生と死と乙女と愛の夢 2
セツリ達四人の少女がここに暮らし、およそ九ヶ月。
冬の早朝のクリアな空気と陽光に、中庭の色彩は鮮やかさを増していた。
セツリは白い息を吐いて走りながら花壇に視線をやる。ワルツはまだ来ていない。そろそろだろうか。花壇まで進み、そこから正面を向く。直線状に伸びるタイルの道の先にある、中と外を繋ぐ鉄製の扉が開く。ワルツが入って来るのが見えた。「ワルツ先生」セツリはやや大きい声で呼ぶと、扉に向かって走った。
「セツリ。おはよう」
「おはようございます。今日も、付き合っていただけますか」
「ああ」
およそ一ヶ月前から、セツリはワルツに護身術を教わっていた。セツリは本気で正義の味方になりたいと思っている。そのために、強くなりたい。誰に笑われても構わない。
ワルツに武道を教えて欲しいと言ったら、朝早く来る日、週一回程度に簡単な護身術なら、と承諾してくれた。今にして思えば、ワルツに武道の心得があることなど知らなかったのに、なぜいきなり掛け合ったのか。たまにセツリには自分で自分の行動の原理が理解できないときがある。だが直感のままに動いた場合の方が、頭で考えて動くよりも事がスムーズに運ぶようだった。
セツリは背筋を伸ばし直立する。目を閉じ、瞑想。そこから、体の内部を見るようにして、呼吸を正しく整える。足の一点に体重を掛け――――
「危ない」ワルツが呟くように言った。同時に、
「……!」セツリはバランスを崩して転びかける。
ワルツはセツリを受け止めた。勢いあまって二人はそのまま地面になだれ込んだ。ワルツはとっさに受け身を取る。
母は欠けた人だった。
母は、あの家の正当な血筋でありながら、世見の巫女であることができなかった。それは世見の力の有無などではなく、巫女の存在価値に起因する。
すなわち、あの家の権力を維持するための装飾としての価値の有無。
赤の巫女が要人に未来の一片を伝えることで、あの家は裏で政界の実権を握っていた。
ではその未来の欠片はどこから生まれるのかといえば、それは世見の巫女が紡ぎ出した予知などではなく、裏方に徹することを定められた分家が演算し組み上げた予測でしかなかった。
世見の力はとうの昔に途絶えていた。今となっては実際に存在していたのかすら疑わしい。
世見の巫女は代々真紅の髪を持つ。亜麻色の髪をした母には、巫女たらしめる理由が、生まれたときには既になかったのだ。冷遇されて育ち、己の祖父との間に儲け産み落とした念願の子女の頭髪を確認した母の絶望は、私にでさえ察して余りある。母は、姉を視界から消した。
「仕方がないわ。私を見ると、つらい過去を思い出してしまうのではないかしら」姉が言った。
私は母に、姉の分まで愛されていた。のだと、思う。何度も言われた「愛してる」の言葉。母が「セツリを愛している」という自身の気持ちを疑わないでいたならば、私は愛されていたことになる、のだろうか。……わからない。
姉は、自分を愛さない情緒不安定な母と、何も知らずにのうのうと巫女である妹の間……二人の子供の間で、常に大人だった。私の記憶の中で時間が経過しても色褪せることのない姉は、いつでも静謐な笑みをたたえている。私は姉の表情はそれしか覚えていない。いや、それしか知らない、見たことがない。穏やかで物静かな姉。
ある日、姉はたったの自分だけで自分を支えることに疲れ、自らの生と母の愛を諦めた。
元々身体が弱く儚い印象の姉は、急速に衰弱していった。
そして死してなお、静かな様を崩さなかった。
母は、姉の死を契機に私を見なくなった。
ただでさえ人目を避けるようにして私達家族の住む母屋から出ることの少なかった母は、さらに行動範囲を狭め、寝室に閉じこもることが多くなった。
そして日々は淡々と過ぎた。
久方ぶりに私と目を合わせたとき。母は、私がそこから目を逸らせなくなるほどの、混じりものの一切ない、喜びのみで作られた笑みと共に涙を流した。
そして私を姉の名で呼んだ。
私は一瞬気が遠くなった。だが、なんとか姉のような穏やかな微笑みを母に返した。
……返せていただろうか。
母は本当はあの家の赤を憎んでいた。私をも憎んでいたのかもしれない。母にとって私の存在は、正しくは、愛する娘ではなくあの家を見返すための道具だったのかもしれない。
そうだ。私は小さな頃から薄々感づいていたのだ。母が本当に愛しているのは、母とよく似た姉なのだと。
