生と死と乙女と愛の夢 1
「いいえ」
自分の傍にいるセツリに、コトワリは枕に乗せた頭を静かに左右に動かした。
「わかるの。私にはわかるのよ。私の命は尽きかけている」
「そんなことは」
わかるはずがありません。言いかけて、セツリは言葉を切った。抜けるように白い姉の顔は今はさらに蒼白。姉の最期に備え、姉の周囲の空気が研磨され冷たく澄んでいくようだ。セツリは身震いをした。残りの限られた時間を嫌でも肌で感じさせられる。
「ええ。わかるのよ」事もなげにコトワリはセツリに笑いかけた。血の気のない青白い微笑み。
「母様と主治医を呼びます」
「いらないわ」セツリが動こうとするのを、コトワリはわずかに首を振って止める。「いいの。このまま心穏やかに眠りにつきたい」
セツリは胸を締めつけられるような気持ちになった。
なぜ私はここにいるのだろう。姉様は私がここにいることも、母や主治医と同じように望んでいないのではないだろうか。私は姉様の最期に偶然居合わせただけのものとしてのみ、ここにいることを許されている――――
「ああ、自分のときは、こんなふうに見えるの」
コトワリは自分の両手を眺め、窓辺の薄いカーテン越しに射す陽の光に片手をかざした。見えない誰かの手と自分の手を絡め、戯れるように動かすと、ふふっ、と笑い声を上げる。眩しそうに目を細めた。
「姉様には、ずっと人の死の際が見えていたのですか……」
「セツリさんはやっぱり察しがいいわ」
「なぜ黙っていたのですか」
「こんなことに何か価値があるの? だって、私では誰も喜ばない。世見の巫女はセツリさんだけで十分。いいえ、そうでなければならないわ」
セツリは言葉につまり、黙り込む。
確かに誰も喜ばないだろう。とくに母は。
セツリの考えを見透かしたように、コトワリは目を伏せた。髪色と同じ、淡い亜麻色の睫毛が目元に影を作る。
「それに……もしかしたらこの世界のどこかには喜んでくれる人が、私を必要としてくれる人がいるかもしれない。否定を見ずにそんな夢を見続けていた方が、幸せでしょう。夢を見ることは、私に許された数少ない自由だもの」
コトワリは微笑みの形のままの口元で、笑うようにため息をついた。
「……人の死が見えることを喜ぶ、という表現、口にするだけでも嫌なものね。……私にはこの家の慣わしの何もかもが痛みを強いてきているようだった。いっそどこかで染まることができなかったのかしら」
セツリは黙り続けていた。何を言えばいいのかわからなかった。
思えば、親しい間柄での気安い会話というものは自分には縁遠い。こうして姉の言葉を淡々と聞く自分は、この家の赤に染まりきっているということなのだろうか。
「でももういいの。生者の夢から目覚めるわ」
コトワリは空で遊ばせていた片手を、手を繋ぐような形にする。毛布の掛かる胸に、軽く握った手を置いた。
「連れていって」祈るような囁き。
セツリは思う。姉様にしか見えない『ルナ』が、そこにいるのだ。
「母様はきっと、姉様の死を悼みます」
「……先にいくね。セツリさん、生き生きと生きてから、ゆっくりとおいで」
コトワリは目を閉じ、頷くように頭を動かした。合わせて亜麻色の三つ編みが小さく揺れる。
コトワリは静かに、自分の糸が切られる瞬間を眺めていた人形のように事切れた。
――――これは過去の夢だ。朝が近い。
姉様の死の間際……あのとき、私はあんなにも残酷な言葉を、慰めているという図々しい意識も織り交ぜて、それと気が付かずに吐いたのだ。姉様は自分の死で母様の気を引きたかった
わけではなかったのに。きっと姉様は私の愚かしい考えすべてを見透かした上で、私に諦めの優しさを。
私はずっと、姉様が見ているルナというのは、姉様が心の内側に創った存在でしかないと思っていた。あの家に閉じ込められた姉様が創り上げた、空想の友達。だが、ルナは姉様の外側に本当に存在していたのだろうか。
私にも、いや、私では見ることができない、月の精霊。
もしかしたらルナというのは一個人の呼び名ではなく、いわゆる幽霊とされているものを総称しての呼び名だったのかもしれない。姉様は死後の世界を垣間見ていたのかもしれない。
そこで姉様は、私を待ってくれているのだろうか。
……今となっては何もわかりはしない。
私にはルナなんて存在はない。姉様以外には存在を認識できないのだから。
それでいい。私は世見の姫君などではなく、セツリでしかない――――
姉の死の夢。他人の死の夢。抽象的な死の夢……。
自分の死ぬ夢もたまにあるが、見た朝は夢に引きずられて体が動かなくなってしまう。今朝のものはそれではない。ではどの死だったかとセツリは思い返そうとしたが、もはやおぼろげにも思い出せないほど、記憶は急速にぼやけてしまっていた。
だが、どうせ明日も見るのだ。
