第5話 念願の婚約破棄!「喜んで!」と秒でサインして帰ろうとしたら、会場の出口が物理的に封鎖されていました
王宮の大広間は、煌びやかなシャンデリアの光と、着飾った貴族たちの喧騒に包まれていた。
本来なら、私が補佐官として裏方で走り回るべき場だが、今夜の私は一人の「客」として壁際に立っている。
それも、今にも断罪されそうな、地味なドレスを着た憐れな婚約者として。
(……来たわね)
会場の入り口がざわめき、一組の男女が入場してきた。
第三王子オラントと、その腕にまとわりつくリリナ。
オラントは自信満々に胸を張り、リリナは勝ち誇ったような顔で周囲を見回している。
彼女の髪には、昨日私が貸出を拒否した「月の雫のティアラ」の代わりに、安っぽい模造宝石の髪飾りが光っていた。
「皆様! 静粛に!」
オラントが、会場の中央で声を張り上げた。
音楽が止まり、視線が集まる。
彼は満足そうに頷くと、群衆の中にいる私を指差した。
「レイラ・ウェリントン! 前へ出ろ!」
私は静かに進み出た。
周囲の貴族たちが、「ああ、またか」「可哀想に」とヒソヒソ噂をするのが聞こえる。
私はオラント殿下の前で、完璧なカーテシーをした。
「お呼びでしょうか、オラント殿下」
「ふん、殊勝な態度だな。だが、もう遅い!」
彼は芝居がかった仕草で天を仰いだ。
「貴様は俺の婚約者でありながら、俺を敬わず、あまつさえこの麗しいリリナ嬢に対して数々の暴言を吐いた! 『豚に真珠』などと、口に出すのも恐ろしい言葉を!」
会場がざわめく。
「豚……?」
「あの堅物のレイラ嬢が?」
「いえ、彼女は意地悪をすることで有名だもの。ありえない話じゃないわ……」
「そうなのか? 聡明な人にしか思えないが……しかし豚とは……」
オラント殿下は、ニヤリと笑った。
今ここで私を断罪し、追放することで、自分の権威を示せると信じているのだ。
「レイラ! 貴様の冷酷さにはもう耐えられん! よって、今この時をもって、貴様との婚約を破棄する!」
高らかな宣言。
隣のリリナが「ざまぁみろ」と言わんばかりに舌を出した。
その瞬間。
私は、この5年間で一番明るい笑顔を浮かべた。
「――はい。謹んでお受けいたします」
「……は?」
オラント殿下の口がポカンと開いた。
私はドレスの隠しポケットから、あらかじめ用意しておいた『婚約解消同意書』を取り出した。
署名欄には、すでに私のサインが入っている。
「こちらに書類を用意してございます。慰謝料等は一切不要です。手切れ金代わりと言ってはなんですが、これまでの殿下の『個人的な出費』の精算も、私が個人的に立て替えた分は請求いたしません」
私は書類を彼に押し付けた。
「これで私たちは赤の他人です。殿下、リリナ様とお幸せに。二度と私の前に現れないでくださいませ」
一息に言い切ると、私は再びカーテシーをした。
そして、呆然とするオラントに背を向け、出口へと向かって歩き出した。
軽い。
足取りが、羽が生えたように軽い!
終わった。
長かった「無能の尻拭い」の日々が、今終わったのだ。
明日からは自由だ。領地に帰って、朝まで本を読んで、昼まで寝るのだ。
私は逸る気持ちを抑えきれず、大扉へと手を伸ばした。
――が。
ガシッ。
扉が開かない。
「……あれ?」
鍵がかかっている?
