
戦争で三度死にかけたことのある曾祖父は夢の中の住人になった
その日、午前中の、光のもとで自転車で走りまくった
奇跡のように存在する、自分の時間の中を走りまくった
そして、ビャル・コーディアにたどり着いた。
あの時この店でクリームソーダを飲んでいた女の子がいた。
もう金髪じゃなかった。青ぶちメガネでもなかった。黒のショートカット、黄ぶちメガネだった。よく、似合っていた。
「ほんっと、あなた遅かったわねぇ。
アイスケーキがカチコチに固まってしまったじゃないの。
飲み物は何にするの?」
「えっ じゃあ バニラシェークで」
「ほんっと甘いもの好きよね、あなたは。
そんなに頭使ってるかしら」
「いやぁ、只、今思いついた飲み物で、
あったらでいいんだけど」
「あなた、馬鹿?
バニラアイス専門喫茶店 ビャル・コーディアよね ここは!」
「ああ、そうなんだ、なるほど」
「何?あなたがこの店を継いだら、佃煮専門大衆トイレにでもするの?」
「いやぁ、もちろん、そうするよ」
「冗談ついでに、バースデーの日にその、修行僧のコスプレは何?・
「うん、自分の誕生日のこと、忘れていたんだよ」
「これに着替えて。」
「え、こんなピンクの全身タイツ?」
それに、こうして、ファンデーションもつけて、えーとこうやって、こうやって 、こうやって、ピエロの化粧よ。気に入ったわよね。
L'Arc~en~Cielの希に出す幸せな曲も流れている
全身から悪い夢が涙になって流れた
「馬鹿、泣くなよ」
女の子も泣いていた
又四郎の人生の最初の記憶というのは母親とどこかの山のハイキングコースを自転車で走っているときの情景である。
三歳くらいの頃であろうか。自転車の前のカゴに小さめの座布団を敷いて乗せられていた。頭にも防空頭巾のように座布団を巻き、母親と通りすぎる回りの景色を交互に、ガタガタ揺れながらも眺めていた。
青い空が頭上には広がっていた。
道の脇は草むらや並木が続いていた。
母親は、息を切らし、汗を流し、坂を登っていく。その頃はまだ電動自転車などないから大変だっただろう。かなりの時間、休憩なしでこいでいる。チラチラと又四郎のほうを確認している。
母親はメガネをかけていて、腰まである栗色の髪だ。ほんのり笑顔で、とても温かい印象だ。
途中の草原で、自転車を降りて、ナップサックから、シートを出して、座って水筒の冷たいお茶を飲んだ。
水色の水筒のコップに、風が運んできた、赤い花びらが浮かんだ。
母親がその時、話していた内容もだいたい覚えている。
「又四郎ちゃん、今日のことをよく覚えていてね。私は又四郎ちゃんのことが、大好きよ。あまり、パッとしない人生だったけど、あなたに会えたことが、本当に良かった。ずうーっと、あなたのそばにいたいと心から思うのよ。あなたのその小さなお手ても、いつか、力強く夢を掴むたくましい手になるわ。あなたのその可愛い足も、どこまでも進むための力強いものになるのよ。あなたのその、あどけない、お目目も、鋭い光を帯びるようになる。あなたの、素晴らしい人生が待ってるのよ。でも、もし何かにつまづいて、うまく人生を泳げなくなっても、私のことを思い出して頑張ってね。私は明日から、あのグリーンの病院に行っちゃうの。そして、たぶん、そこで死んじゃうわ。でもね、きっとまた会えるわ。」
その2週間後に母親のお葬式があった。
小学生に上がった頃に、父親に、お前の産みの母親は、お前を生んですぐに病死して、再婚してできた、二人目の母親もお前と二年間過ごしたあと、病死した、と聞かされた。
「二人とも、お前のことを本当に愛していた」
と話してくれた。
又四郎はその日から、コマなし自転車に乗る練習をして、あきらめていた自転車でのソフトボールチームの遠征にも行けるようになった。
又四郎は35歳になり、硬式テニスを始めようと思った。シューズとラケットを買い、一番近所のテニスコートを借りたが相手は見つからなかった。
でも、週に5日テニスシューズを履きテニスコートのラインの周りを歩いて回っていた。夏の終わりから、年末まで。
又四郎は歩きながら、色んな、人生におけるしがらみの謎について考えていた。
朝早くから、夜まで、サンドイッチ伯爵のように1日3食、食パンにあらゆる、具、をはさんだものを用意して歩きながら食べた。ハマチの刺身や、たくあんや、チョコミントアイスなどもはさんだ。
