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第一章「シンデレラ」

 新宿。百貨店の一階。化粧品と香水が並ぶフロア。


 大理石の床に反射する蛍光灯の光が、私の網膜を突き刺している。


「本当に、申し訳ございませんでした」


 私の口から滑り出たその言葉は、一切の感情を含んでいなかった。


 深く頭を下げた私の視界の端では、黒いパンプスが、苛立たしげに揺れている。


 私の斜め前に立つ先輩社員ヒステリックババア


 その口元には、完璧に輪郭を取られた真紅のリップが、不機嫌な弧を描いて歪んでいた。


「黒田さん。あなた、もう三年目よね? なんでこんな初歩的なミスが起きるわけ?」


「はい。私の確認不足でした」


「お客様にご迷惑がかかったらどうするの? あなたのそのヘラヘラした態度、前から気になってたんだけど」


 理不尽な叱責が、頭の上から冷水のように浴びせられ続ける。


 在庫の数を数え間違えたのは、私の背後で息を潜めている後輩のミスだった。彼女が発注書に入力する数字を一つ見誤り、そのままシステムに登録してしまったのだ。そして、このお局は、ターゲットとして私を選んだ。


 後輩のミスだと説明することはできた。でも、それをしたところで、矛先が後輩に向いてしまう。それか「後輩の指導もできないあなたの責任」として、さらに炎上するかのどちらかだ。


 だから私は、「申し訳なさそうに反省している正解の顔」をした。


 すべての責任を被るという、最も手っ取り早い手段。口角を微かに下げ、眉間にほんの少しだけ皺を寄せる。目は絶対に合わせず、絶妙な角度でうつむく。


 百貨店のBAとして三年間で培った、最も醜悪で、最も役に立つ技術だった。


「……もういいわ。今日で最後だからって、気抜かないでよね」


 吐き捨てるようにそう言い残し、先輩はスタスタとバックヤードへ消えていった。背後にいた後輩が泣きそうな声で呟く。


「黒田さん、すみません……私のせいで」


「いいのいいの。気にしないで。私、今日で辞めるんだし」


 腹の底でどろどろとした黒い感情が渦を巻いていた。ふざけるな、と叫びたかった。それでも、私の頬は勝手に「優しい先輩の笑顔」を作ってしまう。


 他人に定義された「感じの良い黒田さん」を演じ続けることに、私はもう、限界を迎えていた。


 ロッカーで着替え、裏口から外に出る。今日で退職だというのに、解放感よりも、得体の知れない虚無感が全身にまとわりついていた。


 この三年間は、何の意味も無かった。ただ他人の機嫌を取り、怒られないように立ち回り、自分の本音を押し殺し続けただけの時間。


 満員電車に揺られ、最寄り駅からマンションまで歩く。足取りは鉛のように重く、吐き気すら付きまとっていた。


 自室のドアノブに手をかけ、鍵を開ける。その瞬間、私の中で張り詰めていた何かが、音を立てて千切れた。


 私はカバンを床に乱暴に投げ捨てた。中から化粧ポーチや財布が転がり出たが、拾う気にもなれなかった。這うようにしてリビングへと向かい、そのままベッドに倒れ込む。


「あーっ……!!」


 声にならない叫びが、喉の奥から絞り出される。髪を掻き毟り、シーツに顔を押し付けて、私は狂ったように身悶えした。


 シーツに染み込んだ汗の匂いと、制服にこびりついた百貨店の香水の匂いが混ざり合っていた。


 その日から、引きこもる日々が始まった。昼間は閉め切った暗い部屋で、死んだように眠り続けた。そして、夕暮れ時、泥のような身体を引きずって目を覚ます。


 ベッドの上に寝転がったまま、スマホの画面をスクロールするだけの時間が何時間も続く。


 SNSを開けば、かつての同僚たちが新しいコスメの写真を上げている。大学時代の友人たちが、結婚や転職の報告で盛り上がっている。皆、私を置いて、光の当たる場所で正しく前へ進んでいた。


