抜け出す目論みと落ち込む後輩
「その……今日のお仕事は昼からですが……」
知ってるさ。
仕事以外の用事があるから早めに来てんだよこっちは。早く来る分には何も悪いことねえだろ。
「別件で来た。ここ取次の台だよな? 俺の上の奴……じゃなくて、文官どもまとめてる上席に会わせてほしい。今来てるか?」
「そういうあなたも書記官ですよね……? まあ確かに来てますし、今からでも会えますが……。その、どうして服にそんなに葉っぱがついてるんですか?」
「気にすんな。家の場所を忘れて野宿しただけだ。これから会うってなったらちゃんと落とす」
「えぇ……この人おかしいよ……」
*
「吏長、話ががあって来……ました」
扉の前で拳を二度鳴らし、中から返った声に合わせて板戸を押すと、涼しい空気が頬に当たる。
部屋には背の曲がった隈の濃い女が椅子に腰を据えて、灰の目で紙を数える手を止めずにこっちを見てる。こいつが市務課の吏長だ。名前は覚えてねえ。
祝祭の翌日、仕事が昼からなのは承知だ。実際、執務場の机列はまだ空だしな。となるとこの部屋だけいつも通りなのが不思議だが。
相変わらず敬語ってのは苦手だが、相手は俺の上の存在だ。できる限りいつも口調が漏れないように気を配らねえと。
「なんだ朝から。仕事は昼からでいいと……まあいい、用件を言え」
「あー、えっと……辞を願いたい、です。俺にここの務めってのは、間違いなく向いてないんで」
昨日考えてた案その1だ。上に掛け合って最短でさっさと辞めちまう。
部屋の隅に立て掛けられた書板の面には印順が細かい字で並んでて、俺はあれを昨日から一字も覚えられていない。つまり、向き不向きで言えば最悪だってことだ。だからこれが成功すれば楽なんだが。まあ、ここの仕組みはよく分からねえし、却下される可能性はある。
「何を言っているのか、そんな冗談を言うやつだとは思わなかったが……。結論だけを言えば不可能だ、諦めろ」
俺の言葉を聞いて、吏長は紙を一枚伏せて声の調子を変えず、ため息と一緒に答えた。
チッ……。やっぱ無理か。「そんな冗談言うやつに見えなかった」ってことは、元の体の持ち主はやっぱり物言わぬ真面目な人間だったってことかね。
だが、どうしてダメなんだ。ただの仕事だろう。辞めたいって奴が全くいないなんてこともないだろうに--。
「辞は願って降りるものではない。書記官の務めは王侯貴族への忠誠と結びつく。王か領主の印を持つ者は、私の事情で外れない。ここに就いた初めの日に説明したはずだが?」
ああ、そういう……。
吏長は頷きもせず、目だけで俺の顔を測る。「一番に守るべき制約を忘れるなんて正気か?」って感じの顔で。もしかして禁句なのかこれ。
にしても。自由には、外れられないのか。そうか。文官ってのは単純に頭使うってだけじゃなくて、王家のために心血注ぐって名目で動いてなきゃダメってこと。へえ、増々息苦しい。
おかげで案その1は実行してすぐに崩壊の兆しを見せてる。なんとか、もう少し粘れないもんか。極力あきらめたくないんだが。
「例外とかは無いんですかね。あったら知りたい……んですけど」
「……その口調、今は置いておくとして。病気、老齢、宗教的な理由、より高位の者による許可。これらがあるのならば例外的に辞を許される可能性はあるだろう」
はあ、病気、老齢、宗教、許可ね。
なるほど。祭期が終わって忙しくなくなったからーって言い訳は使えないと。
しかし、どれも無理だな。俺に当てはまるものが一つもねえ。元の体の持ち主に変な病気持ちだとか、お偉いさんとのコネとかがあるかもしれねえが、俺はんなもん思い出せないしな。
