遊ぶ小惑星 惑う小遊星 3
荷物は小さなポシェット一つに収まった。物への心残りはない。
星が瞬いている。綺麗な星空でよかった。雨だったら、空と一緒に泣いてしまったかもしれない。
ティネットは中庭から建物を振り返る。部屋の明かりは一つもついていない。手首に蝶々結びした青緑色のリボンに触れ、すぐに手を離す。先をランタンの明かりと共に歩く、兄の背中を追い直す。
兄は花壇の前で立ち止まった。
「ティネットはここで待っていておいで」
「どこに行くの?」
兄は建物を指差した。
「心配しないで、おいて行ったりなどしないよ。もう離れないからね」
「うん……」
「みんな、ティネットのホットミルクで安らかに眠っているね」
ざわり、とした不安の感触にティネットは目を見開いた。俯かせていた顔を上げる。
「何、を、する気なの……?」
兄はティネットに愛おしげに微笑んだ。
覚えてる。にぃさんがこの目をするとき、ティはにぃさんにとって聞き分けのない駄々っ子。
「世見の姫君がいるね」
「セツリ……?」
「魔女狩りを目前に忽然と姿を消した世見の姫君。それが、昔に僕が住んでいたところにティネットと共にいたなんて。青い鳥の物語のようだよ。これは偶然? そんな馬鹿な。こんな偶然あるもんか。これは必然だよ。僕とティネットが引き寄せた運命だ」
「昔、住んでたって……ここは、どこなの? 何なの?」
ティネットには聞きたいことは他にもあった。
セツリを、フルールをジュニパーをどうするつもりなのか。
だが、訊けない。訊くのが恐い。
「ここはね、僕たちの故郷から遥か遠い場所。とある組織の住み処だった場所なんだ。今はその組織は拠点を変え、ここは使われていないけれど。昔、その組織の一員として、僕もここに住んでいたんだよ。ワルツとオペラも共に。……今はティネット達が住んでいるね」
話しながら、兄はいつの間にかどこからか蝋燭を取り出していた。
「そしてそれも今日までだよ。幕が降りるんだ」
兄はランタンの明かりから、金属でできた持ち手の付いた受け皿に乗る蝋燭に火をくべた。
蝋燭をティネットに渡す。小さく揺れる剥き出しの灯火。
「世見の姫君の話は前に聞かせたね。予言の力を持つという。だが、それは後になって、彼の一族にとってより都合がいいように書き換えられたことなんだ。本当はそうじゃない。姫君には見えるんだ。黄泉の世界の住人、死の者が。死の者は世見の姫君に解放されたがっている。解放とは生き世への干渉、黄泉の力の解放だ。自分を見ることのできる人間――――たとえば世見の姫君が人間をなくしたいと願えば、彼女を媒介に死の者は黄泉の力を解放して人間を大量に死に至らしめられる。東から来た彼の一族は昔、その力での恐怖政治を引いていたんだ。
……だが死の者は意味なく彼の一族に協力していたわけじゃあない。死の者と生者の意思で殺した人間の魂は、生き世との繋がりを絶たれ、巡ることなく朽ちるまで死に世に魂を繋がれる。死の者はそれ自体が死に世。体内に、いずれ生き世に還る死者の魂を宿し、やがて生者の赤子は胎内から生き世に孵る。常に一人ぼっちの母なる死。渇望しているんだ。自分を残し、おいて生かない、自分を愛してくれる子供をね」
兄の話のところどころには、ティネットが聞いたことのない言葉が混ざっている。母国語とも、ここで勉強している国際共通語とも違う、知らない言語の単語。
よみ……?
これは、話に出てきた東の国の言葉……?
兄が紡ぐ、このおとぎ話は何なのだろう。
話の内容は、聞き慣れない言葉が行き交うせいもあり、ティネットにはよくわからなかった。
だが、ティネットには感覚でわかる、兄の語りは終盤に差しかかっている。
「セツリ姫には死の者が見えているね。古い文献、歴代の姫君が証明しているよ、あとはきっかけをあげればいい。死の者にはこちらに干渉することはできないが、生者である僕にはそれが可能だ」
「きっかけ……?」
ティネットは震える声で尋ねた。――――訊きたくないのに。
聞きたくない。聞かずに何も変わらないで、誰も傷つかないでいられたら。
「希望を断って、絶望を与えてあげるだけでいいんだ。眠れる美姫のお目覚めに、色鮮やかな死の花を」
簡単だろう?
