第8話 最強の社畜コンビが誕生したので、ついでにデート(という名の市場調査)の予約を入れられました
私の新しい日常は、一言で言えば「戦場」だった。
ただし、オラントの尻拭いのような泥沼の戦場ではない。
もっと高度で、鋭利で、洗練された――知性の最前線だ。
「レイラ。東方諸国との関税撤廃案についてだが、第14条の解釈が隣国と食い違っている。再交渉のテーブルに着くための理論武装が必要だ」
執務机の向こうから、イグニス殿下が書類の束を差し出した。
私はそれを受け取り、パラパラと目を通す。
膨大な資料だが、要点はすぐに掴めた。
「……隣国は『物品』の定義を拡大解釈し、魔道具まで免税対象にしようとしていますね。これを認めれば、我が国の魔道具産業は価格競争で壊滅します」
「その通りだ。私の見解では、第8条の『魔法資源保護法』を盾に拒否するのが最善手だが、どう思う?」
「それだけでは弱いです。相手国は『文化交流』という美名を持ち出して世論を味方につけるでしょう。……ですので、第8条に加えて、第22条の『安全保障上の輸出規制』をカードとして切るべきです」
私はインク壺にペンを浸し、その場で修正案を書き殴った。
「高出力の魔道具は兵器転用が可能です。これを無制限に流通させることは、両国の安全保障に関わると主張すれば、相手も強くは出られません」
「……なるほど。『平和維持』という大義名分で、相手の『文化交流』を封じ込めるわけか」
イグニス殿下が、私の書いたメモを見て、口元を歪めた。
それは冷徹でありながら、どこか楽しげな笑みだった。
「素晴らしい。私の思考の、さらに半歩先を行く解答だ。……採用する」
彼は即座に決裁印を押した。
議論開始から、わずか3分。
通常なら会議で数日は揉める案件が、私たち二人の間では瞬きする間に解決していく。
気持ちいい。
脳髄が痺れるような快感だ。
オラントの時は、言葉の意味すら通じずに説明だけで一日が終わっていた。
けれど、ここでは違う。
私が「A」と言えば、イグニス殿下は「B」を理解し、「C」の指示を出してくる。
最高峰の頭脳を持つ上司と、それに追随できる私。
この執務室は、世界で一番ストレスフリーで、かつ生産的な空間だった。
「……あの二人、また『入ってる』よ」
「近寄れないな。結界でも張ってあるんじゃないか?」
部屋の隅で、侍従たちがヒソヒソと話しているのが聞こえるが、今の私には雑音でしかない。
それから数時間。
私たちは言葉少なに、山積みの書類を次々と処理していった。
日が傾き、執務室が茜色に染まる頃。
最後の一枚にサインを終え、イグニス殿下がペンを置いた。
「……終わったか」
「はい。本日の予定業務、全て完了いたしました」
私は軽く首を回した。
疲労感はあるが、それ以上に達成感が大きい。
「ふぅ……」
イグニス殿下が、椅子に深くもたれかかり、天井を仰いだ。
その仕草すら絵になる。
銀髪が夕日に透けて、神秘的な輝きを放っている。
「レイラ」
「はい」
「お前が来てから、私の業務効率は大幅に向上した。……正直、ここまでとは思わなかった」
彼は体を起こし、私を真っ直ぐに見据えた。
その紅の瞳には、いつもの冷徹な光はなく、代わりに熱っぽい温度が宿っていた。
「私の思考について来られる人間など、この国にはウィル以外にいないと思っていた。だが、お前は違う。……お前だけが、私たちと同じ景色を見ている」
「……買い被りです。私はただ、殿下の補佐をしているだけですので」
「謙遜するな。これは事実だ」
彼は立ち上がり、私のデスクの横まで歩いてきた。
そして、私の手を取り、そっと自身の唇に押し当てた。
熱い吐息が、指先にかかる。
「お前は私の『至宝』だ。……もう二度と、手放すつもりはない」
「で、殿下……。職場です」
私は慌てて手を引こうとしたが、彼の握力は強く、びくともしない。
「褒美をやろう」
「褒美、ですか? 特別手当なら、先日いただいたエステだけで十分ですが」
「物ではない。……休暇だ」
彼はニヤリと笑った。
「今度の日曜、空けておけ。休日にする」
「……余分に休日をいただけるのですか? ありがとうございます。では、久しぶりに部屋で読書を……」
「いや。私に付き合え」
彼は私の言葉を遮った。
「……はい?」
「市場調査だ。王都の経済動向を視察する。……特に、最近流行している『嗜好品』の品質チェックを行いたい」
「嗜好品、ですか? お茶や宝石でしょうか」
「まあ……そんなところだ」
彼は曖昧に頷いたが、なぜか視線を逸らした。
耳が少し赤い。
……怪しい。
この完璧超人である王太子殿下が、視線を逸らすなんて。
「……変装をしていくぞ。お忍びだ。二人きりでな」
「護衛はつけないのですか?」
「テオやウィルには内緒だ。あいつらが来るとうるさいからな」
それはつまり、【デート】なのでは?
私はジト目で彼を見たが、イグニス殿下は「決定事項だ」と言わんばかりに澄ましている。
「拒否権はないぞ。これは『筆頭補佐官』としての重要任務だ」
「……承知いたしました。お供します」
私はため息交じりに承諾した。
まあ、いいだろう。
彼との仕事は快適だ。たまには外の空気を吸うのも悪くはない。
それに、「市場調査」というからには、何か国益に関わる重要な視察なのだろう。
私がそう納得して頭を下げると、イグニス殿下はどこかホッとしたように息を吐き、そして窓の外へと視線を向けた。
その横顔には、いつもの冷徹な王太子の表情とは違う、どこかそわそわとした緊張感が漂っていた。




