フルールの環 1
フルールはいつも通り、午前の七時少し前に目を覚ました。窓とカーテンの隙間から差し込む光から、今日の天気が晴天であることをぼんやりと予想する。
自身の体温の移る温かい布団に包まったまま十分程うとうとしてから、二度寝を誘う眠りの魔物を振りほどき体を起こした。ベッドから出て、部屋の出窓にかかる薄桃色のギンガムチェックのカーテンを開く。この時間特有の、まだ柔らかい光が部屋中に広がった。窓越しに、予想した通りのきれいな青空と、いつも変わらぬ鈍色の壁のコントラスト。
壁掛け時計を確認すると、針は七時十分過ぎを指していた。
「んん……」
フルールはまだ残る眠気を飛ばすようにけのびをすると、時計の下方に貼ってある当番表を確認した。食事、掃除、洗濯。フルールの今週の当番は、昨日見ておいた通りに、夕食と共有スペースの掃除だ。
うん、と小さく頷き、フルールは着替えを始める。
いつも余裕を持って用意しているはずなのに、気がつけば時間ギリギリになってしまう。日曜日を挟むことでリズムが崩れてしまうのだろうか。特に、月曜日は要注意だった。
フルールは自分にできる限りの無駄のない動きで準備を始めた。パジャマを脱ぎ、それをクローゼットのハンガーに掛け、隣のハンガーに掛けてある白いブラウスと黒いスカートを着る。
着替え終えると、壁に立てたコルクボードに刺したピンに一つ一つ飾るように掛けられている、髪をまとめるための色とりどりのリボンを選び始めた。リボンを黒目がちな瑠璃色の瞳でじっと見つめる。少し迷い、今日の気分でクリーム色のリボンを手に取った。
髪を結わうために、鏡台のある机につく。腰のあたりまで届く栗色の髪をニつに分けた。自分で髪を結ぶようになって、およそ一年。今ではきれいな二つ結びを作ることができる。
まだ馴れていない頃は、よく、どうにか形になった髪型を見たジュニパーに鼻で笑われ、セツリに身なりを整えろと注意され、ティネットに結び直してもらっていた。
それ以前、母親と暮らしていた頃は、母親が結んでくれていた。
「お母さん二つにして」「今日はお馬さんのしっぽがいい」「お団子できる?」そんな風にねだれば、母親は自分の前にフルールを座らせ、どんな注文にも慣れた手つきで応えてくれた。
背中から包まれるような温もりを懐かしみながら、大切な思い出ごと撫でるように、肩から流した髪に触れる。フルールの顔に浮かんでいたのは、愛おしむような微笑みだった。
フルールが両耳サイドで二つ結びにした栗毛を揺らして小走りに食堂に入ったとき、朝食はすでに始まっていた。
テーブルには湯気の立つ料理が並び、フルールと共同生活をしている三人の少女が、各々の席で食事をしている。三人ともフルールと同様に、白いブラウスと黒いスカートという出で立ちだ。
「お、おはよう……」
フルールはおずおずと朝のあいさつを口にする。ため息が耳に届いて、フルールはそちらを見た。
一束の三つ編みにした赤い髪を胸元に垂らした、無機的でどこか造り物めいた美しい佇まいの少女、セツリが意志の強そうな直線的な眉をひそめている。
「おそよう、フルール。三分の遅刻だ。さっさと座りたまえ」
おそよう、は朝遅刻してきた相手にセツリがよくかけるあいさつだった。鳶色の瞳がフルールを射抜くように見つめている。
「あっ、いんちょう。ごめんなさい……」
フルールは萎縮して、つい謝ってしまう。部屋を見回し、入口から一番近い空いている椅子、セツリの斜め向かいの席に座った。
「今日はなんだ?」セツリはフルールに遅刻の理由を、あきれたように尋ねた。
「ええと、部屋を出てから靴下を履いてないことに気付いて、どうしようか迷って、やっぱり履こうと思って自分の部屋に戻ったら、遅れちゃったの……」
フルールはしどろもどろになりながら理由を話した。
「ふふっ」
たどたどしいフルールの言葉を聞いて、かわいらしく首を傾けて無邪気に笑い声を上げたのは、蜂蜜色のふんわりとしたショートボブの髪にカラフルな飾りピンをいくつも付けた小柄な少女、ティネットだった。ピッチャーを傾けてグラスにミルクをそそぎ、フルールに屈託のない笑顔を向けた。翡翠色の真ん丸な瞳が、今は楽しげに細められている。
「靴下くらいなら、気付かない方がよかったかもねぇ。ブラウスとかスカートならともかく。
はぁいどぉぞ」
フルールは、向かいの席に座るティネットから、ミルクの入ったグラスを両手で受け取った。
「ありがとう。今日の朝はティネットちゃん?」
「そだよぉ。クリームリゾットでぇす」
「おいしそう」
食卓には、リゾットの他にも野菜サラダとウサギ型に切られたリンゴが並んでいる。