いや、そんなはずはない。ここはパーティー会場だ。
私がガチャガチャとドアノブを回していると、背後から重々しい足音が近づいてきた。
「……どこへ行くつもりだ、レイラ」
聞き覚えのある、低く冷徹な声。
背筋が凍りついた。
恐る恐る振り返ると、そこには3人の男たちが立っていた。
銀髪に紅の瞳、王太子イグニス殿下。
赤髪に琥珀色の瞳、第二王子テオ殿下。
そして、天使のような笑顔を浮かべた美少年、第四王子ウィル殿下。
王国のトップ3が、なぜか私を取り囲むように仁王立ちしていた。
「イ、イグニス殿下……? どうしてここに」
「どうしてとは奇妙な質問だ。ここは私の城だぞ」
イグニス殿下は、氷のような美貌に、ぞっとするほど楽しげな笑みを浮かべていた。
「それに、主役が退場するには早すぎるだろう」
「主役? いえ、私はただのクビになった元婚約者でして……」
「クビになった? 違うな」
イグニス殿下が一歩近づく。
「お前は『解放』されたんだ。無能な飼い主からな」
「兄上!?」
背後でオラントが叫んだ。
「な、何を言っているんですか! そいつは俺を侮辱した罪人で……」
「黙れ、愚弟」
テオ殿下が、オラントを一睨みした。
たったそれだけで、オラントはヒィッと悲鳴を上げて腰を抜かした。
テオ殿下は私に向き直ると、ニカっと笑った。
「よっ、レイラ。昨日の今日だな」
「テオ殿下……」
「身軽になったようだな。婚約者って重荷が取れて、せいせいした顔をしてるぞ」
「ええ、まあ。おかげさまで」
「なら、再就職の時間だ」
テオ殿下は私の行く手を塞ぐように、扉の前に立った。
その背後は、まるで城壁のように堅牢だ。
「再就職……?」
「ああ。俺の騎士団に来いと言ったはずだ。お前の兵站管理能力は国宝級だ。野に放つなんてありえん」
「いやいや、テオ兄上。彼女の知性は、法務と外交でこそ輝くんです」
ウィル殿下が、私の左側から回り込んできた。
彼は私の手を取り、その甲に頬を寄せた。
「ねえ、レイラさん。オラント兄様との契約は切れましたよね? ……つまり、今は誰のものでもない」
碧眼が、暗く、妖しく光る。
「だったら、僕が貰ってもいいですよね? 貴女のその頭脳も、声も、全部」
「ちょ、ちょっと待ってください! 私は実家に帰ってスローライフを……」
「却下だ」
正面から、イグニス殿下が宣告した。
彼は懐から、私が見覚えのある書類を取り出した。
それは、数日前に彼に見つかった「粉飾決算の証拠(裏帳簿)」だ。
「レイラ。私との約束を忘れたか?」
「……っ」
「『近いうちに私の元へ来い』と言ったはずだ。……今がその時だ」
イグニス殿下は、私の顎を指で持ち上げ、逃げ場のない距離で瞳を覗き込んだ。
「オラントは手放した。だが、我々は違う。お前ほどの『至宝』を、みすみす逃がすと思うか?」
3人の視線が、私に突き刺さる。
テオ殿下の熱い視線。
ウィル殿下の狂信的な視線。
イグニス殿下の支配的な視線。
会場中の貴族たちが、息を呑んでこの光景を見守っている。
婚約破棄された憐れな令嬢が、その瞬間に、国の最高権力者3人から同時に求婚されているのだ。
前代未聞の事態に、オラントとリリナは口を開けて固まっている。
「……あの、皆様。ここは公衆の面前でして」
「構わん。周知徹底には好都合だ」
イグニス殿下は、会場全体に響く声で宣言した。
「聞け! レイラ・ウェリントンは、本日より王太子直属の『筆頭補佐官』として、王家がその身柄を管理する! 手出しは無用だ!」
「第二騎士団も彼女を護衛する! 指一本でも触れてみろ、俺が叩き斬る!」
「彼女への害を与えた者は、僕が法と裏工作で社会的に抹殺しますからね?」
3人の宣言に、会場が静まり返った。
私は天井を仰いだ。
終わった。
私の自由なスローライフ計画は、開始からわずか5分で、国のトップ3による「超法規的措置」によって粉砕されたのだ。
「さあ、行くぞレイラ」
イグニス殿下が私の手を引く。
「荷物はまとめる必要はない。王宮に全て用意してある」
「歩くのが面倒なら、また背負ってやるぞ?」
「僕が手を引きますね。……ああ、この手の冷たさ、ゾクゾクする」
逃げ場はない。
私は3人の猛獣たちに囲まれ、呆然とする元婚約者を置き去りにして、王宮の奥――すなわち、煌びやかな「鳥籠」へと連行されていった。