 その光景を見るたびに、自分の輪郭が少しずつ削り取られ、世界から透明になっていくような気がした。


 ふいに、画面の上部に、LINEの通知が表示される。


『燈、元気? 』

『最近連絡ないけど、ちゃんと食べてる?』


 姉の瑠依からだった。

 

 瑠依は、舞台やテレビで活躍する女優だ。


 顔も要領も良く、誰からも愛される完璧な「できる姉」。私は物心ついた頃から、常に彼女と比較され続けて生きてきた。


 私は既読をつけることすらできず、画面を伏せた。


 誰も私を必要としていない。


 誰の記憶にも、私の居場所はない。


 ハローワークで手続きした雇用保険のわずかなお金で、ギリギリ命を繋ぐだけの無意味な日々。


 こんな状態がいつまで続くのか。


 いつか終わらせなければならない日が来ることは、自分が一番よく分かっていた。


 ある夜、時刻が午前二時を回った頃。


 何日もまともな食事をしていない胃袋が、空腹を訴え始めた。私はベッドから這い出し、シワだらけのパーカーを羽織った。


 財布と鍵だけを持って部屋を出る。


 マンションから歩いて数分の場所にあるコンビニエンスストア。


 自動ドアが、無機質な音を立てて開く。百貨店の光と同じ、嘘くさくて冷たい光。


 私はカゴを手に取り、棚の間を亡霊のように彷徨った。手当たり次第に、カロリーの塊をカゴに放り込んでいく。


 カップ麺の油そば。シュークリーム。フライドチキン。そして、エナジードリンク。


(夜中に、こんなもの食べたら絶対に太るなぁ……)


 肌も荒れるし、自己嫌悪が加速するだけだ。分かっている。けれど、今の私には、油と砂糖という心の栄養が必要だった。


 パンパンに膨れ上がったビニール袋を提げて店を出る。袋の持ち手が指に食い込む痛みが、私が生きているという証明をしている。


 マンションに戻り、エレベーターに乗り込む。


 四階に到着し、扉が開く。外廊下に出ると、夜風がひんやりと頬を撫でた。私はふらふらと、外廊下の柵へと歩み寄った。


 手すりに両手を預け、眼下に広がる夜の街を見下ろす。じっと下を見つめていると、奇妙な感覚に襲われた。


 地面が、私を呼んでいるような気がしたのだ。


 ここから足を滑らせたら、どうなるだろう。


 四階。落ちれば死ねるだろうか。それとも、中途半端に骨を折って、一生ベッドの上で他人の世話になりながら生きていくことになるのだろうか。


 どちらにせよ、私が抱えている苦しさからは、解放されるかもしれない。


 もう、誰かに愛想笑いをしなくていい。


 怒られないようにビクビクしなくていい。


 完璧な姉と比べられなくてもいい。


 ただ、この柵を越えれば、すべてを終わりにできる。


「あんまり下ばっかり見てると、本当に落ちるよ」


 真横から声が聞こえた。驚いて顔を向けると、一人の女性が立っていた。


 隣の部屋の住人だった。挨拶程度しか交わしたことはなかったが、その容姿は、一度見たら忘れられないほど特徴的だった。


 光を編み込んだような、美しい金髪に鋭く切長な目。身長は私より少し高く、黒いシャツに細身のパンツというシンプルな装い。


(綺麗な人だなぁ……)


