遊ぶ小惑星 惑う小遊星 4
ワルツは車の後部席にティネットの兄――――メトロノームの体を横たえた。運転席に座るオペラは、車のエンジンをかけるとすぐに経った。ワルツは中庭まで戻ると、地面に座り込んだままのティネットの腕を取った。体を抱えるように立ち上がらせる。
なすがままになっていたティネットは、ワルツを避けるように力無く体を離した。
「ワルツ」
ティネットの瞳がわずかに揺れ動く。
「他の人から見たら、もしかしたらただの悪い人なのかもしれないけど。にぃさんは、ティにとってはたった一人のにぃさんなの。にぃさんにひどいことしないで、って……えぇと、誰に……えらい人? に伝えて」
「ああ」
伝えることしかできないが。
自分のその、らしくない罪悪感めいた感傷に、ワルツはため息をつき首を振る。
「心配するな。……大丈夫か?」
「うん」ティネットは顔を隠すようにそっぽを向いた。「ほっといてぇ。今のティ、すごくトゲトゲするよ。どっか行った方いいんじゃない」
……ワルツは悪くない。それどころか、きっととても正しい。誰の命も心も奪われなくて、にぃさんも怪我だけですんだ。これからにぃさんがどうなってしまっても、それはにぃさんが招いた結果。頭ではわかっている。でも心が追いついていない。
正しい。悪い。明解に二極化された結論の安心感を求めてしまう。
にぃさんは、どうなってしまうの? もう会えなくなってしまう?
振り返ると、ワルツと目があった。
「なぁに? 早く行けば。見てわかるでしょぉ。ティ丈夫な子だから平気だって」
「そんな目をして震えてる、雨の中の捨て猫みたいな状態の奴は放っておけない。どうせ弱々しい棘しか出せないだろう」
ワルツのため息の混じりの言葉に、ティネットは自分の手を見た。
ああ、本当だ。ティすっごく震えてる。自分で気付いてなかったなんて。てか猫って。動物は好きだけど。それに、そんな目って、どんな目をしてるの。ティからじゃ見えないよ。
「ワルツはたまにお節介だなぁ」ティネットは拗ねるように口を尖らせた。
「したいようにして、したくないようにしない。座右の銘なんだ」
「自分に優しい心がけだね」
そして、ティにも優しい。
ワルツはティを安心させるために、話し相手になってくれよう
としてる。そう、ワルツは優しいんだ。人を気にも留めていないようにして、放っておくこともしない。
「なんだか底知れないなぁ。ワルツのこと、知りたくなってきた」
「飛び込んでみなさい。思ったより底が浅くて驚くから」
「きゃぁ、それってお誘いかしらぁ」ティネットは黄色い声を上げた。「でも遠慮しとくぅ。ワルツ競争率高いし」
「は?」
ティネットはくすり、と、悪戯っぽい笑みを漏らした。
「きっと、このままだと七割五分になるよぉ」
「まさか」
「ティの出る幕はないね。一が完成しちゃう。……あぁあ、セツリちゃんとずっと一緒にいたのティなのに。ワルツいっつも、おいしいトコかっさらうんだもぉん」
「気のせいだ。していたら返す」
「他人の心なんて外から動かせないよ」
ティネットは顔を俯かせて足元を見た。所在なさげに靴で土を削る。
「……ね。つまんなくて長い昔話が始まるよ、聞いてぇ」
呟き、地面に座り込んだ。ぽんぽん、と横の地面を手で叩き、ワルツに横に座るように合図する。
ワルツは黙ったまま、示されたティネットの隣に座った。
「ティね、お父さんとお母さんとにぃさんとティの四人家族だったの。にぃさんは、ティが生まれる前にでっちに出されて、ティが物心ついた時にはおうちにいなかった。お母さんは『本当は一年で戻って来るはずだったのに、なんでか戻らなかった』って、どうでもよさそうに言った。ティにお父さんとお母さんが触れるのはぶつとき。話しかけるのは罵るとき。それ以外のときはティはいない子。お家はすき間風がひどくて、ほとんどいつもお酒の匂いがしてた。暖かい家庭料理の匂いなんて、してたことなかった。でもね、お父さんもお母さんも、賭け事に勝ったりとか、たまに機嫌がいいときはすごく優しかったの。まるで気まぐれにペットを猫可愛がりする飼い主みたいに、リィに優しかった。ティは、なるべく可愛いがってもらえるように、いつでも可愛くみえるように笑ってた。実際そうしてると自分も楽だった。
