第4話 愛人のわがままは「国宝への冒涜」と「医学的根拠」で切り捨てます。――ええ、私は嫌われるためにやっているのですが?
王宮の回廊には、明日に控えた祝宴を告げる華やかな装飾が施されていた。
隣国との「通商条約調印式」を記念した夜会。
それはこの数ヶ月、私が不眠不休で調整を重ねてきた、いわば私の汗と涙の結晶だ。
だが、私にとっては別の意味で大きな節目となるだろう。
執務室の窓から沈みゆく夕日を眺めながら、私は自分のパンツスーツの襟を正した。
公爵令嬢として、このようなマニッシュな装いで執務に当たることは、保守的な貴族社会では眉をひそめられる行為だ。
だが、それこそが私の狙いでもあった。
私の前世での記憶。
そこでは「悪役令嬢」と呼ばれる存在が、傲慢さゆえに婚約者に捨てられる物語が人気を博していた。
転生した当初は戸惑ったが、すぐに私はこの状況を合理的に捉えた。
有能だが可愛げがなく、婚約者に嫌われている。
これほど、穏やかな引退生活――すなわち「スローライフ」への最短距離があるだろうか。
(……だからこそ、私はあえて『悪役』を演じ続けてきたのだけれど)
物語の彼女たちがやるような、嫌がらせはあまりに稚拙だ。
階段から突き落とす? そんなことをすれば、刑法に触れて私の引退後の年金が差し押さえられてしまう。
ドレスを切り裂く? 器物損壊の罪に問われるだけでなく、相手に「可哀想な被害者」という属性を与えてしまう。
真に効率的な「悪役」とは、正論と法、そしてルールを盾にして、相手のプライドを完膚なきまでに叩き潰す存在だ。
私が5年間徹底してきたのは、オラントの無駄を徹底的に削ぎ落とし、彼の幼稚な自尊心を論理的に否定し続けることだった。
「レイラ! どこだ! 早く出てこい!」
静寂を切り裂くように、オラントの品のない怒号が響いた。
私が応接スペースへ向かうと、そこには案の定、彼と浮気相手のリリナが座っていた。
リリナは目を潤ませ、オラントの腕に縋り付いている。
どうやら、おねだりの時間らしい。
「どうなさいましたか、オラント殿下」
私は手に持った書類を抱え直し、淡々と問いかけた。
「リリナが悲しんでいるだろう! 明日の夜会のために、王家の宝物庫にある『月の雫のティアラ』を貸し出せと言ったはずだ。なぜ管理官に差し止めを命じた!」
月の雫のティアラ。
初代王妃が愛用したとされる、国宝級の魔石をあしらった至宝だ。
「……当然です。リリナ様にはそれを着用する資格がございませんので」
「なんだと!? この俺が許可しているんだぞ!」
「王家の伝統を蔑ろにする許可など、王太子殿下ですら出せません。ましてや王太子ですらない、ただの王子であるあなたの独断など、論外です」
私はあえて冷ややかな、蔑むような視線を向けた。
リリナが「ひどい……」と声を漏らし、オラントの胸に顔を埋める。
「リリナ様。悲劇のヒロインを気取る前によくお考えください。あのティアラは王妃教育を修了し、正妃として承認された者のみが身につけるものです。貴族の序列も、王宮のマナーも1から10まで欠如している男爵家の方が身につけるなど……豚に真珠かと思われますが?」
「ぶ、豚……!? オラント様ぁ! レイラ様が私を豚だと!」
「……レイラ、貴様! 言葉を慎めよ!」
オラントが顔を真っ赤にして立ち上がる。
私はため息をつき、追撃の手を緩めなかった。
「侮辱ではありません、事実の指摘です。それに、リリナ様。医学的見地からもお勧めできません。あのティアラには巨大な魔石が3つ埋め込まれており、総重量は2.2キロを超えます。それを、姿勢を維持する筋力すら鍛えられていない貴女が数時間も着用すれば、頸椎に深刻なダメージを与え、夜会が終わる頃には首が回らなくなるでしょう。……それとも、車椅子で退場なさるおつもりですか?」
「…………」