「じゃあ、勝手に離れたら、どうなる、どうなりますか」
「状況次第だが、不忠、契約の破棄と見なす前例がある。軽ければ処罰、重ければ勾留、晒し台に立つこともあるな。前の年に三件、今年はなしだが、お前がそうなるか?」
「いえ、勘弁」
晒し台という言葉で胃がぎゅっと縮んだ。
なんでか知らないがもう二回も死の痛みを味わってる。これ以上はゴメンだ。
「分かっ、りました。ありがとう、ございます」
「フン。お前は普段文句を言わないから特別に見逃してやるが、次ふざけたことを言えば不忠とみなす、そう思っておけ」
残念だが、その文句を言わない優秀な文官アシェル君はこの世にいないんだよ。今は粗暴で敬語の苦手な元盗賊アシェルが代わりだ。言いやしないが。
「はい、肝に銘じ、ます」
軽く頭を下げて、部屋を出る。
ああ畜生。この仕事は勝手に辞められるようなもんじゃなかったってことか。タリエみたく、この仕事にプライド持ってないとやっていけなさそうだ。
執務場に戻っても、机列は相変わらず空。まあ、今日は昼からだからな、こんな時間に来るのは俺みたいに理由がある奴だけだろう。椅子を引いて座り、机の上に目をやる。置かれてる紙は全く俺の頭に入ってこない。さっさと辞めねえと。案その1は失敗だ。じゃあその2をやるしかない。
「とにかく俺自身を無能に見せる。幸い俺はここの都合が何も分からねえんだ。色々失敗して『意欲はあるが、ここに置いても逆効果でしかない』っていう風に思わせる。これが一番か」
頭の中で段取りを踏む。
角押しの角度を間違えるとか、控帳の行を一つ空けるとか、札を違う色の束に紛れさせるとか、そういう小さな崩し方を繰り返して、文官一人分が生み出す利益より、それを上回る不利益を呼び込む存在だって認知させるんだ。それで、周囲からの糾弾と共に、俺の意思に反するという体でクビを狙う。
気をつけなきゃいけねえのが、やりすぎ厳禁ってことだ。もし失敗の度合いがデカすぎれば、物理的な意味でクビが飛ばされるハメになるかもしれねえ。
とにかく、今はタリエを待とう。俺は仕事のやり方がまるで分からん。上手くやるにも、わざと下手するにも、正しい仕事ってのがどんなものか教えてくれる奴がいないと始めることすらできねえからな。
*
執務場は静かだ。まだ昼前だから人があんま集まってない。吏長が準備してた札色とか紐綴じの束とかは昨日見た並びとは違う。札の札頭に刻まれた印も違う。今日は祝祭のときの残った仕事と市門の出入りの書類を扱う日らしい。当然説明はない。多分ここの人間は何度もやってる作業なんだろう。俺は今日が初めてだ。
椅子を引いたとき、隣の机の影から視線がのぞいた。細い首がゆっくり伸びてきて、茶髪と眼鏡が端で揺れる。
誰だっけコイツ……。
「……ア、アシェルさん。一人でそんなに早く来るのめずらしい、ですね」
--ああ、ソラナだ。昨日タリエと一緒俺の近くにいた。口が開くのにやけに時間がかかる女だ。
「そうなのか? いつもはもっと遅く?」
「い、いえ、遅いっていうほどじゃなくて……。でも、いつもは時間通りに来てましたしぃ……」
笑ってるのか怯えてるのか分からん声音だ。目が泳いでいる。コイツいつもこうなのか? なんだか喋りにくいな。
まあいい、仕事のやり方はコイツに教えてもらうことに──。
「で、その、今日はどういう風にすればいいでしょう……?」
「ん?」
「えっ?」
え?
待てよ? 嫌な言葉が聞こえた気がしたんだが。まさかだよな?
