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春ひらく

 息を飲んだ。空気が喉を鳴らす。汗が滲んだ手のひらを洋服の裾で拭った。

 小さなポシェットを覗けば、二枚のチケットが堂々たる態度で占領していた。


「言える、言える」


 小声で自分を励まして、顔を上げる。桜並木に面したカフェテラスは、まだおやつ前のおかげか人が少なかった。


 ふいに先輩の姿が見えた。きょろきょろと探すように顔を動かしている。目があって、急いで手を上げた。心なしか安堵の表情で駆けてくる。


「お待たせ。ごめんね、呼んだのに講義が長引いちゃって」

「いえ! 全然待ってないです!」


 思いばかりが先走って嘘をついた。先輩は何も知らない顔で、そうなのと首を傾げる。こくこくと頷いて、気の利いたことの言えない必死さに気まずくなった。

 こういうときこそ、今来たばかりだとでも言えばいいのに。

 ため息を吐きたくなる。


「もう何か頼んだ?」

「あーいえ、まだです。迷っちゃって」

「そっか。私も何にしようか迷うなー」


 広げたメニュー表を睨んで、考える姿を眺める。また、嘘をついた。本当は迷ってなんかいないのだ。今は何を飲んだって味などわからないのだから。


「あ」


 さらりと落ちた髪の毛が文字を隠した。溢れた声に、不思議そうな視線が問いかける。


「えっと、これ、これにします」


 ぱっと指差したのはデカ盛りウルトラシャイニーコーヒーの文字。生クリームをデカ盛りにしたウインナーコーヒー。その下に続く文章で心臓が跳ねた。顔が赤くなった気がして、じわじわと指をスライドさせる。何食わぬ顔を作って口を開いた。


「この当店オリジナルコーヒーにします」 

「へぇ、いいじゃん。私もそれにしよう」


 ほっと安心で肩の力が抜けた。ばれてない、はず。流れるように呼び鈴を鳴らして、注文をする。運ばれたコーヒーのアイスは先輩で、ホットは自分。講義の内容を聞かせてくれる先輩の言葉に相槌を打つ。ゆったりとした時間が流れて、忘れかけていたチケットに手を伸ばした。


 乾いた喉にコーヒーを一口流し込む。温かなコーヒーが緊張を少し、和らげた。口を開いて、閉じる。気づかれないように、静かに息を吐いて先輩を見る。

 目が合った。

 目の前に座っているのだから、当たり前だというのに、どうしようもなく緊張する。

 一口、二口。飲んだばかりだというのに喉が渇いて、誤魔化すようにコーヒーを流し込んだ。当店オリジナルだと謳っていたのに、やっぱり味はよくわからなかった。


「あの!」


 震えた声が大きくなった。コーヒー飲んでいた先輩の肩が跳ねて、思わず口を手で覆う。恐る恐る手を外して、ポシェットからチケットを取り出した。


「今月までの映画のチケットがあるんですけど、一緒に行きましぇんか!」


 噛んだ。名刺のように両手で差し出したチケットの勢いに先輩が少し仰け反った。先輩がぱちぱちと瞬きを繰り返す。それ以上に心臓がうるさく主張を始め、顔が熱くなった。

 大事な言葉だったのに。

 嚙んでしまった事実を押し流すように、喋り続ける。


「えっと、近くの映画館でならどの作品でも使えるんですけど、今週末とかどうですか? あ、別の日でも全然いいんですけど、有効期限があって今月までで、ってこれさっきも」

「いいよ」


 捲し立てる勢いの言葉が遮られる。ぐちゃぐちゃに絡まった線をパチンと切るような声だった。

 今、なんと言ったのだろう。

 ぼんやりと先輩を見た。淡いピンクが視界を横切り、ひらひらと舞い落ちる。ゆっくりと感じる十秒にも満たない間の中で、ようやくそれを理解する。


「本当ですか!」


 思わずテーブルに乗り上がる。先輩は目をまあるく見開いた。

 あ、と思ったときには遅く、視線を反らしてすごすごと座り直す。すみませんと小さく言葉にして一拍、先輩は面白そうに笑みを浮かべた。


「うん、いいよ。何を観ようか」

「え、あ、せ、先輩は何が……?」

 

 聞き間違いじゃない。

 嬉しさと驚きが入り混じって、語尾が崩れた。しっかりしないと。謎の使命感に駆られて、下がっていた視線をあげる。声が音になる前に、先輩が静かに目を閉じた。


「私? そうだねぇ」


 喋ろうとして失敗した。バレないように慌てて口を閉じる。タイミングがズレただけなのになんとなく、恥ずかしい気がした。


 頬杖をついた先輩の、すらりと細長い人差し指が秒針のリズムを刻む。

 十秒、二十秒。いや、時間にしてほんの数秒。ドクドクと鳴る心臓が一層大きく聞こえた。長いまつげがピクリと動く。


「君となら、何でもいいかな」


 細められた目が揶揄うように弧を描く。

 心臓から熱が侵食する。はくり、いつの間にか音にすらならない声を上げていた。


 「映画、君が決めておいてね」


 ひらりと翻して、去っていく後ろ姿をぼんやり眺める。

 マグカップを手に取った。湖に浮かぶ船みたく居座る桜を避けて、マグカップへ口をつけた。温かかったコーヒーは、僕の熱をゆっくりと冷ますようだった。

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