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廻逝のロンド  作者: ささ
第一幕
7/33

フルールの環 7

 ワルツさん。わたし、ワルツさんのことが好きです。

 思い出していたら、想いがふわりと口をすり抜けてしまいそうになった。フルールは首を何度も振ると、その場で上半身を伸ばす。

「……あのときからわたし、もっと強くなりたいなって、思うようになったんです。守ってもらうだけで、何も守れないのは、イヤだから。……母のことは、わたしの力じゃきっと、どうしたって守れなかった。偉い人が国のためにしたことだから。絶対なんともならないことは、ある。それはわかります。それでも、やっぱり後悔してしまって。……できたはずのことも、できなかったから」

 ワルツは花壇に向けていた視線をフルールに移した。花壇に視線を向けたままのフルールの瑠璃色の目は、涙で潤んでいる。

「……でも、人って本当に立ち直れるんですね。自分で少し、驚いてます。『お母さんのことを忘れてしまわないと、何もできない。けど、忘れたくない。わたしはこのまま動けない』って、そう思っていたのに」フルールは空を仰いだ。「母を忘れなくても、やっていける。母のこと、これからも、ずっと覚えています」

「フルールはえらいな。きっとなりたいようになれる」ワルツはフルールの頭を撫でようと手を上げた。

「ダメ、です。やめてください」

「ああ、わるい」ワルツはすっと手を下ろした。

「ううん、ごめんなさい……。違うんです。わたし、もっと大人になりたいんです。だから」

 フルールはワルツの目を見つめた。

 この顔をワルツが見るのは二度目だった。

 ワルツはあのとき――――小鳥を介抱した時も、フルールが泣くんじゃないかと思っていた。だがフルールは泣かなかった。あのときも今も、何度も懸命に涙をこらえ、強風に逆らい家路を急ぐ旅人のように、必死で前を見ようとする。

「最期のとき……母は言ったんです。『フルール、笑って。お母さんフルールの可愛い笑顔がみたいな』って。でもわたし、笑えるわけなくて。『こんなに悲しいのに、泣いてるのに笑ってなんて、何考えてるの』って。『お母さん、いつもみたいにわたしのことなぐさめてくれないの』って……。

 そんな不満に心を預けても、一時だけ悲しみから逃げられるだけだったのに。

 今になって、よく思うんです。本当は母も泣きたかったのに、わたしに心配させないように笑ってたんだって。あんなにいつも通りに笑うなんて、きっとそうしようと思って笑わないと、できないだろうから。

 ……わたしも、母みたいな人になりたいと、思うんです」

 優しさを辿れば強さに出会い、その強さを辿れば、また優しさに触れる。

 メビウスの輪のように、強さと優しさが繋がっているような、あんな素敵な人になりたい。

 フルールは自分の涙声を意識しないように、言葉を続ける。

「撫でたり、しないでください。今優しくされたら、きっと零れないように我慢してる涙が出てきちゃうから。また、母にしたみたいに、甘えちゃうから」

「甘えればいい。君はまだ子供だ。無理に大人になろうとしなくても、ゆっくりでいいだろう。泣きたいなら泣けばいい」

 フルールは首を振った。

「お母さんとお別れしたとき、たくさん泣きました」

 フルールは母がいなくなってから、朝も昼も夜も泣き続けた。泣く力がなくなったら気を失うようにいつの間にか眠り、気が付くように起きたらまた泣く。その繰り返し。

 何日も経ってようやく涙が完全に治まったとき、「人はこんなに泣き続けることができるんだ」と、鈍痛のする頭でぼんやり思ったことを思い出す。

「わたし、お母さんのことではもう泣かないって、決めたんです」

 フルールのほんの十数年の人生の中でも、そう古くない思い出達。けれどその、母と過ごした日々は今となってはどうしようもないほどに遠く、後戻りしてそこに交わることは決してできない。

 増してや――――いや等しく、あの頃よりは成長した自分を母に見せたい、などという戯言にしかならない願いも、叶うはずがない。

 わたしがずっと泣き顔だったから、お母さんには、自分がいなくなって大丈夫だろうか、と最後まで不安にさせたかもしれない。今のわたしなら、綺麗にとはいかなくても、笑ってみせることはできるのに。お母さんに安心してもらうために、あの頃に戻ることができたら。

 今もまだ、最期のときに母に笑顔を見せられなかったことを、フルールは悔やんでいた。

 きっと、このふとした瞬間に浮かび上がってくる、痛みにも焦りにも似たはやるような後悔は、ずっと心にわだかまり続ける。

フルールは、涙がまぶたから押し出されてしまわないように、ゆっくりとまばたきをした。

「あの」ワルツの瞳を見据える。「少し、じっとしていてもらっても、いいですか」

「ああ」わずかに不思議に思いながらも、ワルツは頷いた。

 フルールは立ち上がるとワルツの後ろに周った。深呼吸をする。

 もう、なるべく後悔しないように、できることを。

 何も考えない。考えない。

 フルールは、後ろ姿のワルツを抱きしめた。

 背中は大きく、抱きしめただけなのに、まるで重いものを持ち上げたような感覚。

「せっかくワルツさんがわたしを撫でてくれそうだったのに、このままだともったいないから。わたしから、抱きしめさせて、ください」

 顔が熱い。きっと、今日、今じゃなければこんなことできない。こんなこと言えない。

 フルールは想いを残さないようにすぐに離れた。

「びっくり、しましたか?」

「ああ……かなり」

「わ、やったぁ」フルールは顔を赤くしたままはにかんだ。

 ワルツが何かを言いかける。

「ごめんなさいもう行きます」

 フルールは一息にそれだけ言って、建物に駆け出した。回廊まで来て止まると、柱にもたれ掛かる。

 今になって速まる胸の鼓動。

 大きく深呼吸をする。しん、とした、まだ冷たく静かな朝の空気に、早鐘のように高鳴る内側を鎮められるようだった。

 小さくため息をつく。本当は、「気遣ってくれてありがとうございます」と、笑顔でお礼も言えたらよかったのに、と思った。そこまでは、まだできなかった。

 涙が流れないようにではない。空を見上げる。

 あの日――――歌を口ずさんでいてワルツに声をかけられたときも、この空と似た、滲んでいて、それでも綺麗な空だった。

 蒼も白も滲み一緒くたになっているが、それでもその角ばった空と灰色の壁の輪郭は混ざらない。

 いつか、ワルツに可哀想なみなしごをなぐさめるつもりでなく、一人前の一人の女の人として、触れてもらえるようになれるだろうか。

 空は、ここでも外でも母親がいたときでも、変わらず高く、深くある。

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