 自分が死の淵に立っていたことも忘れ、私はぼんやりとそう思った。


「……こんばんは」


 喉に張り付いたような声で、私はかろうじて挨拶を絞り出した。


 彼女は私の手にある、コンビニの袋を見た。そのまま、涙と皮脂でぐちゃぐちゃになった私の顔へ視線を向ける。


「ひどい顔してるね。それ、ご飯?」


 反射的に袋を体の後ろに隠そうとしたが、遅かった。


「あ、えと……はい。なんか、無性に食べたくなって」


「それ食べて、吐いて、また泣くつもりなら、やめといた方がいいよ」


 すべてを見透かされている。私がこの袋の中身で自分を痛めつけようとしていることすら、彼女にはお見通しだった。


 彼女は小さく溜息をついて、私の手を取り歩き出した。


「降りるよ」


「え?」


「ちょっと付き合って。その袋の中身よりは、マシなもの出してあげる」


 逆らう気になれず、私は再びエレベーターに乗り込んだ。


 マンションの裏手。細く薄暗い路地を入った先に、重厚な木のドアがあった。小さなプレートが掲げられており、そこに細い筆記体で店名が刻まれている。


『Melancholia』


 メランコリア。憂鬱。


 今の私みたいだな、と心の中で毒づく。


 彼女はポケットから鍵を取り出し、ドアを開けた。


 中に入ると、そこは小さなバーだった。琥珀色の間接照明が灯り、無垢材のカウンターを照らしていく。


「適当に座って」


 彼女はカウンターに入り、慣れた手つきでグラスを準備し始めた。


 私は戸惑いながら、目の前の席に腰を下ろした。


「あの……私、お酒、あんまり飲めないんです」


 この期に及んで、私はまだ「客としての正解」を出せないことに申し訳なさを感じていた。


 バーに来て酒が飲めないなんて、迷惑以外の何物でもないだろう。


 しかし彼女は、グラスに氷を滑り込ませながら、気にする風でもなく淡々と答えた。


「知ってる。そんな顔してるから」


 ボトルの液体が次々とシェイカーに注がれていく。シャカ、シャカ、と規則正しいリズムを聞いているうちにカラン、と氷が鳴り、淡い黄色の液体が注がれたグラスが、私の前に置かれた。


「はい、これ。うちでは、お酒が飲めない人のことを『シンデレラ』って呼ぶんだよね」


「……シンデレラ」


「そう。魔法が解ける前に帰らなきゃいけないから」


 そう言って、彼女は初めてほんの少しだけ目元を緩めた。


「私は、九条月乃くじょう つきの。ここの店主」


「……黒田燈くろだ あかりです」


 名乗った後、私は両手でグラスを包み込むようにして、口をつけた。


 柑橘の爽やかな酸味と、優しい甘さが、荒れ果てた胃の粘膜に染み渡っていく。喉を通るたびに、私の中に溜まっていた黒い泥が洗い流されていくような気がした。


 しばらくして、月乃さんがグラスを拭きながら口を開いた。


「黒田さんさ。うちでアルバイトでもしてみる?」


「……え?」


 予想もしていなかった言葉に、私は間抜けな声を漏らした。


 ついさっきまで飛び降りようとしていた人間に向かってかける言葉ではない。


「昨日、新人くんが辞めちゃってさ。洗い物と、簡単な接客ができる人が欲しいんだよね」


「でも……私、お酒詳しくないし、接客も正直苦手で……」


「別に、今すぐ立派なバーテンダーになってくれなんて言ってないよ。合わなかったらすぐ辞めてもいいから」


 月乃さんは静かな声で続ける。


「前の会社、月何万ぐらい貰ってた?」


「えっと……二十三万ぐらいです……」


 私が戸惑いながら答えると、彼女は少しだけ宙を見て計算するような素振りを見せた。


「あー、うちでもシフト次第で同じぐらいは出せるかな。時給千八百円スタートでどう?残業代も出すし」


 私がどれほど深く傷ついていようが、どんな凄惨な事情を抱えていようが、彼女はそれを根掘り葉掘り聞き出そうとはしなかった。


 ただ、「私には労働力が必要で、あなたには明日を生きるためのお金と居場所が必要だ」という事実を提示している。


 気がつけば、私の首を絞めつけていた死の気配が、薄らいでいた。


 私はグラスの底に残った氷を見つめた。


 ここなら。


 空っぽのままの私でも、もう一度──。


「……やります」


 私は顔を上げ、愛想笑いではない自分の顔で、月乃さんを見た。


「働かせて、ください」


 月乃さんは少しだけ驚いたように目を瞬かせた後、薄く、口角を上げた。


「じゃあ、採用で。よろしくね」


 それが、私と夜の住人たちとの、日々の始まりだった。

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