第42話 イグニス殿下のプレゼン……「お前となら、国ごと幸せにできる」という殺し文句
最後の求愛バトル、初日。
私はイグニス殿下に連れられ、王都から馬車で数時間の距離にある「王家の離宮」に来ていた。
静かな湖畔に佇む、白亜の宮殿。
ここは歴代の国王が、重要な決断をする前や、心を休めるために訪れる場所だという。
「……静かだな」
イグニス殿下は、湖に面したテラスに立ち、深呼吸をした。
今日の彼は、いつもの軍服のような正装ではなく、柔らかな素材のシャツにスラックスという、リラックスした装いだ。
風に揺れる銀髪が、水面のように輝いている。
「ここは、私が即位した後に過ごすことになる場所の一つだ。……レイラ、お前にも見ておいて欲しかった」
彼は私を振り返り、静かに言った。
「今日は仕事の話はなしだ。……ただ、私とお前の『未来』について語り合いたい」
◇◆◇
私たちはテラスで昼食をとりながら、ゆっくりと言葉を交わした。
話題は、これからの国のこと、彼が目指す治世のこと、そして私たちが共有してきた理想について。
「私は、この国をもっと豊かにしたい」
イグニス殿下は、ワイングラスを片手に語った。
「誰もが教育を受けられ、才能ある者が正当に評価される社会。……お前がオラントの元で埋もれていたような悲劇を、二度と繰り返させないために」
「……素晴らしいお考えです」
「だが、理想を実現するには、痛みを伴う改革が必要だ。貴族たちの反発もあるだろう」
彼は苦しげに眉を寄せた。
「孤独な戦いになる。……王とは、そういうものだと思っていた」
彼はグラスを置き、私の手を取った。
その手は大きく、温かく、そして少し震えているように感じた。
「だが、お前が現れてから、景色が変わった」
彼の紅の瞳が、私を真っ直ぐに射抜く。
「お前は私の言葉を理解し、私の迷いを断ち切り、時に私を叱咤してくれる。……お前となら、どんな困難な改革も成し遂げられる気がするんだ」
「殿下……」
「レイラ。……私はお前を『王妃』という枠に押し込めるつもりはない」
彼は真剣な眼差しで告げた。
「お前には、私の隣で、対等なパートナーとして国を動かしてほしい。……お前の知性が、私の王道を照らす光なんだ」
それは、ただの愛の告白よりも、ずっと重く、そして魅力的な言葉だった。
彼と共に歩む未来。
それは間違いなく、激務と責任に満ちた茨の道だ。
けれど、そこで得られる達成感と、彼と共有できる景色の美しさは、何物にも代えがたいだろう。
私は、仕事人間としての魂が震えるのを感じた。
「……殿下。一つだけ、お聞きしてもよろしいですか」
「なんだ?」
「もし私が王妃になれば……テオ殿下やウィル殿下とは、どうなるのでしょうか」
私が恐る恐る尋ねると、イグニス殿下は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに力強く答えた。
「……弟たちとの関係を断てとは言わん。それは、お前にとっても弟たちにとっても、あまりに残酷だ」
彼は私の手を強く握った。
「だが、これだけは譲れない。……お前の『一番』は、いつでも私であってほしい」
独占欲と、理性との葛藤。
王としての矜持と、一人の男としての嫉妬。
その揺れる瞳を見て、私は胸が締め付けられた。
この人は、不器用なほどに真っ直ぐだ。
そして、誰よりも私を必要としてくれている。
私は俯いて答えた。
「とても……魅力的なお誘いです」
「そうだろう?」
イグニス殿下は、優しく微笑んだ。
「……答えを聞くのは、弟たちの話が終わってから。だから、今はただ、待とう」
彼は私の腰を引き寄せ、テラスの手すりに押し付けた。
夕日が沈み、湖面が茜色に染まる中、私たちは長い口付けを交わした。
それは、契約や義務ではない、心からの熱情がこもったキスだった。
この瞬間、私の心は確かに彼に傾いていた。
けれど、まだ決められない。
私の中には、テオ殿下の笑顔も、ウィル殿下の甘え声も、確かに息づいているのだから。




