フルールの環 5
数ヶ月前の夏、天気のいい昼下がりのことだった。フルールはティネットと一緒に、中庭に面する回廊を歩いていた。
ティネットは庭の片隅にある大きな木の下に佇むセツリを見つけると、
「いんちょ、何してるのぉ?」やっ、と手を挙げた。
ティネットは木の根本まで歩みを進め、フルールも後を追った。
「あれを見ているのだ」
セツリは地面の一点に目を向けている。フルールは、下方に落とされているセツリの視線の先を見た。
「……っ!」フルールは息を飲むように小さく悲鳴を上げた。
地面には、重力に平伏するように横たわった小鳥がいる。
フルールは小鳥に駆け寄りしゃがみ込むと、恐る恐る手をかざした。
小鳥は小刻みに痙攣を繰り返す。自らの意思での行動ではなく、脈打つ血肉に動かされた生命の活動。
「まだ生きてる……この子、どうしたの……?」
「先程、巣から落ちた」セツリは事もなげに応えた。
「こんなに弱っちゃうまで、見てたの?……ずっと……?」
「ああ」
「どうして……」
フルールはそっと小鳥に触れた。逆毛立った翼を整えるように撫でる。手の平に確かな温もり。視界が涙で潤んだ。
「急いで、手当てすれば……」
「この鳥は助からない」セツリは小鳥に視線を据えたまま、抑揚なく言い放った。
「どうして、そんなこと……っ」
フルールの瞳に涙が溜まっていく。喉にも涙がつかえているのだろうか、言葉がなかなか出てこない。考えたくない不吉な行く末に、体が急速に冷える。
「助けられるかも、しれないじゃない」
誰の心にも届きそうにない、自分の小さすぎる声。フルールは歯がゆさに手を握りしめる。
セツリは木を見上げた。枝に巣があり、複数の幼いさえずりが聴こえる。
「助からないと言っているだろう。兄弟にも見捨てられた雛鳥だ。もうすぐ死んでしまう」
フルールは息を飲んだ。無意識に胸の辺りで手をさまよわせる。
「そんなこと……いんちょうが、決めないで」
「そんなこと、とは見捨てられた、ということか。それとも死んでしまう、ということか」
「どっちも……だよ……。きっとこの子の兄弟達だってすごく悲しんでる、また会いたいって思ってる……お母さんとお父さんも、帰って来たら、すごく、すごく悲しむよ……」
「それこそフルールの一方的な決めつけだ。……なるほど、鳥の意識なんてわかりようがないな。先程のセツリの言葉を、訪れる事実に基づき修正しよう。『家族に見捨てられたかどうかわからないその鳥は死ぬ』これならフルールにも納得がいくか。死はセツリが決めることではない。その鳥は死ぬ。ただその事象があるだけだ」
「……死なないもん……。きっと、死なない」
心細さに負けないようにやっと出したフルールの声はか弱く、空気との摩擦でも消えてしまいそうに儚い。自身の声と一緒に、フルール自体も消えてしまいそうだった。
「フルール、冷静になりたまえ。こんなことにいちいち気を揉んでもどうにもなるまい」
「……っ、どうして……!」
フルールは続きの言葉と一緒に、高ぶった感情を胸に押し込んだ。ポケットからハンカチを取り出し、小鳥を優しく包み込む。立ち上がると、建物に向けてなるべく小鳥を揺らさないように駆け出した。
「無駄に期待を持つな。巣から落ちたときにはもう……」
遠のき聴こえなくなった声。フルールは走る。振り返らずに、視界を邪魔する目から零れてしまいそうな涙を手でぬぐった。
自分の冷えきった体温が、震えが、手の中の温もりに伝わらないようにと願う。
救急箱の包帯と消毒液と軟膏で手当てをしよう。でも、鳥にそんな方法でいいのだろうか。
まずは図書室の本で調べてから……。早く。急がないと。
中庭を一直線に横切ろうとして、人影が視界の隅に留まった。
「ワルツさん……!」フルールは思わず足を止めた。
「フルール。どうかしたのか」フルールの張りつめた様子に、ワルツは腰かけていた花壇のふちから立ち上がった。
「小鳥が木から落ちてしまって……手当てをしに行くんです」フルールはやや早口に、声を震わせて返す。
「見せてみなさい」ワルツはフルールに歩み寄り、手を差し延べた。