「お前、仕事内容知らないのか?」
「えっ、あっ、い、いいえ。でも、私はまだ入って浅い、ので。基本、タリエ君と私はアシェルさんに見てもらう形で……でしたよね?」
……嘘だろ。
元の体の持ち主は何でそんな俺への配慮に欠ける仕事を引き受けてやがる。
「……すまんが、逆に聞かせてくれ。いつも俺は何からやってた。順に言え。最初は何だった」
「えぇぇっ……!? えっと、えっと……」
ソラナは喉を鳴らして、指を一本ずつ折る。
「印影は、朱肉を強くつけない。息、少し吐いてから、置く……って、先輩、いつもそうでした」
「墨が垂れたら、砂皿で吸わせます。こすらない。紙が毛羽立って、余計ひどくなるから……あ、こ、これです、この小皿」
「回す順は、赤→青→記録控→封。黒縁は別置き、ぜったい混ぜないように……。混ぜると、えっと、その、怒られます。連座で」
「控帳の一行目は、太い筆じゃなくて、細いので。煤竹の方で……えい、あ、持ち方はそっちじゃ……あ、いや、違う、かも……?」
「受理印と官印は別です。受理はここ、市務課で、官印は政院の。台が違うから……ま、間違えると、台の番が黙って持っていきます」
話が進めば進むほど俺の知らない単語と制度がポンポン出てきやがる。なんとか飲み込もうとするがまるで覚えられる気がしねえ。俺を見るソラナの目の怪訝さもどんどん加速していく。
--あ、何だって? 「市門の出入り管理は最初に控帳の一行目を『定めの文』で書く?」って言ったか?
「──その『定めの文』って何だ?」
「え、えっと……。『祝祭残務と市門出入り、受け取り二十、昼の鐘までに封』みたいな……た、たぶんです。あっ、字は、アシェルさんの字でないとだめで……」
……元の俺の字なんざ覚えてねえぞ。
筆を取る。試しに書いてみるが、まあ読めたもんじゃない。人に読ませるための文字なんて書いた覚えがねえからな。
とかしてると、先が割れて墨が垂れた。紙の端に黒い痕が。
あっ、やべ。
「あ、あわわわ……! あ、痕が!」
「ま、待て! どうすりゃいいこれ!?」
「な、なんでアシェルさんが知らないんですかぁ! いつも代わりにやってくれてたのにぃ……!」
知らん知らん! どうすりゃいい! そもそも前の俺は何者なんだよ。そこまで手が早いなら、手順の一枚でも残しておけって話だ。
墨の痕は指でこすっても広がるばかりで、紙の端がしけた布みたいに黒ずむ。ああ、畜生……。
もういい、これはバレないように捨てる。今は服の中にでも突っ込んどけ。後でまた思い出したときに燃やせばいいだろ。
口の中で毒づいたところで、ソラナの眼鏡の奥の目がびくっと揺れた。肩もすくむ。
「……そ、その。ア、アシェルさん。きょ、今日は声が……荒くない、ですか? こ、こわいんですけど、わたし……」
「は?」
「ひっ!」
「──い、いや。待ってくれ。今のは俺が悪かった。なんか凄むみたいになっちまった。落ち着け」
「は、はぃ……!」
そうだ。今の俺は元々文官やってた俺とかなり違う性格になってる。さっきも吏長に同じようなこと言われたばっかりだ。
俺の性格が変わりすぎてるからコイツも怖がり過ぎてるんじゃねえか。だから何もかもグダグダなんじゃねえか俺たち。多分そういうことだろ。じゃあ──。
「変なこと聞くが、俺は、前はどんなだった」
「え……ど、どんな……?」
「いつもどうしてた。どういう口調だった。目つきとか、性格とか。それに比べりゃ今の俺はやっぱり変か」
ここで前の俺のことを聞いて、できる範囲で模倣する。そうすれば周りに怪しまれたり、連携が乱れたりせずに済むはずだ。
ソラナは喉を鳴らしながら、机の端をつまむ指を少しずつ動かした。茶髪が頬に張りつく。ゆっくり息を吸って、細い声を吐く。
「……ま、前のアシェルさんは……静か、でした。目は、紙だけ見て……声は、もっと小さく、ひそひそ、で。えへへ……」
「お、おお」
「わら、うときも……あんまり声、出さないし。わたしがへましても、絶対怒らない、し。……きょ、今日はなんか……全部ちが、います。その、こわい、です」
「そ、そうか」
--こりゃ無理だな。
俺にはできそうにねえ。ここの仕事も、元の俺の模倣も。兵士の時と同じだ。あの時も無理に合わせようとして結局数日しかもたなかった。
諦めよう。タリエに聞こう。もうアイツしかこのグダグダを回せる気がしねえ。
そういえばアイツどこ行ってんだ。祝祭が終わってすぐに用事があって港町の方に……。
港? 港からどこ行くんだ?
