第11話 天使な第四王子との読書会は、朗読という名の「隷属契約」でした。……あの、私の声を録音してどうするつもりですか?
イグニス殿下、テオ殿下に続き、「彼」が現れた。
第四王子、ウィル殿下。
彼は昼下がりの執務室にふらりと現れると、天使のような笑顔で私に告げた。
「レイラさん。僕の番ですよね?」
「……はい」
拒否権など最初からなかった。
二人の王子とデートしておいて、彼とはしないとなると、余計な軋轢を生むだけだ。
それに何より、禁書庫には私もかなり興味津々なのだ。
私は彼に手を引かれ、王宮の地下深くにある「禁書庫」へと連行された。
◇◆◇
重厚な扉を開けると、そこには古紙とインクの混ざり合った独特の香りが満ちていた。
壁一面を埋め尽くす書架。魔法のランプが灯す、温かな明かり。
そして、部屋の中央に置かれたアンティーク調のテーブルセット。
そこは、本好きの私にとって天国のような空間だった。
「わぁ……。すごい蔵書数ですね」
「ふふっ。気に入っていただけて嬉しいです」
ウィル殿下は、私のために椅子を引いてくれた。
14歳の少年とは思えないほど、手際は完璧だ。
テーブルには、すでに見たこともない高級な茶器と、可愛らしい焼き菓子が用意されている。
「さあ、座ってください。特製のお茶を淹れますから」
彼が淹れてくれた紅茶は、プロの宮廷茶師も顔負けの絶品だった。
温度、蒸らし時間、茶葉の量。全てが計算し尽くされている。
「はぁ……美味しい」
一口飲んで、私は思わず息を吐いた。
ここ数日、イグニス殿下の仕事量とテオ殿下の筋肉量に圧倒されていた神経が、柔らかく解れていくようだ。
「ここにある本は全て読み放題です! どんなものでも、お好きなだけどうぞ」
そこは、私にとってまさに夢の空間だった。
図書館にはないような古い書物。
一生かけても買えないような高価な学術書。
果ては流行りの恋愛小説まで。
この世の文字が、ここにはあった。
私はいくつかの本を見繕い、紅茶を啜りながらパラパラとページをめくる。
ウィル殿下がページをめくる音と、私がページをめくる音、それが時折重なり、心地いい。
静かな部屋で、好みの本を読む。
紅茶と美味しいお菓子。
(ああ、なんて……理想的な休日なのだろう)
◇◆◇
もう、数時間は本を読み続けているだろうか?
飽きない。まだまだ読める。
ウィル殿下も、私も、本に夢中になる。
これがデートなのだとしたら、なんと素敵なデートなのだろう。
私は恍惚にも似た笑みを浮かべた。
「素敵な表情ですね……」
「えっ!? あ……こ、これは……」
ウィル殿下は私の顔に自分の顔をすっと近付けた。
鼻と鼻が触れそうなほど近い。
彼の美しい瞳が私を捉えて離さない。
「楽しんでいただけてますか?」
「は、はい……夢のようなひとときで……」
「……では、僕にご褒美をくれませんか?」
「ご褒美……?」
ウィル殿下は、一冊の古い書物をテーブルに置いた。
革の表紙は古びており、かなりの年代物に見える。
「実は、目が疲れてしまって。……少し、朗読をしていただけませんか?」
「朗読、ですか?」
「ええ。耳から情報を入れたい気分なんです。それに、貴女の声はとても理知的で……脳みそに直接染み込んでくるようで、大好きなんです」
彼は熱っぽい瞳で私を見つめ、甘えるように上目遣いをした。
……この、小動物のような、猫のような、甘えた瞳……ずるい。
この「年下の特権」と「美貌」という武器を、彼は完璧に使いこなしている。
こんなにも素敵な時間を用意してくれて、彼のお願いを断れば、私が冷たい大人のように思えてしまう。
「……分かりました。どこを読めば?」
「ここです。古代ルーン語で書かれた詩なのですが」
彼が開いたページには、複雑な幾何学模様のような文字が並んでいた。
古代ルーン語。魔術の契約や、王家の儀式に使われる古い言語だ。
私は咳払いを一つして、読み始めた。
「……『我、深淵より来たりて、汝に誓う』……ですか?」
「はい。続けてください」
私は朗読を始めた。
内容は、ある騎士が主人に対して忠誠を誓う、一種の宣誓文のようだった。
だが、読み進めるうちに、少し違和感を覚えた。
『我が魂は汝の器なり。汝の言葉は我が理なり』
『星が巡り、海が枯れるとも、この鎖は解かれず』
……重い。
忠誠にしては、あまりにも表現が重く、そして情熱的すぎる。
ふと、膝に重みを感じた。
「……殿下?」
見ると、ウィル殿下が私の膝に頭を乗せていた。
私のドレスの布地ごしに、彼の体温が伝わってくる。
「……何をしているのですか」
「膝枕です。ここが一番、貴女の声がよく響く特等席ですから」
彼は心地よさそうに目を閉じ、猫のように丸まった。
私の太ももをさすり、少し鼻を擦り付けて匂いを嗅いでいるのは、きっと私の気のせいだろう。
彼の体は華奢で、まるでガラス細工のように儚い。
だが、退かそうとすると、意外なほどの力でしがみついてくる。
「続けてください、レイラさん。すぅ……はぁ……。止めないで」
んっ? すぅ……はぁ?
