第36話:王女からの『宿題』
セイレーンの里から帰還し、過去との因縁に終止符を打ってから、一ヶ月が過ぎた。
俺の日常は、驚くほど穏やかで、そして満ち足りたものになっていた。
拡張オープンした『異世界商店アルス』は、もはやこの街のランドマークとなっていた。新設されたベーカリーコーナーは連日大盛況で、ふわふわの食パンや甘い菓子パンは、焼き上がると同時に飛ぶように売れていく。
そして、一日三回行われるセイレーン三姉妹のステージは、入場料を取ってもいいほどの人気ぶりで、彼女たちの歌声を聴きながら焼きたてのパンを頬張ることが、街の人々にとって最高の娯‷となっていた。
「店長! クリームパン、あと10個で完売です!」
「了解! すぐに次の生地を窯に入れる!」
「アルス、店の裏で、怪しい男がうちのパンの材料を嗅ぎ回っていたから、軽く『お話』をしておいたわ。もう来ないでしょう」
「ルナお姉ちゃん、すごい! かっこいい!」
「アルス様、今度の新曲、聞いていただけますか?」
ミリア、ルナ、アリア、セレン、シエラ。
彼女たちとの賑やかな毎日は、俺がかつて夢見た、ささやかで温かい幸せそのものだった。
追放されたあの日の絶望が、まるで遠い昔の悪夢のように感じられる。
だが、そんな穏やかな日常に、新たな波紋を投げかける一通の手紙が、王都から届けられた。
差出人は、第三王女アリーシャ・フォン・エルドラド。
王家の紋章が輝く封蝋を丁寧に開けると、中から彼女の可愛らしい文字で書かれた手紙が現れた。
『親愛なるわたくしの御用商人、アルスへ。
元気にしているかしら? あなたが王都を去ってから、わたくしは退屈で死んでしまいそうですわ。あなたの『講義』がないと、一日がこんなにも長く感じるなんて、思ってもみませんでした。
近いうちに、必ず王都へ来て、わたくしに新しい世界のことを教えてちょうだい。これは命令よ!』
そこまで読んで、俺は苦笑した。相変わらずの、わがまま姫っぷりだ。
だが、手紙はそこで終わっていなかった。
追伸として、小さな文字で、こう書き加えられていたのだ。
『追伸。あなたへの、次の講義までの『宿題』よ。
我が国の東、隣国グレンデルとの国境に、『嘆きの荒野』と呼ばれる不毛の大地があるわ。そこは、何百年もの間、草木一本育たない呪われた土地として、両国の間で厄介な領土問題の火種となっているの。
その土地を、調査してちょうだい。そして、もし可能なら……その呪いを解き、緑豊かな大地に変える方法を見つけてきてほしいの。
わたくしは、この問題を解決することで、父上や兄上たちに、わたくしの力を示したい。あなたなら、きっと何か面白い答えを見つけてくれると、信じているわ』
手紙を読み終えた俺は、天を仰いで長いため息をついた。
「……宿題、ねえ。とんでもないスケールの宿題を出しやがる」
呪われた土地の再生。
それは、もはや一介の商人が手を出していい領域を、遥かに超えている。国家プロジェクト、いや、神話の領域の話だ。
だが、アリーシャ王女は、俺の規格外の力を知った上で、この難題を突きつけてきている。彼女は、俺を試しているのだ。
俺は、店の事務所で、仲間たちに手紙の内容を話した。
ミリアは、案の定、顔を青くして心配した。
「の、呪われた土地……!? 店長、そんな危険な場所へ行くなんて、絶対にいけません!」
アリアも、眉をひそめる。
「嘆きの荒野……。私たちセイレーン族の伝承にも残っています。古代の邪悪な魔法によって、大地そのものが生命力を失った場所だと……。近づくべきではありません」
彼女たちの心配は、もっともだった。
だが、俺の隣で話を聞いていたルナは、目を輝かせていた。
「呪いを解く……。面白そうじゃない。あなたの、あの不思議な力なら、本当にできてしまうかもしれないわね」
その言葉に、俺の中の挑戦心が、むくむくと頭をもたげた。
確かに、危険な依頼だ。失敗すれば、王女の期待を裏切ることになる。
だが、もし成功すれば?
一つの土地を、国を、救うことができるかもしれない。
俺の【次元連結収納】は、ただ珍しいものを売るためのスキルじゃない。この世界が抱える、根源的な問題を解決できるほどの、可能性を秘めているのではないか?
「……よし。決めた」
俺は、パンと立ち上がった。
「この宿題、受けて立とうじゃないか」
「て、店長!?」
「大丈夫だ、ミリア。調査に行くだけさ。それに、俺には最強の護衛がついているからな」
俺がそう言ってルナに視線を送ると、彼女は「当然」とばかりに小さく頷いた。
「アリアたちも、心配してくれてありがとう。だが、これは俺が王女と交わした契約だ。それに、もし不毛の大地を緑に変えることができれば、それは新しいビジネスチャンスにもなる」
俺が商人らしい理屈を付け加えると、アリアも渋々ながら納得してくれた。
こうして、俺の次なる目的地が決まった。
東の国境、嘆きの荒野。
店の留守は、ミリアとセイレーン三姉妹に任せる。彼女たちなら、もう何も心配いらないだろう。
俺は、相棒のルナと共に、再び旅に出る。
それは、復讐のためでも、金儲けのためでもない。
一人の少女の期待に応え、そして、自分自身の力の可能性を試すための、新たな冒険。
俺は、スキルウィンドウを開き、検索窓に、新しいキーワードを打ち込んだ。
「土壌改良」「農業技術」「地質学」。
俺の武器は、剣でも魔法でもない。
異世界『地球』が、数千年かけて積み上げてきた、膨大な『知識』と『技術』だ。
商人アルスの、前代未聞の国土開発プロジェクトが、今、始まろうとしていた。
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