第6話 元婚約者が「金が使えない!」と絶叫している頃、私は王宮の最奥で国賓級の「監禁(おもてなし)」を受けていました
王太子による公然の「捕獲宣言」から一夜が明けた。
私が目を覚ましたのは、公爵家の自室ではなく、王宮の最奥にある賓客用のスイートルームだった。
天蓋付きのベッドは雲のように柔らかく、枕元には最高級の香油が焚かれている。
窓の外には、王都を一望できる絶景が広がっていた。
「……夢じゃないのね」
私は重い体を起こし、深いため息をついた。
昨夜、パーティー会場から連れ出された私は、そのままここへ軟禁された。
ドアには鍵がかかっていない。
だが、廊下にはテオ殿下の精鋭騎士たちが常駐しており、窓の外には見えない結界が張られているのを肌で感じる。
完全に、逃げ場はない。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「レイラ様、失礼いたします」
入ってきたのは、数人の侍女たちだ。
彼女たちはワゴンいっぱいの朝食と、新しいドレス、そして美容道具を運んできた。
「イグニス殿下より、『朝食を済ませたら執務室へ来るように』との伝言です。それと、『顔色が優れないようだから、専属のエステティシャンを手配した。十分なケアをしてから来い』とのことです」
「……エステ、ですか?」
「はい。全身のマッサージと、最高級の美容液によるパックをご用意しております」
至れり尽くせりだ。
オラントの元では、食事の時間すら削って働いていたというのに、ここでは「働くためのメンテナンス」が最優先されるらしい。
私は極上の朝食をとり、エステで体を磨き上げられ、仕立ての良いドレスに着替えさせられた。
鏡に映る自分は、昨日の疲れ切った事務官とは別人のように血色が良く、肌も艶めいている。
「……悔しいけれど、悪くないわね」
私は苦笑いをして、部屋を出た。
廊下に出ると、待機していた騎士たちが一斉に敬礼する。
「レイラ様! 執務室まで護衛いたします!」
「あ、はい。お願いします」
まるで王族のような扱いで、私はイグニス殿下の執務室へと案内された。
◇◆◇
王太子執務室。
その重厚な扉が開かれると、そこにはすでに3人の男たちが揃っていた。
「おはよう、レイラ。よく眠れたか?」
中央のデスクで書類を捌いていたイグニス殿下が、顔を上げて微笑んだ。
その隣には、地図を広げているテオ殿下。
そして、ソファで分厚い魔導書を読んでいるウィル殿下。
国のトップ3が、当たり前のように同じ部屋に集結している異常な光景だ。
「おはようございます、殿下。……おかげさまで、かつてないほど快適な目覚めでした。まるで鳥籠の中の鳥のように」
私が皮肉を込めて言うと、イグニス殿下は満足そうに頷いた。
「それは良かった。さあ、そこがお前の席だ」
彼が指差したのは、王太子の執務机のすぐ横――距離にして1メートルもない場所に設置された、真新しいマホガニーのデスクだった。
上には、最高級の羽根ペンとインク、そして……山のような書類が積まれている。
「……これは?」
「手始めの仕事だ。財務省から上がってきた来年度の予算案と、騎士団の再編計画、それに隣国との条約の細則だ。全て目を通し、修正案を出せ」
オラントの時とは比べ物にならない量だ。
しかも、内容は国家機密レベルの重要案件ばかり。
普通なら悲鳴を上げるところだが、私は書類の山を見て、逆に口元が緩むのを感じた。
(……このレベルの仕事ができるの?)