納得がいかなかった。どうして姉が生きているときに、その愛を姉に向けられなかったのか。
わからなかった。姉は私にどれほど心を許してくれていたのか。私には、母も姉も遠い。
……これら私と姉と母の有り様は、私が想像で補った架空だらけの虚構にすぎない。
真実は明かされない。
答えは出ない。
姉はすべてを見渡していたのかもしれないが、赤の私には計り知れない。母と姉のことだけではない。私にはきっと、これからも何一つわかることなどできないのだ。
私には神秘的な未来を見通す世見の力などないし、現実的な未来を予測する知恵もない。
自分が置かれていた過去でさえ正しく把握できていないこの有様だ。当時の私は自分を包む真綿のような暗澹の理由もわからないままに、家を出ることを決めた。
私を魔女として処刑する、という通達が届いたのはその直後だった。家出を決意する前だったなら、私はその運命を受け入れていただろう。決めた予定を覆す気には、最早ならなかった。
計画通り私は逃げ出した。母から。あの家から。私を縛る赤から。
私をつき動かしたのは生への愛着や執着などではなく、ニつの突発的な衝動。
一つは「このまま、まるで衣装の重みに身動きの取れない人形のように在り続けることはできない」という、ほとんど強迫観念めいた危機感。もう一つは「私の赤がなくなることで、あの家に関わるすべてが滅んでしまえばいい」という無責任極まりない破壊願望。
実際には私が消えたところでどれ程の影響があるものか。まだ幼く髪色も鮮明な赤ではないが、赤髪の女子も遠縁にいる。私の替わりなどはその幼子で事足りる。
敷地を囲む垣根には、しっかりとした樹木が植えられている場所もある。幸いというべきなのか、垣根近く、敷地の外れにある空き離れの屋根裏の窓から乗り移れる距離に、外に抜けるのに調度いい木があった。私は脱出を図った。
窓を開け放つと、星も月もない空の漆黒の足元に、明るい光を帯びる濃紺が見えた。明け白んだ青は徐々にその領土を広げていく。朝が夜を飲み込み始めていた。
「……魔女の……は…………が首を吊って…………つい今しがたらしい……見の…………」
おとぎ話か舞台か何かの話しをする声が外から聴こえていた。
曖昧模糊とした澱が滞る私の胸は、それでも同時に期待に高鳴った。
知らないおとぎ話や見たことのない舞台。これから私はそれらに自由に触れられるのだ。
そう、この家のことなど忘れてしまえばいい。
……その高揚は逃避と同義だったのだろう。自覚はなかった。
あの家は今、どうなっているのだろうか。「人の世を善くするための魔女の処刑」という名目上、私がいなくなったことで、私を匿っているでもない親族が変わりに罰を与えられる、ということもないだろうが……母は、どうしているのだろうか。
私は意を決して窓から木に乗り移った。家屋の三階相当の高さの木から飛び降りても、身体が勝手に一回転をして綺麗に着地できる、と。当時(といってもほんの九ヶ月前だが)の私は、そう信じて疑いもしなかった。敷地内から外出することを禁じられていた私の情報源は、少ない上にひどく偏っていた。家庭教師が教えるあの家に不都合のなく有益である知識と、道徳的な児童書に記された当たり障りのない絵空事。それしかなかったのだ。
街路灯の明かりを頼りに木から飛び降り、瞬く間に路面に衝突しそうになった私は、見知らぬ人物に受け止められて助かった。
「どうして世見の姫君が」
私を抱える男性はそう言った。頬で感じる、外套らしき衣類の布地のごわごわとした感触。
「空からお姫様が降って来るなんてロマンチックじゃない。ラッキー、王子様になっちゃえ」
少し離れたところで、はしゃぎ、はやし立てる声がする。
私の身体が揺れた。私を抱える男性が咳ばらいをした動きからだ。
「メトロノームなら運命的な出会いだと喜ぶんだろうがな」
男性は抑揚のない声で言った。私を助けてくれたその男性に感謝の言葉をかけようと顔を上げかけた瞬間、頭を押さえられた。柔らかい布が口元に当てられる。何か睡眠薬のような薬品を染み込ませたものだったらしい。私の意識は急速に薄れ途絶える。
そして目が覚めたときには、私は寮の、今は私の部屋となっている部屋のベッドの中にいた。
私の家出はただの一歩も踏み出されることなく、けれど現在もまだ続き至っている。