逃げられない
死ぬって、どんなかんじだろう。
「じゃあまた明日ー」
「うん、またね」
それぞれが自らの家に帰ろうと、帰宅路へこちらに手を振りながら自転車をおしていった。
鍵を探すのに手間取っていた私は結局最後になって、顔を上げた頃には彼らの姿は少し遠くの方に見えていた。しかたない、と私はため息をひとつつき、自転車のハンドルにつけられた、一番上に「四日以上の駐輪禁止」と太いフォントで書かれている青い紙きれを剥いだ。
午後六時とはいえ、夏でなければまだ二月初旬であるこの時間帯は、すでにもう空に太陽は見当たらない。雨上がりのせいか、星や月がビルの合間から見えることもなく、やるせなく肩を落として目の前に待ちかまえている坂道に腰を軽く上げた。刺すような冷たい風がタイツ越しの肌すらも撫でて、赤く染めて行くのがわかる。信号待ちで紛らわすようにぶるりと身震いさせて、白い息を吐いた。ヘッドライトや街灯で照らされた、時折パステルカラーの混じる車の列を、なんとなく見つめる。ついさっきまで十人以上のクラスメイトとカラオケボックスという酸素のうすい密室で、大音量で音楽を流しながら騒いでいたなんて思えないほど、外は車の走るエンジン音ぐらいなもので、本当に静かだった。その微妙なむず痒さに、ううん、と私は小さく唸って、手を擦り合わせた。
(今日は、本当に疲れたなぁ・・・)
酸素がうすく、ぼんやりしていた頭も次第にはっきりしてきたが、どっと疲れが押し寄せてきて、ハンドルに体重をかけた。今までまともに友人と遊ぶ、なんてこともなく家にこもってばかりいたせいか、慣れない環境ではしゃぎすぎてしまったのかもしれない。信号が変わって、やっと家に帰れる、と息をついたときだった。ふと、そこで車の通りがぱたりと途切れ、私はあ、と思わず声を漏らした。街灯がぽつ、ぽつと照らす緩やかな坂道を、自転車のタイヤがピザを切り分けるときのように鋭い音をたてて勢いよく下っていく。ちらりと後ろを向くも、車が一台、こちらの道へと曲がってくるのが見えるだけだった。
あぁ、やばいぞ。
そう確信して唇を固く結んだのは、その車が横を通り過ぎるのを見届けてからだった。
私は幼いころから、暗いところが嫌いだ。暗い、イコール、死、を連想してしまうからだ。小学生に上がるか、それより前くらいかに、私はバイクの事故で亡くなったおじの葬式に行った時からだったと思う。白い丸襟に、黒いワンピースを着て、大人らしい、とはしゃいでいた私の横で、母が泣いていた。なんで泣いているのか、その時はまったくわからなかった。眠るように横たわるおじの腕を、もうお昼だよと、揺さぶったのを覚えている。今思えば、恐ろしい話だ、冷たい死体に容易く触れて、ばかだなぁ、なんて笑っていたのだから。結局そのおじ“だったもの”は、数時間後、焼かれて、骨になって、再び私の前に現れた。
きっとそれからだった、私が黒色を嫌うようになったのは、報道番組を見るたびに煙たい顔をして、変な顔、とからかわれるようになったのは。今目の前に広がる鮮やかな闇に、私は胸の肉すらも通り越して、心臓をわしづかみされた気分になった。
「ひぃ、」
キッ、と自転車が鋭い音を一瞬だけたてて、止まる。突然の衝撃に体が揺れたが、私は頭を凭したそのまま、ペダルを漕ぐのをやめた。苦しい、くるしい、だれか、たすけて。頭の中で警告のサイレンがけたたましく鳴り響く。胸のあたりをぐっとわしづかんで、目を見張った。やだ、いやだ。自分が真っ黒に染められていく。“死”の恐怖に染められていく。怖い、助けて、いやだ、いやだ。
「あ、ぁ、あぁ・・・、」
生憎、誰ひとりとしてこの道を歩いている人はいなかった。ただこの暗闇の中、発作のように自分を苦しめる恐怖に悶え苦しくほかなかった。じわりと、汗のつぶが額に浮かんでいる気がした。あぁ、やってくる。ゆっくりと、振り返る。後ろにぽつんと立っている街灯が、ないはずの人影を、うつしだした。
「うわああああっ!」
とうとう耐えきれなくなって、小さな悲鳴とも、奇声ともいえる声を上げながら、ペダルを強く踏みつけた。勢いよく、できる限り下を向きながら、あと少しの我が家へと足をフルスピードで回転させた。
怖い、こわい、助けて、たすけてよう。
死を実感した幼いころ、夜な夜な起きては母にすがりついて泣きじゃくりながら投げつけた言葉を息切れしながら、半泣きになりつつも、そう叫んだ。きっとそれは独り言のような音量に過ぎなかったのだろうけれど、どうしても、それくらいしか声がでてこなかった。
死ぬことが怖いんだ、恐ろしいんだ。
夜な夜な未だにこれで悩まされて、胸を痛いほど引っかいた。生きているという実感がほしくて、明りという明りを全部つけて、皮膚に痛みを与えた。そうでもしていないと、その恐怖に飲み込まれそうだった。あの冷たい死体のように、なるのが恐ろしい。死んでしまったらどうなるの?本当に生まれ変われるの?私に前世の記憶なんてない、きっと死んだらそこで私は消滅してしまうんだ、その先なんて、ないんだ。そう考えると、もう涙が、震えがとまらなかった。
大勢で遊んだ後、話した後、別れた後。いつもいつも、その恐怖に苛まれていた。どうしたらこの闇は消えるの?どうしたら死ぬことに恐怖をもたないで済むの?どうしたらみんなみたいに笑っていられるの?
生きることを楽しむことが、きっと私にはできない。これ以上、できない。
きっと楽しんでしまったら、そのあとには闇がまたやってきて、私を飲み込もうとしてしまうから。
もう、逃げれない。
私はきっとこの恐怖から、逃れられないんだ。
数年経った今でも、私はそうつぶやく。
一人ぼっちの、孤独戦。