はぐれうさぎ と その迷宮 8
夕暮れの紅は流れ落ち始めた。代わって空には、夜の藍と、架かるたくさんの浮き雲。
遠雷がむずかるように鳴り響いている。
ワルツは自分を抱擁しようとするジュニパーを突き飛ばした。
「っ……!」
ジュニパーはよろけ、芝生に座り込んだ。ワルツに顔を上げ、どこか座った視線を据える。
血の味がする。口の中か唇か……いつ、どの拒絶の時に切れたのか。
「わるい、つい。大丈夫か」ワルツはジュ二パーを見下ろし、手を差し伸べた。 ジュニパーは、ワルツの手を叩き払った。「どうしてあたしじゃ駄目なの。アナタもママを。あたしよりママを選ぶの……!」
プライドを傷つけられた怒りにまかせて声を荒げる。
ワルツには、自分に向けて放たれた言葉の意味がよくわからなかった。いや、自分に向けられてはいるが、本当は違うようところに向けられているのでは、という気もする。
当のジュニパー自身にも、自分で自分の言っていることがわからなかった。
……あたしは馬鹿じゃない。ママが選ばれるのは当たり前、わかりきってる。あたしはママの添えものだった。それなのになんでこんな馬鹿げた言葉が。あたしは何を誰に言いたいの。
どうしたいの。
「仕方がないな」
ワルツの抑揚のない声で、ジュニパーは我に帰る。ぎくり、と顔を強張らせた。
ワルツがやっと浮かべたその表情は、今までジュニパーが見たことのないものった。
きっと、他の少女達も見たことがない。ワルツは、壁の内側で初めてこんな顔をしたんじゃないだろうか。そう、ジュニパーは頭の隅で思った。
ワルツは笑っていた。
少なくともジュニパーには笑っているように見えた。
だが、口元は緩んで笑みの形を作っているのに、目つきは冷ややかで、つまらなそうで。まるで飽きたお人形が床で散らかっているのを眺めるように、ジュニパーを見ている。
この男が初めて見せた目の色合い。これと似た色を、あたしは常に身近に感じていた気がする。あの街の雑多を混ぜ返したら、この色になるだろうか。
近いようで、けれどまったく異質のような、濃い深遠色。
ジュニパーには、ワルツの視線がまるで毒性の粘液が自分をからめ捕ろうとしているかのように感じられた。胸焼けのような悪寒が走る。
けれど、ここで引くわけにはいかない。自分が正しいということを、他の誰でもなく自分自身に証明するために。
ジュニパーは、何か得体の知れない不気味さを肌で感じつつも、そのいわゆる女の勘といわれるであろう第六感を、意識的に無視しようとする。
「はっ。ワルツ、アナタそんなカオもできるんだ」
挑発するように口元を歪ませる。精一杯に虚勢を張っているという自覚はあったが、要は相手に悟られなければいいだけだ。
ジュニパーは、自分が着ているブラウスのボタンを、指が震えないように注意しながら外し始めた。
「勝手に脱ごうとするなよ」
ワルツが発した言葉は、いつも通りの落ち着き払った大人の響きだった。なのに、まるで知らない男が発した、初めて聴いた声のようにジュニパーには感じられた。
ワルツが身を屈める。
そのまま覆いかぶさってくるワルツが作る影の内に、ジェニパーは収まった。
近い。
頭での単純な状況の把握に感覚が追いつくと、視界だけでなく体全体で感じる距離の近さに戸惑う。
ジュニパーの身体に、ワルツの身体が重なる。それはジュニパーの意図通りだった――――はずだった。ジュニパーは反射的に、跳ね退けようと腕に力を入れていた。
「いや……っ!」
だが腰から脚にかけて乗っている男は、力が届いてすらいないんじゃないかと思う程にびくともしない。
暗い視界の中、間近に迫る顔からは表情が読み取れない。
ジュニパーが身をよじろうと体にありったけの力を入れても、いくら拳をぶつけても、ワルツの動きにとっては何の妨げにもならないようだった。
「どきなさいよ……!」
振り上げた腕を取られ、ジュニパーは一瞬静止した。再び腕に力を精一杯込めるが、やはりびくともしない。
「今更それはないだろう」ワルツが耳元で囁く。
ジュニパーは身を縮こまらせたかったが、それも叶わない。
「私がやってあげるから、じっとしていなさい」
やってあげるって何を。ジュニパーが口を開こうとした瞬間、布がわずかに裂けた音。ボタンを外すまでもなく、乱暴に一気にブラウスを開かれた音だった。
「っ……!」
間髪入れずに、黒いレースのキャミソールがまくられる。
ジュニパーの自由になる腕での行動は、なんの役にも立たない。
ワルツを下から押していた腕が、諦めたように力無く芝生に投げられた。
「…………めて……」
ジュニパーの瞳から、堰を切ったようにぽろぽろと一気に涙が溢れ出す。
「や……て…………やめて……、たすけ……助けて、ママ……っ……ママぁ…………」
ジュニパーは、しゃくり上げながら呟きを重ねる。
やめて。助けて。ママ。
まるで、熱に浮かされた子供が悪夢のさなか漏らすうわ言のように、繰り返し、繰り返し。
どれくらいそうしていただろう。
どんなに引きはがそうとしてもまったく動こうとしなかったワルツは、いつの間にかジュニパーから離れ、まるで見守るように静かに見下ろしていた。
ジュニパーはワルツを睨みつけてやりたかったが、敵愾心よりも羞恥心が勝った。涙と鼻水で濡れた顔を、震える両腕で隠す。
怖い悔しい汚い醜い狡い……支離滅裂な思考と、感情の波。
そしてそのどれよりも心を占めるのは、今こうして一人のままいられることへの、途方もない安堵感。
そのことがジュニパーにとって何よりも屈辱的だった。
どうしてどうでもいい男に体を開くことさえできないの。どうしてこんなに苦しいの。どうして。どうしてどうして。苦しい嫌だ助けてよ―――― ああ。あたしは多分、頭がおかしい。きっと、ここは本当に病院なんだわ。魔女に心を奪われた、かわいそうな子供達を集めた。でも、あたし以外に壊れかけなんて、いやしない。あたし一人だけがおかしい。あたし一人が。
「ゃ……っ…………ゃだ、やだっ……どう……て…………ママ…………あたし……けにっ、し
な……で…………ママ……っ……た……て、たすけてよぉ……」
ジュニパーは、呼吸を荒げながらも呟くのをやめない。今、いま縋りつかないと、二度と母親に会えなくなってしまう。そんな恐怖感の支配。
あたしは今、ママがいなくなってしまうのが、どうしようもなく怖い。
……ああ、でも。わかってる。あたしは、もうわかってるのに。ママはもう、いないのに。
そう。ママは、残されるあたしに、愛を遺して死んだんだ。
ママがあたしを愛さなければ。
そうすれば、あたしは愛なんか知らなくて、こんなに寂しい気持ちを抱えたまま生きて行かずにすんだのに。