「我思う、ゆえに我あり。」
こんにちは。
青春なんて縁のないと思っていた主人公が、
ある日突然、そのど真ん中に立たされる物語です。
これは「観測する側」にいた青年が、
「観測される側」に回ってしまう話。
少し哲学めいたSF青春ラブコメです。
「我思う、ゆえに我あり。」
デカルトはそう言ったらしい。
考えている限り、存在は否定できない。
便利な言葉だ。
少なくとも、俺みたいな人間には。
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11月3日(月)
綾瀬十宮、宮代大学二年。
二年生というのは、ちょうど何者でもない。
一年生ほど初々しくなく、三年生ほど焦ってもいない。
目立たないし、目立とうともしない。
少し斜めから世界を見ていれば、大体のことはやり過ごせる。
そう思っていた。
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コンビニ。
「ポイントカード、登録されていませんね」
「してます」
もう一度かざす。
ピッ。
「該当データがありません」
……まあ、バグだろ。
俺の人生よりアプリのほうが信用できるってのもどうかと思うが。
現金で払う。
特に困らない。
それで終わり。
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11月4日(火)
講義室。
出席。
教授が名簿をめくる。
呼ばれるはずの、間。
ページがめくられる。
次の名前。
……まあいいか。
出席なんてそこまで重要じゃない。
わざわざ訂正するほどでもない。
少しだけ、胸に引っかかる。
でも無視できる程度だ。
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11月5日(水)
ゼミ。
後ろから声をかける。
「来週発表だよな?」
肩越しに。
距離は一メートルもない。
一瞬、空気が止まる。
ほんのわずか。
それから、笑い声が続く。
俺の言葉を跨いで。
俺を挟まずに。
聞こえてない?
いや、聞こえたはずだ。
「……おい」
小さく足す。
返事はない。
会話はそのまま流れていく。
喉がじわっと乾く。
嫌われてる?
それならそれで分かりやすい。
でも、違う。
嫌悪でも、拒絶でもない。
ただ――
“いない”みたいな扱い。
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11月6日(木)
講義終わり。
キャンパスを出る。
夕方の風が少し冷たい。
ふと、立ち止まる。
最近、俺の名前って呼ばれたか。
目、合ったか。
返事、返ってきたか。
……思い出せない。
ゼミ。
講義。
コンビニ。
ポイントカード。
名簿。
声。
どれも、少しずつ、引っかかる。
胸の奥が、じわっと冷える。
ポータルサイトを開く。
ID。
パスワード。
エンター。
《アカウントが存在しません》
……は?
もう一度。
入力し直す。
エンター。
同じ。
指先が、少し汗ばんでいる。
キャッシュか?
入力ミスか?
三回目。
同じ。
画面の白さが、やけに眩しい。
息が浅くなる。
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駅。
気づけば、足がそっちに向かっていた。
夕方の人波。
音。
匂い。
ざわめき。
わざと肩をぶつける。
「すみません」
返事がない。
振り向かない。
もう一度、今度は正面に立つ。
視線が、通り抜ける。
まるで、そこに空気しかないみたいに。
喉の奥が、ひゅっと鳴る。
嫌われている?
違う。
避けられている?
違う。
もっと、嫌な感じだ。
俺は、
ちゃんと、ここにいるか?
心臓が早い。
「おい」
聞こえない。
「なあ!」
誰も振り向かない。
記憶を必死に遡る。
俺は最近、ちゃんと見られていたか?
名前を呼ばれたか?
思い出せない。
怖い。
「誰か……!」
膝から力が抜ける。
視界の色が、ゆっくり抜けていく。
——我思う、ゆえに我あり。
思ってる。
考えてる。
いるはずだ。
なのに。
俺は――
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ガコッ!
痛ったっっ!
額を机の天板にぶつけた。
一瞬、呼吸が止まる。
ざわめき。
視線を感じたような…
いや、気のせいかもしれない。
制服の擦れる音。
ゆっくり顔を上げる。
見覚えのある教室。
低い天井。
窓際の席。
黒板。
視界がまだ少し揺れている。
上の隅。
【5月25日(月)】
……は?
5月?
ついさっきまで11月だったはずだ。
机。
椅子。
制服。
窓の外のグラウンド。
全部、見覚えがある。
高校二年の教室。
喉が乾く。
タイムリープ?
いや、そんなわけ。
でも。
ここは、確かにあの教室だ。
黒板が揺れて見える。
大きな文字がいくつも並んでいる。
【応援団】
【100m】
【騎馬戦】
【玉入れ】
……体育祭?
文字を目で追うだけで、意味が追いつかない。
名前が一つ、また一つ、埋まっていく。
白いチョークの粉が、舞う。
空欄が減っていく。
俺は少し引いた位置から、それを見ている。
ああ。
この感じ。
関係ない顔。
「まあ俺は別に」って顔。
高校のときから俺は、
ずっと、こうだったな。
なにもしない。
なにも選ばない。
気づけば、俺の入る余白はなくなっている。
先生の声が響く。
「じゃあこれで最後な!」
最後。
その単語が、妙に重い。
さっきまでの白い視界が、ほんの一瞬、よぎる。
人混みの中。
目が、合わなかった。
名前が、呼ばれなかった。
声が、返ってこなかった。
空欄。
空気。
胸の奥がひゅっと縮む。
考えるより先に、右手が上がっていた。
「……俺、やります」
言ってから、少し遅れて理解する。
何に?
教室が、一瞬だけ静まる。
視線が集まる。
今度は、分かる。
見られている。
心臓が跳ねる。
「え!?」
「綾瀬!?」
「マジで?」
そんなに驚くことか。
いや、たぶん驚くか。
俺は出ない側の人間だった。
「おお!綾瀬やってくれるか!」
先生がチョークを持つ。
黒板の右端。
さっきまでぼやけて見えていなかった列。
【クラス対抗選抜リレー】
その下に、四つの欄。
第一走者
第二走者
第三走者
アンカー
アンカーだけ、まだ空いている。
嫌な予感が、遅れて追いつく。
チョークが走る。
【アンカー:綾瀬】
……は?
待て。
待て待て。
後ろから声。
「終わったな」
「うちのクラス終わったな」
おい聞こえてるぞ。
黒板に、俺の名前がある。
ちゃんと、そこにある。
消えてない。
……見られている。
だけど。
代償、重くないか?
俺は存在証明を引き換えに、リレーのアンカーになってしまった。
よりにもよって、最後。
一番目立つ場所。
一番逃げられない場所。
……なんでよりによってそこなんだよ。
第1話を読んでいただきありがとうございます。
ここから少しずつ、
“観測する側”だった主人公が動き始めます。
よろしければ、続きをお付き合いください。




