第33話 「不正の調査」という名目で地方へお忍び旅行に行くことになりました。……義兄様、お留守番ありがとうございます
王太子執務室。
穏やかな午後の日差しが差し込む中、ペンが走る音だけが規則的に響いていた。
だが、その静寂は唐突に破られた。
バンッ!
イグニス殿下が、一枚の報告書をデスクに叩きつけたのだ。
「……レイラ。これを見ろ」
私が覗き込むと、それは地方領主からの月次税収報告書だった。
「南部のリゾート地、サザンクロス領ですね。……数字上に不備は見当たりませんが?」
「表面上はな。だが、違和感がある」
イグニス殿下は鋭い眼光で、数字の羅列を指差した。
「サザンクロスは近年、観光開発に成功し、来訪者数が激増しているはずだ。先月の交通局のデータでは、馬車の乗り入れ数が前年比150%に達している」
「はい。私もそのデータは確認しております」
「だというのに、この税収だ。……5年前から、綺麗に横ばいだ。金貨1枚の誤差もなく、な」
私はハッとした。
確かに、経済規模が拡大しているのに税収が増えないのはおかしい。
ましてや「5年間全く同じ数字」など、統計学的にあり得ない。それはつまり、誰かが作為的に数字をいじっている証拠だ。
「……領主による、着服の可能性が高いですね」
「ああ。しかも、これだけ綺麗に数字を合わせるには、相当巧妙な裏帳簿があるはずだ」
イグニス殿下はニヤリと笑った。
それは、獲物を見つけた猛獣の笑みだった。
「現地で何かが起きている。……私が直接行って確かめる」
「えっ? 殿下が直々にですか? 監査官を派遣すれば……」
「いや。監査官など買収されているかもしれん。それに……」
彼は椅子に深くもたれかかり、天井を仰いだ。
「最近、働き詰めだろう? 我々には『息抜き』も必要だと思わないか?」
彼はチラリと私を見た。
「サザンクロスは海沿いの景勝地だ。調査が早く終われば、少しは観光もできるかもしれん。……美味しい魚介料理に、白い砂浜。悪くないだろう?」
つまり、視察という名の「慰安旅行」に行きたいということだ。
公私混同も甚だしいが、激務続きの彼がそう言うのなら、私に否はない。
その時、部屋の隅で聞き耳を立てていた二人が、即座に反応した。
「賛成だ。海は好きだ。俺も行こう」
テオ殿下が身を乗り出す。
「僕も行きます。海辺には珍しい素材があるかもしれませんし、何よりレイラさんの水着姿……じゃなくて、海辺での生態調査に興味があります」
何か変な想像をしているようだが、ウィル殿下も目を輝かせている。
みんな、完全に遊びに行く気満々だ。
「……ですが、皆様。全員で王宮を空けるわけにはいきませんよ? 誰が政務を執るのですか」
私が正論を言うと、3人は「あ」という顔をして、互いに顔を見合わせた。
「俺は外せないぞ。護衛が必要だろ?」
「僕もです。魔術的な調査が必要になるかもしれません」
「言い出しっぺの私が残るわけがない」
この3人に譲り合いなど発生するはずもなく、泥沼の議論になりかけた、その時。
「……私が残りましょう」
静かな声が響いた。
隣の部屋から顔を出したのは、セドリック義兄様だった。
「義兄様?」
「王太子殿下たちが不在の間、国政を停滞させるわけにはいかないからね」
彼は眼鏡の位置を直し、涼しい顔で言った。
「殿下、留守は私が預かります。……こちらのことは気にせず、ゆっくり羽を伸ばして来てください」
「ですが……義兄様だって、行きたいのでは?」
私が尋ねると、彼は一瞬だけ寂しそうな顔をして、すぐに優しく微笑んだ。
「俺は、お前が楽しんでくれればそれでいい。……それに、俺まで行ってしまえば、業務の方が不安になって、お前も気が休まらないだろう?」
なんというか、義兄様はどこまでも、損な役回り引き受ける人だ。
「……ありがとうございます、義兄様。お土産、たくさん買ってきますね」
「ああ。期待しているよ」
こうして。
最強の留守番役に後を託し、私と3人の王子による、3泊4日の「お忍び視察旅行」が決定した。
◇◆◇
数日後。
私たちは変装をして、サザンクロス行きの乗り合い馬車に揺られていた。
設定はこうだ。
イグニス殿下は「商魂たくましい若き豪商」。