と兄はベレー帽を外し、ティネットの頭にかぶせた。
「そんなのダメ。ダメだよぉ。セツリはどうなるの」
「だからね、力が目覚めるんだ」
兄は、物分かりの悪い教え子にも苛立つことなく指導する人格者のように、リリアナを丁寧に諭す。
いつもそうだった。兄のこの慈しみに、ティネットは追従するのみ。
だって、ティは小さくて弱い。
二人だった頃はこうして、いつだって優しく守られ、優しく黙殺されてきたのだ。
「力なんかじゃない。心はどうなるの、きっと死んじゃう。お願い、にぃさん。やめようよぉ。ね?」 ティネットは兄の腕を掴む。
持っていた蝋燭の光が空を切り、その衝撃にふつと消える。
「大体、絶望なんてどうするつも、り……」
ティネットの顔から一気に血の気が引く。兄の腕を掴む手から力が抜けていく。
「フルールちゃんとジュニパーちゃん……花のように可憐だね。手向けるには相応しい」
「ぃや……やめてぇ!」ティネットは叫んだ。冷たく強張る両腕に力を込め直し、縋りつくように兄の腕を引く。「お願い、やめて。にぃさん。ダメだよぉ……!」
兄はティネットを静かに見つめた。
「ティネット、君の魔法を使えばいい。そうすれば僕を止められる。そうしなければ僕を止めることなんてできない」
「なんの、こと……?」
「父さんも母さんも、君の意思が殺したんだ」
「うそ」
ティネットの手が兄の腕から力なく離れた。後退りしようとして、止まる。
おずおずと兄を見上げる。頭に乗っていたベレー帽が滑り落ちた。
ティネットの凍えているように冷たい頬に、兄は手を伸ばした。
「嘘なんかじゃない。こんな本当もあるんだよ」
愛しむような微笑み。
ティネットの頬を滑る兄の手は温かく、大切な壊れものを愛でるように。そっと。優しく。
「ティネットも心の奥でわかっていただろう? わかっているから心に蓋をしたんだ」
「そんなはず、ない。できるわけない」
「確かめる方法があるよ。僕を殺したいと、願ってごらん。僕以外のすべてを救える」
ティネットは兄の優しい微笑みから目を逸らした。頬を撫でる暖かい手に無条件に気が緩むのがわかる。兄は自分の友達を殺そうとしているのに。
目がつんとするのは、安らぎから? 胸の痛みから?
「ああ、そうだね。いい子だよ、僕の可愛いティネット。ティネットには僕を殺すことはできないんだ。はじめからわかっている。僕達は唯一無二の家族なのだから」
子守唄のような囁きが、ティネットの耳に染み込んでいく。
「にぃさんは大切な人」
「うん」
ティネットは自分の頬にある手に、自分の冷えた手を重ねた。まぶたをそっと伏せる。
「そしてセツリも、フルールもジュニパーも。みんなも同じに大切」
「……どうして。ティネットに僕と同等以上に大切な人なんてできるわけがない。『この仲間だから築き上げることができた特別な絆』なんてものは、前向きな逃避の中にしかありはしない。ティネットが今感じている友情も、いくらでも替えがきく。可愛いティネットならどこでも誰にでも愛される。またたくさんの友達がすぐにできるよ」
ティネットはまぶたを上げた。静かに兄を見上げる瞳には決意があった。
「関係ない。ティがみんなを大切だって思ってることに変わりはない。ティが見過ごしてみんなが死んでしまったら、耐えられない。今のティにはかけがえのない大切な人達なの。お願い、にぃさん。ティの最初で最後のわがまま、一生のお願いを聞いて」
「駄目だよティネット、駄目だ。可哀相に……。少し離れすぎたんだね、外界の毒が回り始めている」
兄はティネットをあやすように優しく抱きしめた。サラサラと髪の毛を梳くようにしながら囁く。「ティネット。忘れてしまったのかい。外の世界は苦しみに満ちている。ティネットは僕を信じることで、煩わしい世界を切り捨ててしまえばいい。僕がティネットのすべてを守る。そうして二人でやってきたじゃないか。ティネットの魔法使いは僕だけでいい。僕だけを信じ、僕だけを愛し、僕だけを世界にする。かつてのティネットに戻るんだ。ねえ、大好きだよ、愛しいティネット」
「ティも、今もにぃさんのこと、変わらずに大好きだよ」ティネットは兄を抱きしめ返した。
「でも、時は戻らないの。ティにはできない」
声が上擦る。これではまるで決別の抱擁のよう。
「なら僕を殺してごらん」
ティネットは兄の顔を確かめることができない。どんな顔で自分を抱きしめているのだろう。今もティネットを包み込む温もりは優しい。
「できるわけ、ない」
「堂々巡りだね」
そう言った兄の声はわずかに弾んでいる。
ティネットは戦慄した。
どうすればいい?
いつも奔流に流されるままにしか生きられない。それでいいと割り切って流され方を覚えたのに、同時に流されることの限界も見えるようになった。
あぁ。流される以外の術を、ティは持ってなかった。ティには何もできないんだ。
それでも。
ティネットは兄から離れる。
宵空に浮かぶようにして立ち並ぶ木立の枝葉の影が揺れる。
そう強くない夜風が、ティネットの表面にあった二人分の熱をあっという間に撫でさらう。
「ティは誰も見殺しにしない」
「わかっていて、どうして?
僕なしのティネットには何もできやしないのに」
「――――私にはできる」
ティネットのものとも兄のものとも違う、低い響きの声がした。
二人は声のした方向に素早く視線を向ける。
回廊の柱にもたれるようにして、暗闇に溶け込む人影がある。ワルツが何か黒い物を突き出すように構え、立っている。
銃声が鋭く轟いた。
ワルツが持つ物を銃だと認識したときには、ティネットの兄の身体はよろめき崩れ落ちていた。左脚に撃ち込まれた弾は貫通して、花壇の煉瓦に埋まり込み止まった。
風に乗って、火薬と煙の匂い。混ざって血の臭気が広がる。
ティネットはへたり込んだ。
駆け寄りたいのに、体のどこにも自分の意思が効かない。声も出せない。
にぃさん。血が。ワルツ。どうして。血。赤。黒い赤。
黒にまぎれて血が流れている。それ自身が闇のように流れ落ち、闇の本流に合流する。
ワルツは、ティネットの兄の腕を捻り上げると、布に染み込ませた薬品を吸い込ませた。眠りをもたらす即効性の薬だった。
「ワ、ル……ツ……」
「メトロノーム、お前の革命は成し得なかったんだよ」