物心つく以前からだろう、繰り返し反復される死の夢。
姉の死以降、頻度のさらに増えたそれを、今はほぼ毎夜見る。
セツリにとって死は身近なものだった。
セツリの家は代々続く預言者の家系だった。だが、その力はもう何代も途絶えていた。セツリは巫女として、ただ神妙な顔をして神秘的な雰囲気を醸し出して座っていればよく、あとは周りが勝手に神格化していった。世見の姫君。代々受け継がれてきたその呼び名。セツリが巫女でいることで利を得られる者は、セツリを姫と呼んだ。
……嫌な思い出だ。こんなものを思い出す必要はない。今の私は、魔女の娘のセツリでしかないのだ。
セツリは意識を切り換えるように頭を振った。
ここでの生活が始まってまだそう経っていない頃。
ティネットはあの頃からセツリによく話し掛けてきた。小さな体でちょこまかと動き回り、屈託のない、あどけない笑みで顔を一杯にして。翡翠色の双球を輝やかせて。
「ねーぇ。セツリってあの世見のセツリ姫?」
「いや?」
間髪入れずに出た嘘。
セツリは子供までが自分を知っているとは思っていなかった。聞けば「世見の姫君」は都市伝説のように認識されているという。出てしまった虚言を固めるために、セツリはその噂話に乗ることにした。事実、自分はもう世見の姫君ではない。
「実は私はセツリ姫に憧れていて、名前を借りたのだ。本当の名前をルナという」
「えぇウソぉ」ティネットは、騙されないもん、というように素っ頓狂な声を上げた。
「本当だ」
「ティのにぃさんがね、こっそり秘密を教えてくれたの。『セツリ姫は赤い髪をしたティよりちょっと年上のお姉さんだよ』ってぇ」
「ティネットのお兄様はセツリ姫に会ったことがあるのか?」
「うん」
「セツリ姫に謁見できるのは一部の限られた者のみと聞くが……。ティネットのお兄様は何者なのかね」
「にぃさんはすごいんだよぉ。世界を救おうとしてるのぉ」
セツリは首を傾げた。
世界を救う……ティネットの兄は施政者なのだろうか。
セツリは世見の姫君として会った様々な来客の中にティネットの兄の顔を見つけようとしたが、思いとどめた。見つけようがない。
セツリは来客については一切の情報を持たない。巫女の役目は、神の使いのような顔をしてただ座り、予言を詠むようにして、ただ記憶した文章を読むことだけだったのだから。
ティネットの兄の特徴を聞いたとしても、たくさんの謁見者の中から、ティネットの兄と思わしき人物は特定できないだろう。
「にぃさんはねぇ、魔法使いだから。だからすごいのぉ」
「魔法使い」
セツリはつい、ティネットから出た言葉を繰り返した。
世界を救う魔法使いにお姫様、とは……まるでおとぎ話だ。
ティネットの兄は、妹に物語のように世見の姫君の話をしたのだろう。自分の容姿はその物語のお姫様と偶然一致したにすぎないようだ。
「セツリにもね、もしかしたらいつか、にぃさんに会わせてあげるねぇ」
「ああ」頷いて流す。とにかく、とセツリは仕切り直した。「ティネットのお兄様が会ったというのはセツリではない。セツリはセツリ姫ではないからな」
「そっかぁ。しょんぼり」ティネットは意気消沈したように肩を落とした。
子供の夢を壊すようで忍びなかったが、真実を伝えたところで子供には理解できないだろう。
何よりセツリにはセツリの事情があった。
ティネットは親を失ってからずっと、歳の離れた兄と一緒だったという。セツリは、ティネットが自分に懐いてくるのは、自分の中に兄を見ているからだろうと踏んでいる。
今となってはティネットは、たまに随分と大人びた事を言うようになった。セツリから見ると、若干ませすぎではないかという程だ。
セツリは考えた。
ジュニパーの影響だろうか。彼女は現代的な年頃の少女、という印象だ。既に完成しているかのような美しさを有する容姿をしている。だが、なぜあんなに反骨精神に富むのか。まったく理解できない。
フルールは可愛い。素直で女の子らしい。髪型の種類が豊富で、栗色のつややかに流れる長い髪にいつもリボンをつけている。よく毎日髪型とリボンを選び手間をかけられるものだと思う。そういった点を見れば、フルールもジュニパーとは違う趣ではあるが、やはり年頃の少女、という印象だ。
セツリはいつも通り、朝の六時に目を覚ました。いつも通り夢を見た。慣れた数パターンある夢の内の、どれか一つだった。
セツリ以外の三人の少女は皆、母親を魔女狩り政策で失ったのだという。
セツリはそれを聞いたとき、自分も同じだというような顔をした。
自分は魔女としての処刑を定められるような存在ではない。母親がそうだっただけだ。
私は赤の過去を捨てる。
いつも通り纏わりつく仄暗い夢の残滓を意識することなく、セツリはベッドから足を降ろした。長い夜の冷たさを蓄えたままのスリッパに足を通す。