ティが小学生になるはずだった年、お父さんはケチな悪事で牢屋行き。そして、季節が変わるのも待たずに病気で死んじゃった。お母さんはますますお酒に溺れた。暴力もひどくなって、ティはもうすぐ死ぬんだと思った。お腹もすごく空いてたから、あのままだったらそっちで死んだのかも。でも、お母さんは魔女として死んだ。きっと、夫が犯罪者なうえに本人も廃人のようになってったお母さんは、近所の人に疎まれて通報されてしまったの。……ティは一人ぼっちで生き残った。でも、どうやって命を繋いでいけばいいのかわからなかった。やっぱりティもすぐに死ぬんだって思った。あの世でも、ティはお父さんとお母さんに、ぶたれ罵られこんな子いらないってされながら、可愛がってもらえるように可愛くみえるように笑うんだろうなって思った。そしたら、悲しいわけでもないのに涙が出てきて、お父さんが死んだときもお母さんが死んだときも悲しくならなかったのに、よくわからないけど悲しくなった。
でもティは死ななかった。にぃさんが帰って来たから。『ティネット、僕は君のお兄ちゃんだよ。お待たせ。迎えに来たんだ。行こう、僕の新しい仲間がリリアナを歓迎してくれる』って、にぃさんはティを抱きしめながら言ったの。
にぃさんは、世界を導くために活動してた。
ティはにぃさんと、にぃさんの仲間の反体制組織|《木星オラトリオ》《ジュピタリオ》の人達と暮らした。つらいこともあったけど楽しかった。みんな、可愛く見えるように笑うティを可愛がってくれた。
ティは大人の中で、生きていくために必要なたくさんのことを覚えた。
にぃさんは初めて会ったときからティにとって、ティの命を、すべてを世界に繋いでくれる魔法使いだった。
でも、ある日いつものように、みんながお仕事から帰るのを駅前の広場で待ってたとき。うたた寝してて、気付いたらここにいた」ティネットは息をついた。
ワルツは、ここに連れてこられたことに対する不平をぶつけられるのを覚悟したが、ティネットからそれが出ることはないようだった。横でただ頷き、先を促す。
「そうなってしまったものは、しょうがないよね。ティは現状丸飲みが得意だから、全然平気だったよ。にぃさんがまた、迎えに来てくれるって信じてたし。
フルールとジュニパーに初めて会ったときは、二人ともキレイなままなんだなって。ジュニパーは悪ぶってるだけで本当は汚れてないってすぐわかったし、フルールは無垢すぎてすごく羨ましく感じるときもあった。……セツリはね、会った最初、すごい存在感に圧倒された。ジュニパーは他人なんて見てないみたいだったし、フルールはそこまで気が回らないみたいだったから、ティしかそう感じなかったみたいだけど。この世のものとは思えないっていうか。全然生きてる感じしなくて。……ワルツはそんな風に感じなかった?」
「ああ」
ワルツの返事は、肯定しているようでもあり、否定しているようでもあり、ただ流しているようでもある。
ティネットは視線を自分のつま先に向けた。
つるつるとした質感のエナメル革製の黒い靴で、先程の続きを掘るように足元で穴を削る。
「ここに来る頃にはティ、楽に生きるために、自分に殻がないふりをして、相手の殻をくぐって懐に入り込むのが当たり前になってた。|《木星オラトリオ》《ジュピタリオ》の女の人にも『可愛い子供なのを利用する嫌な子』って言われたけど、わかってたもん。ティは可愛くて姑息な野生動物なの。
セツリにはね、そもそも殻がなくて。なんていうか自分の引力で他人を引きつけて、同時に跳ね退けるかんじだったの。でも話してみると空洞だらけに感じられて。すごく心配になった。ふっと、死に手を差し延べられたら、躊躇なくその手を取っていってしまいそうで。
