第5話:異世界商店、開店
宿屋のベッドで迎えた朝は、信じられないほど穏やかだった。
『暁の剣』にいた頃は、リーダーのアレクサンダーの怒声か、戦士ゴードンの乱暴な足音で叩き起こされるのが常だった。それに比べれば、窓から差し込む柔らかな朝日と、遠くで聞こえる鳥のさえずりは、まるで別世界の音楽のようだ。
「……本当に、自由なんだ」
誰に縛られることもない。誰に蔑まされることもない。自分の意思で一日を始められる。その当たり前の事実が、今の俺、アルスにとってはとてつもなく貴重なものに感じられた。
ベッドから起き上がり、まずは今後の計画を練る。
昨日の路上販売は成功だったが、いつまでも無許可で商売を続けるわけにはいかない。衛兵に捕まれば、せっかく稼いだ資金も没収されかねない。
「まずは、商人として正式に認められる必要があるな」
そのためには、この街の商業ギルドに登録し、商人としての身分証を手に入れなければならない。そして、自分の店を構えること。それが、商人アルスとしての次なる目標だ。
俺は宿で朝食を済ませると、稼いだ銀貨のほとんどが入った皮袋を懐にしまい込み、商業ギルドへと向かった。
冒険者ギルドの荒々しい雰囲気とは違い、商業ギルドの建物は石造りの重厚で落ち着いた佇まいをしていた。中に入ると、帳簿を整理する職員や、商談に臨む商人たちで活気に満ちている。
受付カウンターにいた、眼鏡をかけた初老の男性職員に声をかける。
「すみません、商人として新規に登録したいのですが」
男は帳簿から顔を上げると、俺の姿を頭のてっぺんからつま先まで値踏みするように眺めた。その目に、あからさまな侮蔑の色が浮かぶ。
「ほう、お前のような若造が? 商売をなめているのか? 新規登録には、後ろ盾となる保証人か、さもなければ高額な登録料が必要になる。お前に払えるのかね?」
まただ。この手の、人を身なりや年齢で判断する視線。もううんざりだ。
だが、今の俺はかつてのアルスではない。俺は無言で、懐から銀貨が詰まった皮袋を取り出し、カウンターにドン、と置いた。じゃらり、と重い金属音が響き、男性職員の目がわずかに見開かれる。
「登録料は、これで足りますか?」
俺が中身を見せると、そこには50枚以上の銀貨が輝いていた。男は一瞬言葉を失ったが、すぐに咳払いをして体裁を取り繕った。
「……ふん。金はあるようだな。ならば問題ない。こちらの書類に必要事項を記入しろ」
俺は渡された書類に、『アルス』という名前と、宿の住所を偽りの拠点として記入していく。特に難しい項目はなく、手続きは滞りなく進んだ。
登録料として銀貨30枚を支払うと、俺の手元には真新しい銅板の身分証が渡された。そこには、『商人アルス』という文字がくっきりと刻まれている。
「これで、俺は正式な商人だ……」
身分証を握りしめる。それは、俺がこの世界で自分の足で立っていくという、決意の証だった。
ギルドを出た俺は、次に自分の店となる場所を探し始めた。
といっても、いきなり建物を借りるほどの資金はない。まずは、市場で露店を出す権利を確保するのが現実的だろう。
市場の管理事務所で手続きをすると、幸運にも人通りの多い一角に、小さな空きスペースがあることがわかった。一日銀貨5枚という場所代は今の俺には安くはないが、先行投資としては必要経費だ。俺は迷わず、一週間分の場所代を前払いした。
これで、商売の基盤は整った。
あとは、何を売るかだ。ライターは今後も主力商品になるだろうが、それ一本ではいずれ飽きられる。もっと客層を広げ、安定した収益を上げるための、新たな目玉商品が必要だった。
宿に戻った俺は、ベッドに座って【次元連結収納】のウィンドウを開く。
キーワードを打ち込み、異世界『地球』のアイテムを検索していく。
(食料品は、やはり強い。だが、調味料は使い方が伝わりにくいかもしれない。もっと手軽で、インパクトがあって、誰もが美味いと感じるもの……)
思考を巡らせる中で、ふと一つのアイテムに目が留まった。
色とりどりのカップに入った、インスタント食品。『カップラーメン』というらしい。
説明を読むと、『お湯を注いで3分待つだけで、本格的な麺料理が楽しめる』とある。
「……これだ!」
俺は直感的に確信した。
この世界にも麺料理はあるが、スープから作る手間のかかる料理だ。それが、お湯を注ぐだけで完成する。しかも、味の種類も豊富。これは絶対に売れる。特に、ダンジョンに潜る冒険者たちにとっては、手軽に温かい食事がとれるというのは、とてつもない魅力のはずだ。
俺は早速、MPを消費していくつかの種類のカップラーメンと、お湯を沸かすための『電気ケトル』、そして水をスキルで取り寄せた。ケトルに水を入れ、コンセントは……ない。しまった、電気の概念がこの世界にはないのを忘れていた。
「……まあ、いい。火ならライターがある」
俺は焚き火用の小さな鍋を取り寄せ、ライターで火を起こしてお湯を沸かす。
そして、醤油味のカップラーメンの蓋を開け、熱湯を注いで3分待つ。
蓋を開けた瞬間に立ち上る、香ばしい醤油と出汁の香り。それは、この世界のどんな料理とも違う、強烈に食欲をそそる匂いだった。
ずる、と麺をすする。
「――うまいっ!!」
思わず声が出た。歯切れの良い麺、深みのあるスープ、そして具材の肉や野菜の旨味。全てが完璧に調和している。これが、お湯を注いだだけで出来上がった料理だとは、到底信じられないクオリティだった。
「よし、決めた。明日の商品はこれだ!」
翌日。
市場の一角に確保した自分のスペースに、俺は小さな木の机と椅子を設置した。これもスキルで取り寄せたものだ。
そして、机の上には色とりどりのカップラーメンを並べ、手書きの看板を掲げた。
【異世界商店アルス 本日開店! お湯を注いで3分! 奇跡の麺料理、一杯銅貨5枚!】
さらに、試食用の小さなカップも用意し、鍋でお湯を沸かし続ける。
開店準備が整った頃には、物珍しそうな人々が遠巻きに俺の店を眺めていた。
「異世界商店? なんだそりゃ」
「銅貨5枚で麺料理だと? 安すぎないか?」
人々のざわめきが聞こえる。いいぞ、注目は集まっている。
俺は腹から声を張り上げた。
「さあ、いらっしゃい! 本日開店、異世界商店アルスだよ! ここでしか味わえない、奇跡の麺料理はいかがかな!? 最初の10名様には、試食をサービスするよ!」
その声に、最初に食いついてきたのは、屈強な鎧を着込んだ冒険者風の男たちだった。
商人アルスの、本当の戦いが今、始まろうとしていた。
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