──『処刑者名簿の件ですが、祝祭関係の仕事が多くて今すぐには手を付けられなさそうです。祝祭が終わってからそちらに送らせていただきます』
──あっ!
そうか、アイツ! 兵士のアシェルのとこに行ってるのか!
*
「──ちょ、ちょっと! 待ってくださーいっ! アシェルさんっ、どこ行くんですかぁー!」
部屋からさっさと出て、通路をまっすぐ抜ける。戸口の敷居をまたぎ、石段を二段飛ばしで降りる。
後ろのうるさいのは無視だ、悪いな。
「そうだったそうだった。忘れてたよ」
俺は盗賊の頃の俺がどうなってるかを知りたくて、兵士の頃の俺の時にタリエに処刑された奴の名簿を頼んでたんだった。でも兵士の頃の俺はもう死んでて、今の俺は文官になってる訳だが。自分で言ってて訳分からねえな。なんだこれ。
というか、兵士の俺はどうなってるんだ? タリエとの約束が生きてるってことは、タリエが兵士の俺と出会ってたって事実は存在してるはずだ。成り代わるごとに元の俺の存在が消えてるんだったら、タリエが兵舎に行く用事は存在しなくなるよな。てことは、俺の存在が消えてない。つまり盗賊の俺の名前は処刑名簿にきっちり残ってるってことに……?
ん? それなら、タリエは同じ名前の知り合いが初めから二人いたってことになるんだよな。気になったりしねえのか。ああクソ、頭こんがらがってきた。
足早に出口へ向かいながら頭の中で順を組む。まあ、こうなればやることは単純だ。
戻ってきたタリエに兵士の俺の現状を聞き、そのまま処刑名簿の中身を見せてもらって、俺の名前があるか確認する。で、ついでに俺とソラナの手助けに回ってもらう。
今の俺は、盗賊の頃の俺とも、兵士の頃の俺とも、見た目がまるで違う。が、全員名前は同じ。だからもし、アシェルって名前の記録が名簿と兵舎にそれぞれあるなら怪しまれないように誘導する必要もある。
タリエが申請できたってことは、文官ならいつでも処刑名簿を手に入れられるってこと。だが、ああいうのは申請者の名前が記録されるもんだ。俺と同じ名前が入ってる文書を俺が申請してる記録が残れば後々厄介なことになるかもしれねえ。申請には理由とかが必要だろうが、俺が書くにして馬鹿正直に書くわけにはいかないし、かといって矛盾のない嘘を書けるほどの学もない。処刑名簿はアイツから見せてもらうのが最善だ。
とりあえずタリエがどう動くか考えよう。
まず、アイツは約束を果たすために、全速力で兵士の俺がいた兵舎に向かうはずだ。で、そこで見習い兵の殉職を知るはず。受取人のいない荷物をそのまま預けるなんてしないだろう。
それで、真面目なアイツは「申請が必要な書類」をその場にポイっと捨てるなんてこともしない、はずだ。だから、荷物を持って戻ってくる。もちろん今日も仕事だからな。真っ先に迎えて、書類を俺が処理してやると提案するんだ。そういえばそのまま処刑名簿を受け取ることができる。逆に俺がタリエを見つけるのが遅くなって、「先に処分した」なんて言われたら失敗な訳だ。
だから、港からの道のりを逆算してタリエを見つければいい。政院を出て大通りに向かう。港から戻ってくるなら必ずここを通るはずだ。人の流れが多いから見つけづらいかもしれねえが、タリエの背格好なら見分けはつく。
大通りに出ると、予想通り人でごった返してた。視線を左右に振りながら。黒髪を低く束ねた男、細い眉に灰色の目、几帳面そうな服装で、書類の束を抱えてるはず。人波の中を目で追うが、人が多すぎて遠目じゃ判別がつかねえ。近づいて確認するしかねえか。
一人、また一人と横を通り過ぎるが、どれも違う。背が高すぎる、髪が短すぎる、荷物を持ってない。どこだ……?
もう少し先まで行ってみるか。港からの道なら、あの角を曲がったあたりで──ああ、いたいた。丁度見つかった。
……なんでそんな暗い顔してるんだ?
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