隣のテニスコートでは小学中学年くらいの少年や少女が小太りのおばさんからコーチを受けていて、彼らは休憩中にドリンクを飲みながらこちらを眺めてよく何か話し合っていた。たまに口を大きく開けて笑っている子もいた。みんな年の暮れまで飽きずに又四郎に関心を持っていたようだ。彼らは何故学校に行かないのか不思議だった。
又四郎はそれを気にしないためにも、スマホからイヤホンで音楽を聴いて歩いていた。又四郎はよくクラシック音楽を聴くようになった。指揮者の棒さばきををイメージしていることがよくあった。あらゆる名曲をスマホに集めて聴いた。ピアニストの良し悪しはなんとなくわかる気がした。youtube でプロの演奏会をは歩きながら観ることにはまったのが肌寒くなった、11月の一週目と二週目だった。
テニスコートはスポーツ施設やアスレチックス、ランニングコースのある大きな公園の隅の方にあり、大きな道路が横には通っていた。公園のランニングコース兼、ウォーキングコースやまわりの地面はやけに赤い茶色をしていた。林のように植えられている沢山の木の葉の濃い緑との色のコントラストがその公園の印象をつくっていた。コンビニ弁当のゴミや空き缶が分別されずにゴミ箱にいつも詰まっていた。カラスもたくさんいる公園だった。温水プールや体育館のなどの施設の外観は灰色のコンクリートだ。空も都会の薄い青色だった。
又四郎はテニスコートのラインにそって週に5日、大雨の日にはなぜか子供用の黄色い傘をさして、暑い日も寒い日も同じ上下の深い緑色のジャージに中は赤い長袖のTシャツを着てくるくる歩いて回った。
主に、今までの人生に出会った、人間たちについて考えながら。悔やまれたエピソードや、不思議だった出来事、爆笑した思い出、殴り倒したかった場面、本当に幸せな気持ちになったこと、たくさんの人の顔が空に浮かんだ。それらのことは硝子の粉のようになり又四郎の血液に流れ、時々心臓をちくっと刺した。
テニスコートに行かない日は、家事と買い物をした。昼と夜はパスタとシーザーサラダを必ず食べた。パスタの味のレパートリーはスマホで調べて、たくさんあった。
毎日、夜は母方のおばあちゃんに電話した。おばあちゃんは田舎に住んでいて、農家を二年前までまでしていた。80を過ぎても元気だ。話題が豊富で、近所であった日常の話から、ニュースで聴いた話、それに科学の話もしてくれた。ユーモアもはさんだ、快活な話に三十分間相づちをうった。毎日楽しみだった。おやすみ、楽しい夢を見るんやで、といつも最後に言ってくれた。
又四郎はある日うなされた。寝る前にお婆ちゃんは、楽しい夢を見るんやで、と言ってくれなかった。つらくて布団に入る気力もなく、そのまま絨毯の上で眠りに入った。
夢の中で又四郎は、洞窟の中で大きな梅干しのお化けに追い回された。枝分かれした、どちらの道を選んでも 、ついてきた。梅干しのお化けは物凄く怒っていた。
何を怒らせてしまったのだろう。手足の生えたお化けは、両手にナイフとフォークを持っていた。口を大きく開けていて、口のなかは赤黒かった。逃げていてもらちがあかないと思って、又四郎は大声で叫びながら、お化けに向き合った。お化けは目をまん丸にして驚いたあとに、微笑んで、よだれをなんリットルもたらした。口から大きなお皿を出して、ここに寝ろと言った。又四郎は、小学生が背負うような、布切れで作った、青の布で紐が緑のナップサッック
から、蓋が水色の魔法瓶を出した。その魔法瓶の蓋をコップにして、中から、美味しい紅茶を注いで、差し出そうと思ったが出てきたのは、ただの水だった。恐る恐る、目をつむりながら、お化けの口の前に、水の入ったコップを持っていくと、お化けは自分の顔の1.5倍くらい口を広げたあと、又四郎を飲み込んだ。一瞬、真っ暗になったあと、明るい林の中の、コテージの前の切り株でできた椅子の上に座っていた。梅干しが口に入っていた。ちょうどいい酸っぱさだった。種までかじって飲み込んだ。