ティが、セツリにとっての、ティのにぃさんみたいな存在になりたいって思うようになった。穴を埋めてあげたいって。なんて図々しかったんだろうね。みんなを、キレイなままで眩しいって思いながら、ティ一人だけ一人前でみんなは半人前って、容易いもののように見てたの、きっと。
……でも本当は、誰かの中にしか自分を見つけられない、誰かに身を寄せないでいられなかったティが、誰より弱くて無力な半人前。ずっと笑ってたけど、確かに楽しかったけど。自分がどこにも存在しない感じだった。ふと、このティが自分なんだよね、って意識してみるけど、自分な気がしなくて。気を抜いて力を抜いて。にぃさんの言うとおりにしてれば、宙に漂っていられる。……ティね。にぃさんのいない世界なんて夢でいい、って思ってた。目が覚めたら消えてしまう夢。でも、これは夢とかあれは現実とか、ティの世界はそういう部分部分の集合なんかじゃなくて。ただ、ティがこのティだってことが、全部なんだって。そんなふうにね、いつの間にか、思えるようになってたの」
ティネットは苦しそうに頷いた。
「……何言ってるかわかんないね。なんだろこれ」
呟く声には疲れが滲んでいた。長い話に息が苦しいからではないのだろう。それでも、話し始めてから浮かべている笑みは、絶えず穏やかだった。きっとこの小さな少女は、すべての衝動や揺らぎを。悲しみも怒りも憎しみも戸惑いの感情も、なんと呼んでいいのかわからない感情も、すべてそうやって自身の奥底に追いやってきたのだ。
ティネットは顔を上げワルツの目を見つめ、けれどすぐに視線を下に落とした。
「もう、ヘラヘラふわふわする理由、ないのにね。受け流したいものなんて今はないのに、一度身についちゃうと、治らないんだなぁ。三つ子の魂百までっていう」
ワルツの思考をその漆黒の双眸の内に見たような、独り言めいた呟きだった。ティネットは遊び飽きたように土を掘るのを止めた。小さな山になっている土を足で押しやって、穴に戻し入れる。かかとでトン、トン、とならした。
「昔話はこれでおしまい。やっぱり長くてつまんない話になっちゃったなぁ。気の利いた締めもオチもないし」
ワルツは首を振る。
ティネットの茶化すような声からは明らかに無理をしているのが伝わってきたが、ワルツは気が付いていないようにすることにした。
ティネットがないように振る舞っていた、殻がある。久しぶりに出した、軟らかくて不格好な殻。
「自分の内をさらけ出したのって、ティ初めてかも。結構恥ずかしいんだね。慣れてないから難しいし。でもなんだか楽になったかなぁ」ティネットは上半身で伸びをし、体操座りの足を引き寄せる。「それでね、ここからは昔話の続きの今の話」
ティネットは背中を丸め、膝に顎をちょこんと乗せた。
「前にセツリちゃんに『ここの生活、単調で飽きてきたなぁ。飽きない?』って訊いたの。そしたらね、『セツリは楽しんでいる。とても。自由すぎて不安になってしまうときがあるし、天井が低いことにたまに圧迫感を感じることもあるが』って真顔でうきうきしながら言うの。ここの生活が自由って、それまではどんな窮屈な生活してたんだろうって思ったけど、嬉しかった。楽しいとか不安って、きっと前のセツリちゃんが知らなかった感情。……セツリちゃん段々、特に最近、すごく生きてるかんじになって、ティ安心してたの。今は今で、やっぱり普通とは別ベクトルにズレてるけど、ねぇ」
楽しそうにしていたティネットだったが、どこか寂しそうに苦笑する。
「……でも、セツリちゃんが特に急に生き物らしくなったの、それっていわゆる一つのそういうアレ、なんだもんなぁ。やっぱりワルツ、ずるぅいよぉ」
「そういうあれ?」
ワルツには、ずるい、と言われる理由が思い当たらない。
「恋とか愛とか。そういうこれはずるい」ティネットは断言した。