いや、気のせいか。私は疲れているのだろう。
私は気にしないように必死に、朗読を続けた。
『――故に、我は汝を離さず。死が二人を分かつまで、否、死してなお、魂は汝と共に在り……』
そこまで読んで、私は言葉を止めた。
最後のフレーズ。
これは、古代語における「魂の婚姻」、つまり「永遠の隷属婚」の定型句だ。
「……殿下。これ、ただの詩ではありませんね?」
私が指摘すると、ウィル殿下は薄く目を開けた。
その碧眼は、とろりと濁っていた。
「おや、気づいちゃいましたか」
「これは古代の『隷属契約書』、それも伴侶に対する絶対服従の誓いです。……こんなものを私に読ませて、どうするつもりですか」
私が咎めるように言うと、彼は体を起こし、私の顔を覗き込んだ。
その距離、わずか数センチ。
彼の整った顔立ちが、妖艶な笑みに歪む。
「……貴女が、僕にこれを誓ってくれたらいいなと思いまして」
「私が殿下に誓うのですか? 主語が逆では?」
文脈からすれば、『我(読み手)』が『汝(聞き手)』を離さない、と誓う形になる。
つまり、私が彼を束縛することになってしまう。
しかし、ウィル殿下は嬉しそうに首を振った。
「いいえ。逆だからこそ、成立するんですよ」
「……はい?」
「『私(汝)を離さない』と、貴女自身の声で宣言してくれた。……それを僕が承認(受理)したことで、契約は完了しました」
彼は私の手を取り、指先に口づけを落とす。
ただの口づけのはずだが、一瞬湿り気を感じた。
「言質は取りましたよ、レイラさん。ご自分で誓った通り、死が二人を分かつまで……責任を持って、僕を飼い殺してくださいね?」
「は……?」
私は絶句した。
つまり、私は自分の口で、彼という存在を一生背負い込む契約をさせられたということか?
「貴女の声で紡がれる束縛なら、僕は喜んで受け入れますよ。……ああ、ゾクゾクするッ。貴女に管理されるなんて、最高の快楽だ」
彼は恍惚とした表情で、私の手を取り、その掌に頬を寄せた。
その瞳の奥には、狂気じみた情熱が燃えて、妖しく揺らいでいる。
この人は、天使の顔をした怪物だ。
「……冗談ですよね?」
私が引きつった笑いで尋ねると、彼はスンッと真顔に戻り、いつもの天使の笑顔を作った。
「やだなぁ。もちろんですよ。ただの古い詩です。……そんなに怖がらないでください」
嘘だ。
絶対に嘘だ。
彼はもう、私のことを『女』としてしか見ていない。
服の上から私の太ももの匂いを嗅いだり、先程の指先への口づけの時も一瞬舌が這ったような気がした。
その隙に指の匂いも嗅がれた気もした。
彼は、とんでもない悪魔かもしれない。
◇◆◇
夕方になり、私は何とか禁書庫を後にした。
精神的に疲れた。
イグニス殿下の知的な攻めや、テオ殿下の物理的な攻めとは違う、油断をしたら全てが絡め取られるような恐怖がある。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、私はあることに気づいた。
ポケットに入れていたハンカチがない。
禁書庫に忘れてきたのかもしれない。
戻るべきか。
いや、もしウィル殿下がまだあそこにいたら……。
嫌な予感がして、私は足音を忍ばせて禁書庫の入り口まで戻った。
扉は少しだけ開いていた。
中から、ウィル殿下の声が聞こえる。
「……再生」
ヴンッ、という魔法の音。
その直後、禁書庫に響き渡ったのは――私の声だった。
『――故に、我は汝を離さず。死が二人を分かつまで……』
先ほどの朗読だ。
それも、一番重い誓いの部分。
どうやら、彼は魔道具を使って、こっそりと私の声を録音していたらしい。
「あぁ……いい声だ。レイラさん……たまらない……」
ウィル殿下の、甘く蕩けたような独り言が聞こえてくる。
「これを毎晩聴いて眠れば、夢の中でも貴女に会える。……貴女に管理される夢が見られるなんて、幸せすぎる。毎日……毎秒でも聞いていたい……」
私は扉の隙間から、彼が魔道具を抱きしめ、うっとりと身をよじっている姿を見てしまった。
そして、その手には――私が探していたハンカチが握りしめられていた。
彼はハンカチに顔を深く埋め、深呼吸をしている。
「すぅ……はぁ……あぁ……。逃がしませんよ、レイラさん。貴女の知性も、声も、全て僕のものです……すぅ……んん……」
彼は何度も何度も、深くハンカチに顔を埋めては、恍惚の笑みを浮かべ、身体が震えている。
それを、絶えず繰り返す。猫がマタタビに寄っているように、彼は私の匂いに溺れている。
いや、匂いではなく、私に溺れているのか……。
その姿と言葉は、もはや天使のものではなかった。
「はぁ……レイラさん……僕のものだ……あなたの全てが僕だけのレイラさんだ……」
執着と独占欲に満ちた、一人の男の宣言だった。
私は、そっと扉から離れた。
彼について、深く考えるのはやめた。怖いから。
ハンカチは諦めよう。
あれは彼への手切れ金……いや、供物だと思えば安いものだ。
私は逃げるようにその場を去った。
心臓が早鐘を打っている。
恐怖か、それとも――。
彼の底知れない愛情に、少しだけ絆されてしまった自分への戒めか。
いずれにせよ、私の平穏な日々は、この天才第四王子によって、これからも甘やかに、そして執拗に脅かされ続けることだろう。
彼の、狂気じみた愛によって。




