生と死と乙女と愛の夢 3
――――どうして今、あの家を出たときのことを思い出したのだろう。
あのとき受け止めてくれた男性、今受け止めてくれたワルツ。似ている……?
だが私には、親族以外に身近に知る男性は他にない。比較するには例が足りない気がする。
「大丈夫か?」ワルツは声を上げた。
「す、すみません……!
怪我はありませんか」地面を背中に自分の下敷きになっているワルツに、セツリは慌てて声を出した。
「ああ」普段のなんでもないような顔でワルツは頷く。
「よかった、安心しました」セツリはほっと胸を撫で下ろした。
「セツリは」
「自分はどこも」
「そうか。どけてくれ」
「! はい……! すみません」
遅れて状況を認識したセツリは、慌てて腕を伸ばそうとしたが、なかなか力が入らない。安心して気を抜いたときに、体から力まで抜けてしまったようだ。セツリはなんとか腕に力を込めてワルツから上半身を離すと、そのまま立ち上がろうとして固まった。
「どうかしたのか」
「……腰の力が抜けてしまって、これ以上は動けません」
「ゆっくりでいい」
「すみません。重いですか」
「セツリ位なら軽い。気にするな」
「……はい」
鼓動が速いのを感じる。呼吸も上手くできない。会話はなんとか上手くいったのに。
意識してしまうとますますおかしな調子になっていくような気がして、セツリは一度呼吸を止め、ゆっくりと浅く再開する。
ワルツの身体を抱きしめて自分の身体を擦りつけたい。そんな奇妙な感覚が、身体の内側を引っかくようにして存在している。冬の寒さに暖をとりたい、という類いものでもないようだ。
そもそも、自分は今寒さを感じてはおらず、逆に暑いくらいだ。
セツリは目を細めた。この感覚は一体なんだろう。
「どこか痛いんじゃないのか」
「い、いえ。どこも」
「目に涙が溜まっているが」「本当にどこも痛くありません」
「我慢するな。顔も赤い。熱でもあるんじゃないのか」ワルツはセツリの額に手を当てた。
「……ふ……っ」セツリは眩暈に似た感覚に体を襲われ、折りそうになった腕に力を込め直す。
「……っ、あのっ。駄目、駄目です……!」
ワルツの手を、セツリは力のこもらない手で半ば押しやるように離す。自分でその行為に驚き、伸ばした手を見つめる。
「大丈夫か。本当に様子がおかしい。さっき頭はぶつけなかったか」
「いえ……なんでもありません。……強いて言えば、自分の家人に男性はおらず、あまり男性にはなれていないもので。だからこのような不自然な態度になってしまうのでしょう」
早口に言って一息つく。そうだろう、と思い付きで言ってみたものの、セツリ自身にもなんとなく納得のいかない、しっくりこない説明だった。
「つらいなら私がセツリを動かして離れる」ワルツはセツリの腰に手を添えようとした。
「あ、や、やめてください……!
ワルツ先生に触られると……あの、なんというか」
セツリは気まずさに言葉を切った。この感覚は伝えてしまってはいけない気がする。呼吸を整えるようにゆっくりと深呼吸をした。
「とにかく、このままでいて、もらえませんか」
「構わないが」
「ありがとうございます」
時間が来た。別れ際、セツリはワルツを見上げた。
「あの、先程は失礼しました。これからも、見ていただけますか」
「ああ。別にあれくらいどうということはない。だが、なんというか、セツリには向いてないんじゃないか。こういう、武道、という程のものでもないな。行動的な分野は」
「自覚しています」
そう、自覚はしている。セツリはここに来るまでは能動的な行動とは無縁な生活を送ってきた。身体能力も、ここでの生活がはじまってから今までのおよそ九ヶ月、ほぼ毎日朝早くに体を動かすことで、やっと体育の課題をこなせるようになった程度だ。
「ですが努力すれば……っ」セツリは自分の食い下がるような必死さに、はっと息をのんだ。
「すみません。自分一人では何もできないのに」
セツリは唇を噛むように口を結ぶ。こんな歯がゆさなど知らなかった。自力で行動しようとすればするほど、自分の無力さを思い知る。
「自分は家出をしました。何にも立ち向かわずに、向き合わずに逃げた」
セツリは思う。今ならわかる、あの家出がそのまま成功していたら、私はすぐに連れ戻されていた。そもそも成功する可能性は限りなく低く、失敗する要素はいくらでもあった。手始めに、自ら飛び込んだ硬い路地に激突して死んでいたかもしれない。
自分があの家で巫女としてただ眺めながら、疑問を感じることなく見捨ててきた、黒い死の霧をまとった人々。
せめて、まだ見ぬこれから死に魅入られる運命にある人々を救いたい。生きるための赦しがほしい、そんな動機は不純かもしれない、自己満足でしかないのかもしれない。それでも。
「あの家から、母から、姉から逃げた自分が、存在してもいいという理由がほしい。もう、逃げたくないのです」
「そう気を張るな。『逃げたんじゃない、いつでも戻れるところに一旦置いて来ただけだ。自分で決断して行動したことだった』そう思っておくといい」
「は、はい……! ありがとう、ございます」
セツリは胸の内が暖かい何かで満たされていくのを感じていた。
これが、フルールがワルツに抱いている種類の『好き』という感情だろうか。