「そんなことを言われてもな。本人に直接そう言われたわけでもないんだろう。訊いてみるといい」ワルツは肩を竦める。
「だって、セツリちゃん自身まだ自分の気持ちに気付いてないみたいだもん。下手につついてはっきり意識しちゃったりしたらヤブからヘビだよぉ」
「百歩譲ってもそれはきっと、女子校で男子教員がもてはやされるような思春期病の類いだ。大人をからかおうとするな。まったく最近の子供は……」
「でも、あと何年かしたら、食べ頃でしょぉ?」
「……。まったく最近の子供は……」
同じことをごちるワルツに、その内心の戸惑いを見てとれ、ティネットは、めずらしいものを見れてちょっと得したな、と思う。そんな風に思った自分がおかしくて、ふうと一息ついた。
この穏やかな時間、空気が、とてつもなく貴重なもののように思える。
「こんなことティと話したの、誰にも内緒ないしょ、ね。しぃっ」
ティネットは口元で、今だ震える人差し指をぎこちなく立てた。
「うん。表面状、楽しくなってきたよ。きっと明日には、内面も引きずられて楽しくなる」
ティネットは、うん、うん。と繰り返し頷く。
「さっきの、あっち行けってしたの、ごめんね。やっぱり今、ワルツがいてくれてよかった」
「それはこちらとしても、いる甲斐がある」
「うん」
ティネットは言いにくいことを言い出そうとして、ためらった。
ふいの沈黙。体育座りの膝に乗せている顎を上げ、また乗せる。
「……ねぇワルツ。魔法って、あるのかなぁ」
目を伏せて何気なさを装った呟きは膝元でくぐもり、消えかかってワルツに届いた。
ワルツにはそれがまるで、大切な不思議な世界を描く童話を否定されたくない、ちっぽけな幼い子供の呟きのように感じられた。
「ワルツは、あると思う?」
「メトロノームの言葉が引っかかっているのか?」
ティネットはこくりと頷いて、そのまま俯いた。
父親と母親を、無意識に憎み、死を望み――――
「ティネットの両親の死は、病と魔女狩りによるものだ。そのことは確実な事実で、それが全容か、氷山の一角なのかは自分で決めるしかない。だが決め切る必要もない。誰がどう見るかによって世界の形は変わる。同じ世界はない。ただ、私が見る限りでは、ティネットの意思とティネットの両親の死に因果関係はないように思う。私は非現実的なものは信じない」
「……ちょっと、驚き。実はそんなにたくさんしゃべれるんじゃなぁい」
どこか非難するように、けれど少しだけ楽しそうに、ティネットは首を曲げてワルツの顔を見上げた。
「必要ならな。ティネットの期待に添う返答だったかは知らないが」
今は、必要なんだ。
ティネットは嬉しくなった。
「……ありがとぉ」
ティネットは頭を膝元から上げると、ワルツを見つめた。
その目にはもう、怯え、縋るような鈍色はない。
「でもね」
何も知らない幼子のように、ティネットは邪気のない笑みを浮かべた。
「よくわかんなかったから、もっとわかりやすく言ってぇ?」
ティネットを包む震えは少しも治まらない。それでも、首を傾けさせながらの笑みは、これまで見せていた笑みとは少し異なるもの、力強さを感じさせるものだった。
ワルツは目を細める。
「魔法なんてあるわけないだろう。馬鹿馬鹿しい」
ワルツのその一蹴するような物言いに、ティネットが吹き出すように笑い声を上げた。
抱えていた膝を伸ばし、そのまま仰向けに寝転ぶ。
正方形の夜は明け始めている。
夜空に浮かぶ雲は太陽の光をいち早く受け橙に染まり、夜の蒼とコントラストを作っていた。ここで見られる範囲の空はまだ暗いが、壁の向こうにある空の端では、きっと濃紺と薄黄がグラデーションを作っているのだ。
この空に散らばる数えるほどの星ぼしも、空が明るくなるのに合わせ、やがては消えていくだろう。
星は、そこにあっても、陽の照らす明るいときでは目に見えない。
ティネットは宙に向けて両手を伸ばした。
「ワルツ、空見てぇ。天象儀みたいできれい。もうすぐ朝だね」
その頬を、涙が流星のように一筋だけ流れた。