「うむ。今回も実に美味だ。ティネットはいい嫁になる」
「お嫁さん?」ティネットがまばたきをする。ふにゃっと頬を緩ませ、「わぁい。セツリのお
嫁さぁん」
「セツリのではない」
「あるよぉ」
にこにこしていたティネットだったが、何かひらめいたように「あっ」と声を上げた。フルールに視線を合わせる。
「お嫁さんで思い出したぁ。ワルツ、朝ちょっとだけキッチンに来たよぉ」
「えっ。でもワルツさん、今日は午後からだって……」
フルールは、なぜお嫁さんでそんな話になるのかも訊きたかったが、逆にこちらが恥ずかしいと思っている部分を突かれそうなので、訊かないことにした。
「そなの?」ティネットが首を傾げた。
「うん。みたいだった。あ、えと……あの……この前、偶然会ったときに聞いただけ、なんだけど」
フルールは、なぜ自分が不定期に外からやって来る青年の予定を知っているのかを訊かれる前に、慌てて付け足した。
「あ。ワルツのこと気になる?朝、呼べばよかったかなぁ。ティお気が利きませんでぇ。あとはお若い方々でぇ?」ティネットが楽しそうに笑む。
「ティネット。人の恋路ではしゃぐのは感心しないな」言ってセツリは、自分の向かいの席で会話に入らずに食事をしている少女に視線を合わせた。「ジュニパーも、鼻で笑うのはよしたまえ」
「やっ、ティネットちゃんも、いんちょうも……ニ人とも変な言い方しないで。そんなこと、ない……」
気になるとか恋とかそんなこと。と、消え入りそうな声でフルールはつけ足す。
「はしゃいでないよぉきゃっきゃっ。恋とか愛とかぁふんふんふーん」
ティネットが、適当な言葉を適当な音階に乗せて即興で歌い始めた。
「やめて……!」フルールの顔はもう真っ赤だった。
「しかしフルール。君は確か十三歳だろう。想うのは自由だが、分別等は弁えたまえ。何せ君はワルツとは歳が一回りは離れている。セツリが推測するにワルツはすでに成人であり、」
「んもぉ。いんちょはご飯食べてなよぉ。耳ふさいでてあげるぅ」
言葉を続けようとしていたセツリを、ティネットが遮る。隣の席でセツリの耳を両手で押さえた。
「む」セツリは不服そうにしながらも、サラダにドレッシングをかけ口に運ぶ。
ティネットは目を輝かせてフルールに身を乗り出した。
「聞きたい? ね、朝のこと聞きたい? さっきも入って来て、ワルツいるかきょろきょろしてたしぃ」
「知らない……っ。い、いただきます」フルールはスプーンを持ち、両手を合わせた。
平然を装おうとするが、ティネットに指摘されたことで自分がワルツを無意識に探していたのに気付かされ、内心ではさらに動揺していた。耳が熱い。今日は髪を結ばなければよかった。少し後悔したが、どのみち髪を下ろすくらいでは、顔が赤いのまでは隠せないだろう。
カチャリ、と横で硬質な音がした。
「ごちそうさま」
フルールの隣の席で、ジュニパーが砂色の緩やかに波打つ髪をかき上げる。音は、彼女が食器をやや乱暴にトレイ上で重ねたときのものだった。
ジュニパーはしなやかに組んでいた足を解くと、すっと立ち上がる。
「ジュニパーもういいの? ウサギさんはぁ?」ティネットがリンゴを指差す。
「結構よ。アナタ達の賑やかな声でお腹一杯だから」
「声で腹が膨れるはずがなかろう。君は仙人か何かなのかね」
目を見開いて声を上げたセツリを、ジュニパーはだるそうに無言で見やる。
ティネットはジュニパーが返事をする気がないのを察し、さりげなくセツリに囁いた。
「いんちょ、冗談だよ今のぉ」
皮肉だったんだけど。しかもこっちにまでしっかり聞こえてるわよ。思いながら、面倒なので黙ったままジュニパーは食器を持った。
「セツリには冗談は通じないのだよ」
セツリは尊大に胸を張った。立ち上がり、ジュニパーの肩に手を置く。
ジュニパーは素早く身体を引いて、セツリから間を取った。
「そうみたいね。でも元からアナタには言ってないのよ」ジュニパーはティネットに顔を向け、
「ティネット、ごちそうさま」言ってそのまま食器を流しに運ぶ。
ティネットは笑顔でひらひらと手を振った。
「おそまつさまでしたぁ」
少女達は、気が付けばこの、壁のような高い塀に囲まれた建物にいた。きっかけらしいものも予兆もなく、ある朝この建物でふと目覚めたそのときから、四人での共同生活は始まった。
そして、そのはじまりの出会いからおよそ一年が経つ。
ここでの規則正しい暮らしに変化はない。
誰がなんの目的で自分達をここに住まわせているのかを知る者は、四人の少女の中にはいない。不自然な状況この上ないが、贅沢を望まなければ物質的な不自由さもない。
代わり映えのない生活は、穏やかに続いていた。