私はその「秘書兼、婚約者(偽装)」。
テオ殿下は「護衛の傭兵」。
ウィル殿下は「商人の弟(病弱設定)」。
「……狭いな」
イグニス殿下が、庶民用の硬いシートに座り心地悪そうに身じろぎした。
「我慢してください。お忍びなんですから」
「分かっている。だが、レイラとの距離が近すぎる。……いや、これはこれで悪くないか」
彼は私の肩に腕を回し、まんざらでもなさそうだ。
「おい兄上、場所取りすぎだぞ。俺の足の置き場がない」
向かいに座るテオ殿下が、窮屈そうに長い足を折り畳んでいる。
「僕、酔いそうです……。レイラさん、膝枕してくれませんか?」
ウィル殿下は、隙あらば甘えようとしてくる。
「ダメです。設定では『病弱な弟』なんですから、膝枕なんかではなく、大人しく寝ていてください」
「……じゃあ、手だけでも」
彼は私の手を握りしめ、自分の頬にすり寄せた。
ガタゴトと馬車が揺れるたびに、3人の体温が伝わってくる。
密着度は満員電車並みだ。
でも、窓の外に広がる景色は、そんな窮屈さを忘れさせるほど美しかった。
「……海が見えてきたぞ!」
峠を越えた瞬間、視界いっぱいに青い水平線が広がった。
キラキラと輝く水面。白い雲。
王都では見られない、開放的な絶景だ。
「わぁ……!」
私が歓声を上げると、イグニス殿下が優しく微笑んだ。
「気に入ったか?」
「はい! こんな素敵な場所、初めてです」
「そうか。……なら、来た甲斐があったな」
彼は私の頭をポンと撫でた。
その仕草に、胸がときめく。
王宮での「上司と部下」という関係から離れ、ただの男女として過ごす時間。
悪くない。うん。悪くない。
◇◆◇
馬車は坂道を下り、サザンクロスの街へと到着した。
そこは、南国の日差しと潮風に包まれた、楽園のようなリゾート地だった。
白い壁の家々、色とりどりの花、そして活気あふれる市場。
観光客たちは笑顔で溢れ、どこからか陽気な音楽が聞こえてくる。
一見すれば、平和そのものだ。
だが。
(……変ね)
私は、ふと違和感を覚えた。
メインストリートは華やかだが、一本路地裏に入ると、家の窓は固く閉ざされ、住民たちが怯えたようにこちらを見ている。
観光客の笑顔と、地元民の沈黙。
そのコントラストが、あまりにも不自然だった。
「……レイラ。気づいたか?」
イグニス殿下が、耳元で低く囁いた。
「はい。……ただのリゾート地ではなさそうです」
「ああ。どうやら、想像以上に根が深そうだな」
彼の瞳が、鋭く細められた。
◇◆◇
一方その頃、王宮の回廊にて。
「きゃっ!」
分厚い資料の束を抱えた侍女が、足をもつれさせてバランスを崩した。
書類が散らばる──と思った瞬間。
スッ、と伸びてきた手が、侍女の体と資料を同時に支えた。
「……大丈夫かい?」
頭上から降ってきたのは、落ち着いた、それでいて深みのある声だった。
侍女が恐る恐る顔を上げると、そこには銀縁眼鏡をかけ、涼しげな青い瞳をした美青年が立っていた。
セドリック・ウェリントンである。
「あ、ありがとうござい……」
侍女は彼の顔を見て、言葉を詰まらせた。
整った顔立ちに、知的な佇まい。そして何より、自分を支える腕の力強さ。
そのギャップに、胸が高鳴るのを感じたのだ。
「これ、運んでおくよ。重かっただろう?」
彼は侍女の手から書類を軽々と受け取ると、爽やかに微笑んだ。
「さあ、行こうか」
「は、はい……!」
侍女は頬を赤らめ、彼についていく。
その様子を遠くから見ていた他の侍女たちが、ヒソヒソと囁き合う。
「ねえ、見た? セドリック様よ」
「素敵……! テオ殿下もいいけど、あの大人の余裕がたまらないわ」
「クールに見えて、実はすごく優しいのよね」
王宮には今、二大派閥が存在する。
イグニスやウィルに並ぶほどの端正な顔立ちをしているのに、他の2人よりも圧倒的に話しかけやすく、誰にでも気さくで、太陽のようなテオを推す「陽の派閥」。
そして、クールで知的、整った顔立ちに眼鏡属性。
どこか影があるが、その優しさが振る舞いから滲み出ているセドリックを推す「陰の派閥」。
本人が知らないところで、最強の義兄様は、王宮中の女性たちのハートを静かに、しかし確実に射抜いていたのだった。




