第1話 無能王子の尻拭い残業をしていたら、図書室で「天使な美少年」に懐かれました。……え、私の脳みそが見たいんですか?……怖いんですが?
王宮の第三王子宮にある執務室には、今日も今日とて、私の憂鬱な溜息が溶けていた。
「おい、レイラ! まだ終わらないのか?」
ソファで優雅に足を組み、ワイングラスを傾けている男が、不機嫌そうに声を上げた。
この国の第三王子、オラント殿下だ。
整った顔立ちはしているが、その中身が空っぽであることを、婚約者である私は誰よりも知っている。
「申し訳ございません、オラント殿下。こちらの『西部開拓予算案』ですが、計算に致命的な矛盾がございまして。修正に時間を要しております」
私は手元の羊皮紙から目を離さずに答えた。
「ちっ、役人の奴らめ。俺に恥をかかせる気か? そんなもの、適当に数字を合わせておけよ」
「適当に合わせれば、来年度の西部地区は飢饉に陥ります」
「知るか。俺のせいじゃない」
オラントは興味なさげに鼻を鳴らすと、懐中時計を取り出した。
「あーあ、退屈だ。……そうだ、俺はこれからリリナと茶会に行ってくる」
「お仕事中ですが」
「うるさいな! 俺がいない方が、お前も集中できるだろう? あとは任せたぞ、優秀な『補佐官』殿!」
彼は皮肉っぽく笑うと、マントを翻して部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まる。
あとに残されたのは、山積みの書類と、私一人だ。
「……はぁ」
二度目の、そして先ほどよりも深い溜息をつく。
これでいい。
彼がここにいても、邪魔なだけだ。
私はインク壺を引き寄せ、ペンを走らせ始めた。
オラント殿下が適当に承認した予算案は、穴だらけのザルだ。
このまま提出すれば、財務省で却下されるどころか、王宮中の笑いものになるだろう。
私は数字を書き換え、備考欄に「緊急予備費の活用」という名目で辻褄を合わせる。
さらに、彼が私的に流用しようとしていた「交際費」の項目を削除し、その分を治水工事費へと付け替える。
最後に、オラントの筆跡を完璧に模倣して、修正印を押す。
詐欺まがいの行為?
お戯れを。
所要時間、15分。
本来なら3日はかかる作業だ。
「……よし。これで財務省の目は誤魔化せる」
私はペンを置き、凝り固まった肩を回した。
こんな生活が、もう5年も続いている。
ウェリントン公爵家の娘として、王家との結びつきを強めるために結ばれた婚約。
だが、その相手は稀に見る無能で、私は彼の尻拭いをするためだけに青春を浪費している。
早く、実家に帰りたい。
領地の屋敷で、誰にも邪魔されず、本を読んで、静かに暮らすのだ。
心配性の義兄様に「また痩せたんじゃないか?」と小言を言われながら、彼が淹れてくれる紅茶を飲む。
……うん、悪くない。
それが、私のささやかな、そして切実な願いだった。
◇◆◇
書類の山を片付けた後、私は気分転換のために執務室を抜け出した。
向かった先は、王宮の奥にある図書室だ。
ここは王族専用の区画だが、補佐官という立場を利用して、私はこっそりと利用させてもらっている。
静寂と、古い紙の匂い。
ここだけが、私の心のオアシスだ。
私は書架の奥、人目につかない一角にある机に、調べ物をするための資料を広げた。
今回オラントが持ち込んできた案件は、「隣国との通商条約」に関するものだ。
当然、彼は条文など一行も読んでいない。
私が代わりに読み込み、リスクを洗い出さなければならない。
「……第14条、『紛争時の免責特権』か。この言い回しは危険ね」
私は独り言を漏らしながら、古代語で書かれた条文の解釈をメモしていく。
その時だった。
「――へえ。その条文の罠に、一目で気づくなんて」
ふいに、頭上から声が降ってきた。
「!?」
私は驚いて顔を上げた。
そこには、一人の少年が立っていた。
書架の梯子の上に腰掛け、足をぶらつかせている。
透き通るような金髪に、宝石のような碧眼。
白い肌は陶磁器のように滑らかで、背中の羽が見えそうなくらい、浮世離れした美しさを持った少年だ。
(……天使?)
一瞬、そんな単語が脳裏をよぎる。
だが、彼が着ているのは上質な王族の衣装だ。
「……貴方様は」
「しーっ」
少年は人差し指を唇に当てて、梯子からふわりと飛び降りた。
着地音すらしない、猫のような身のこなしだ。
彼は私の机に歩み寄ると、私が書いていたメモを覗き込んだ。
「これ、古代ルーン語の解釈ですよね? 普通の貴族じゃ読めないはずですが」
「……趣味で、少々嗜んでおります」
「趣味? ふふっ、面白いお姉さんだ」
彼は無邪気に笑った。
その笑顔は愛らしいが、瞳の奥には、少年とは思えない理知的な光が宿っている。
「僕、この条文の解釈でずっと悩んでたんです。……ほら、ここ。『深淵より来たる』って訳すのが一般的だけど、文脈がおかしいと思いませんか?」
彼は私のメモの一点を指差した。
それは、まさに私が修正しようとしていた箇所だった。
「ええ。前後の文脈からすれば、ここは『深淵』ではなく『根源』……つまり、不可抗力による事象を指していると思われます」
「やっぱり! 僕もそう思ったんです!」
少年の顔がパァっと輝いた。
「すごいな。王宮の学者たちは、みんな『深淵』だと言い張って話にならなくて。……やっと、話が通じる人に会えた」
彼は私の手を取り、うっとりと見つめてきた。
その手は小さく、華奢で、折れそうなほど細い。
しかし、ひんやりとした体温が、妙に生々しく私の肌に伝わってくる。
「お姉さん、名前は?」
「……レイラと申します。第三王子殿下の補佐官をしております」
「レイラさん……。レイラさん……」
彼は私の名前を、まるで美味しい飴玉を転がすように、何度か口の中で反芻した。
「覚えました。僕はウィル。……よろしくお願いします、レイラさん」
ウィル。
第四王子、ウィルフレッド殿下。
現国王の末っ子で、その美貌と聡明さから「王宮の宝石」と呼ばれている方だ。
まさか、こんなところでお会いするとは。
「ウィル殿下。このような場所で油を売っていては、教育係の方に叱られますよ」
「いいんです。あんな退屈な授業より、貴女と話している方がずっと勉強になる」
彼はニッコリと笑い、私の隣の椅子にちょこんと座った。
「ねえ、レイラさん。この続きも教えてくれませんか? 僕、もっと貴女の脳みその中身が見たいんです」
「脳みそ……ですか」
独特な表現だ。
普通なら気味悪がるところかもしれないが、彼の純粋な知識欲に満ちた瞳を見ていると、邪険にする気にはなれなかった。
それに、オラントとの不毛な会話に疲れていた私にとって、知的な会話ができる相手は貴重だった。
「……少しだけですよ。私も仕事がありますので」
「やった! ありがとうございます! レイラさん」
こうして、私は思いがけず、第四王子殿下の家庭教師の真似事をすることになった。
この時の私は、まだ知らなかった。
この天使のような少年が、一度気に入った獲物を絶対に逃がさない、王家一の狂った執着心の持ち主であることを。
そして、この偶然の出会いが、私の「スローライフ計画」を粉砕する第一歩になることを。