リリナは言葉を失い、恐怖に顔を引きつらせた。
オラントはさらに激昂し、拳を振り上げたが、私の冷たい瞳に気圧されて動きを止めた。
「お前には……お前には血も涙もないのか! なぜそうやって理屈を並べて邪魔をする!」
「オラント殿下、愛人にいい顔をしたいのは勝手ですが、王家の伝統を汚すのはおやめください。他国の賓客の前で、教養のない愛人に国宝を自慢させるなど……王族としての器が小さいと思われますよ?」
「器が小さいだと……!? 貴様、俺に向かって……!」
「事実です。ご不満なら、どうぞ私の処遇をお考えください。私はいつでも、公爵邸へ帰る準備はできております」
私は優雅に一礼した。
煽り、挑発し、プライドをズタズタにする。
これでいい。
オラントの忍耐は限界だ。明日の夜会で、彼は必ず大勢の貴族の前で「こんな女とはやっていられない!」と叫ぶだろう。
「……そうだ、オラント殿下。退出前に、こちらの最終予算案に承認印をお願いします」
「なんだ今さら! そんなもの、後でいい!」
「明日の夜会の決済が含まれております。今すぐ印をいただけないと、祝杯用のワインが届きません」
「ああ、もう! さっさと出せ!」
オラントは怒りに任せて、中身を1行も読まずに、バン! と乱暴に承認印を叩きつけた。
「……ありがとうございます。では、失礼いたします」
私は書類を回収し、静かに退室した。
廊下に出た瞬間、私はこっそりと口角を上げた。
今、彼がサインした書類。
その裏面には、昨日私がイグニス殿下の元へ足を運び、数時間をかけて調整した「財務規定の特則」が記載されている。
『王家財務規定 第142条 特則項目3』
――第三王子宮の全ての支出に関しては、筆頭補佐官レイラ・ウェリントンの副署を必須条件とする。
明日、自由の身となった私がこの部屋を去れば、オラントは金貨1枚すら動かせなくなる。
愛人と楽しむはずの豪華な夕食も、宝石も、ドレスも、全てが「決裁不可」となるのだ。
これが、私を5年間苦しめてくれた彼への、精一杯の餞別である。
◇◆◇
一方その頃。
執務室の壁の裏に設置された「傍聴室」では、3人の男たちが無言で立ち尽くしていた。
「……聞いたか、今の論法」
イグニスが、震える手で口を覆った。
「相手の情緒的な訴えを1ミリも受け付けず、法と伝統、そして解剖学的な根拠で完全論破した。……あの冷徹なまでの正確さ。素晴らしい」
「いやぁ、シビれたな!」
テオが、愉快そうに腕を組んだ。
「『豚に真珠』とはな。……あの時の彼女の言葉は、戦場で敵を襲う狙撃手の弾丸のようだったぞ。俺の女神は、言葉の弾丸まで使いこなすらしい」
「ふふっ。最後の予算案の通し方も、実にウィットに富んでいます」
ウィルが、手元の魔道具(録音機)を愛おしげに撫でた。
「激昂させて判断力を奪い、自分の望む法案を通過させる。……レイラさんは、天才的な策士ですね。今の音声、アーカイブして永久保存版にします」
3人は、レイラの「完璧な仕事」に惚れ惚れとしていた。
レイラ本人が「嫌われるためにやっている」ことなど、彼らにとっては些細な問題ですらなかった。
「準備はいいな、あのバカの様子を見るに、明日、一番目立つ時に彼女へ婚約破棄を言い渡すだろう」
イグニスが冷徹な王太子の顔に戻る。
「ああ。明日の夜会、オラントが宣言をした直後、彼女を確保する。王宮の全出口を封鎖し、転移魔法の干渉も遮断する。彼女を物理的に王宮から出すことは、俺の騎士団が許さん」
「法的根拠もすぐに整えます」
ウィルが可愛らしい笑みを浮かべた。
「オラント兄様が婚約破棄を宣言したコンマ1秒後に、彼女を『国家重要資産』として保護する緊急法案を提出します。彼女に自由なんて、1秒も与えません」
「よし、あの女を囲い込むぞ」
王国のトップ3が、薄暗い部屋で密やかに頷き合った。