少し肌寒いな、と思った。コテージの上には黄色い旗がさしてあった。旗には黒く何かの印が描かれていたけど 、旗は垂れていたので、何かはわからない。ただ不吉な感じがする。地面には広葉樹の枯れ葉の茶色が隙間なく広がっていた。カラスの鳴き声がずっとしている。遠くから、数羽のカラスはじっと又四郎を見ている。又四郎の心の中の震えを推し量っている。又四郎はコテージの窓に人影見た。誰がいるんだい、と大きく声をかける。カラスはその声に反応して空を向いて長い雄叫びをあげる。雨が降り始める。すぐにどしゃ降りになったので、コテージに入ろうと思い、灰色の古びれた、木の肌のドアをノックした。カラスが近くの木まで移ってきて、又四郎に向かって唸る。雷が近くに落ちる。いくらでも落ちてくる。ドアノブをガチャガチャまわすが鍵がかかっている。又四郎は息を切らし、目を真っ赤にして叫ぶ。開けてくれ、開けてくれ、と。目が飛び出しそうになる。又四郎が肺からどろどろしたものを出すようにゴオォーと叫んだとき、目が2つとび出した。落ち葉の上に転がった2つの目玉は、梅干しになっていた。
気がつくと、自分の部屋にいた。スマホの着信メロディが響いている。父からの電話だ。お婆ちゃんが危篤だという。最後に又四郎と話したいというので、電話をお婆ちゃんの携帯にかけろと言った。すぐにお婆ちゃんに電話する。張りつめたような呼び出し音がする。男の声が出る。お母さんんの弟だ。涙声だ。
「又四郎かよく聞けよ」
お婆ちゃんにかわった。
「又四郎、お前はな初孫やったから、産まれたとき、嬉しかった、無事に産まれて、お婆ちゃんの家まで飛行機できたね、珍しい生き物みたいだった、お婆ちゃんの背中にずっと引っ付いていて見たくても見えなかったものが、とれて目の前に現れたようだったよ、そんな感じがした、親戚みんなが、かわいがっとっよ、婆ちゃんはな、かわいいというより、珍しい宝石みたいに見えた、たまに怖くない妖怪にも見えた、婆ちゃんの布団で一緒に寝てるときも、よく明け方まで眺めとったよ、夏休みは毎年一人で飛行機に乗ってきたね、ちっこい頃からね、ほんま、ようしゃべったね、口から産まれた子みたいやったよ、ほんま、おじいちゃんにも怒られたね、どつかれとった、あんた、イタズラばっかりしよったから、みんなにちょっかいだしとったもんね、ほんでえ、よう泣きもしたね、婆ちゃんそんとき怒っやろ、男が泣くのは、親が死んだときだけやって、あんた、よう嘘もついた、婆ちゃんまた怒ったやろ、嘘だけはつくな、泥棒になってしまうぞって、でも、中学生なってからは、静かな子になったね、婆ちゃんは寂しくなった、又四郎はいろいろ悩んどったんやね、いろいろ抱え込んだんやね、婆ちゃんが要らんこと言ったから、感情を出すのが下手になったんや思った、ごめんな、大人なって、婆ちゃんは、毎日、又四郎に電話できてほんま、幸せやった、自分の背中のような、一心同体のような、もっと声を聞きたかった、もっと、もっと、もっと、声聞きたかった、これからもずっと、でも婆ちゃんのほうが先にいってしまうんや、順番よ、又四郎、婆ちゃんが死んでも、頑張れよ、な、これまでは関係ない、これからはちょっとずつ頑張れ、泣いてもいい、嘘はあかんけど、ホラはふいていい、お前の中のギラギラしたものを外にだすんや、な、いい人生にするんやで、な、返事は?」
「うん、わかった!婆ちゃん、お休み、いい夢見るんやで、」
又四郎は力一杯大声で言った。
婆ちゃんは、笑顔で亡くなった。
婆ちゃんの葬式には出なかった。
その代わりに恋をした。
詩を書いた。
-君はうさぎで、僕はアリス
君を見つけたばかりに、僕は穴に落ちてしまったよ
君は忍び足でどこかに行ってしまい、僕は思い悩んでいるよ
君は時おり、声をかけて僕を振り向かせるよ
同じ方向に進み、同じところで引き返していたよ いつまでもそうしていたかったよ
同じ坂を下り、同じ坂を登っていたよ いつからか 君の後ろ姿しか見えなくなったよ
君は時間がないというよ 僕は時間をもてあましているよ でも四六時中君のことを思っているよ
このまま離れていくんだろ 新しい靴を履いて行ってしまうんだろ
僕はぼろぼろのスニーカーで何度もこの坂を往復して君の声を思い出しているよ
この落ちてしまった穴 僕の心の穴-
又四郎の落ちた穴は、婆ちゃんの娘のところだった。
婆ちゃんの娘で、又四郎の血のつながっていない母親。
緑の病院で死んでしまった、可愛がってくれた、あの産まれて最初の記憶の女の人。
それは、喫茶店ビャル・コーディアの女の子と同じ人ではないだろうか。
ビャル・コーディアに、婆ちゃんが死んで、すぐに入り込んだ又四郎は、恋をするはずのない人に、どうしようもなく熱い恋をしてしまったのだった。