オラントの尻拭いのような「マイナスをゼロにする作業」ではない。
国の未来を作るための、建設的で高度な「プラスの仕事」。
私の脳が、歓喜で震えた。
「承知いたしました。……3時間で仕上げます」
「ほう。強気だな」
私は席に着き、ペンを取った。
そこからは、怒涛の時間だった。
私が予算案の矛盾を指摘すれば、イグニス殿下が即座に決裁し、法的な裏付けが必要ならウィル殿下が判例を出し、現場の意見が必要ならテオ殿下が答える。
阿吽の呼吸。
滞りなく進む意思決定。
ストレスが全くない。
気づけば、私は夢中でペンを走らせていた。
――――楽しい。
あんなに苦痛だった業務が、こんなにも……。
「……すごい」
ふと、ウィル殿下の呟きが聞こえた。
「この処理速度……。僕たちの思考スピードに完全についてきている。いや、先読みすらしている」
「ああ。やはりお前は最高だ、レイラ」
イグニス殿下が、熱っぽい瞳で私を見つめていた。
仕事の手を止めず、ただ私の横顔を肴に酒でも飲んでいるかのような陶酔した目だ。
「この空間、この空気……。お前がいるだけで、世界が美しく整列していくようだ」
「……殿下、手が止まっていますよ」
「構わん。お前を見ている方が有意義だ」
逃げられない。
物理的な鎖はないけれど、この「強烈な承認欲求の充足」と「快適すぎる労働環境」という鎖が、私をこの部屋に縛り付けている。
私は観念して、次の書類に手を伸ばした。
◇◆◇
一方その頃。
レイラが去った後の「第三王子宮」では、地獄の釜の蓋が開こうとしていた。
主であるオラントは、昼過ぎにようやく目を覚まし、豪奢なガウンを羽織ってリビングへ降りてきた。
「あーあ、昨日は散々な夜会だったな。……おい、リリナ! 機嫌を直せよ」
「……フンッ」
ソファに座るリリナは、不機嫌そうに顔を背けている。
昨日の夜会で、彼女はティアラも着けられず、さらにオラントが兄たちに怒鳴られる無様な姿を見せつけられたのだ。
「まあ、いいじゃないか。あの口うるさいレイラがいなくなって、せいせいしただろ? これからは俺たちの自由だ!」
オラントは気を取り直して、テーブルの上のベルを鳴らした。
「おい! 朝食だ! 最高級のワインと、仔牛のローストを持ってこい!」
しかし、誰も来ない。
いつもなら、レイラが教育した侍従たちが飛んでくるはずなのに。
「……チッ。気が利かない連中だ」
オラントが舌打ちをした時、扉が開いた。
入ってきたのは、侍従ではない。
冷徹な表情の財務官と、その後ろで青ざめている見知らぬ男たち――王都の宝石商とドレス店の店主だった。
「なんだ貴様ら。今は俺のプライベートな時間だぞ。アポもなしに入ってくるとは」
「緊急の用件ですので」
財務官は表情ひとつ変えず、分厚い請求書を突きつけた。
「オラント殿下。こちらの業者への支払いが滞っております。至急、ご対応を」
「は? そんなもの、ツケにしてあるだろ。予算から決済しろ」
「できません。申請は却下されました」
「却下だと!?」
オラントは目を剥いた。
「なぜだ! 俺の予算だぞ! 俺がサインしただろうが!」
「ええ。ですが、財務規定により『無効』と判断されました」
「意味が分からん! 説明しろ!」
財務官は、一枚の書類の写しを取り出した。
それは、昨日オラント自身がサインした、予算承認書だった。
「こちらをご覧ください。裏面の特則条項です。『第三王子宮の支出に関しては、筆頭補佐官レイラ・ウェリントンの副署を必須とする』……この規定が有効である以上、レイラ様のサインがない請求書は、ただの紙切れです」
「……は?」
オラントは瞬きをした。
「なんだそれは。そんな規定、俺は知らんぞ」
「ご自身で決裁印を押されていますよ」
財務官に指差された箇所を見て、オラントの時が止まった。
確かに、そこには自分のサインがある。
昨夜、レイラに「早く出せ」と急かされて、中身も見ずに叩きつけたハンコが。
「あ……ああ……」
記憶がフラッシュバックする。
レイラが退出間際に見せた、あの一瞬の笑み。
あれは、これだったのか。
「は、嵌められた……! あいつ、俺を罠にかけやがった!」
「罠ではありません。正規の手続きです。……さて、殿下。国庫からの支出ができない以上、これらのお支払いはどうなさいますか?」
後ろに控えていた商人が、冷ややかな声で告げた。
「お支払いができないのであれば、商品は引き上げさせていただきます」
商人たちは容赦なく、部屋に飾られていた宝石や、リリナのために注文したドレスを回収し始めた。
「あっ! ちょっと! それは私のよ!」
リリナが叫ぶが、商人たちは無視して次々と運び出していく。
「ま、待て! 俺は王族だぞ! ツケでいいだろ!」
「信用取引には『担保』が必要です。今の殿下には、その担保がいらっしゃいませんので」
商人の容赦ない一言が、トドメを刺した。
金が使えない。信用もない。
それは、浪費家のオラントにとって、死刑宣告にも等しい。
「う、嘘だ……。レイラ……戻ってこい……!」
オラントはその場に膝をついた。
その背後で、リリナが冷めた目で彼を見下ろしていることに、彼はまだ気づいていなかった。
自由を手に入れたはずの彼は、レイラという「管理者」を失った瞬間から、自滅への坂道を転がり落ち始めたのだ。




