第35話:帰るべき場所
セイレーンの里での宴の翌日、俺たちは帰路についた。
病に倒れていた里の者たちの容態も安定し、俺が残していった医薬品と治療マニュアルがあれば、完全に回復するのも時間の問題だろう。
「アルス様、本当に、何とお礼を言ったらよいか……」
里の長老が、涙ながらに俺の手を取った。
「このご恩は、セイレーン一族、未来永劫忘れません。もし、何かお困りのことがあれば、いつでも、この里を頼ってください」
アリアたち三姉妹は、俺たちと共に街へ戻ることになった。彼女たちの歌声は、もはや俺の店にとって、なくてはならないものになっていたからだ。里の者たちも、彼女たちが外の世界で、自分たちの歌で人々を幸せにしていることを知り、快く送り出してくれた。
「アルス様、これからも、よろしくお願いします!」
シエラが、元気よく俺の袖を引く。
「ああ。よろしくな」
俺たちの背後で、里のセイレーンたちが、美しい『旅立ちの歌』を歌ってくれている。
それは、俺たちの未来を祝福してくれるかのように、どこまでも澄み渡る青空へと、吸い込まれていった。
街に戻ると、俺たちは英雄のような歓迎を受けた。
商業ギルドのバルトロが、既に今回の事件――『霧の中の怪盗』の正体と、その裏で糸を引いていた『暁の剣』の悪事を、街中に公表していたのだ。
俺が、セイレーンたちを救い、街の平和を取り戻した、と。
「よくやってくれた、アルス君! 君は、もはやただの商人ではない。この街の、英雄だ!」
バルトロに大げさに肩を叩かれ、俺は照れるしかなかった。
そして、俺たちが真っ先に向かったのは、もちろん、俺たちの店、『異世界商店アルス』だった。
店の前には、相変わらずの行列ができていたが、俺たちの姿を認めた客たちが、道を開け、拍手で迎えてくれた。
「アルス店長! お帰りなさい!」
「セイレーンの姉ちゃんたちも、無事でよかった!」
その温かい声援の中を通り抜け、店の扉を開ける。
そこには、エプロン姿で、少しだけ心配そうな顔をして、俺たちの帰りを待っていたミリアの姿があった。
「……店長……! 皆さん……!」
彼女は、俺たちの顔を見ると、その大きな瞳に、みるみるうちに涙を溜めた。
そして、次の瞬間、彼女は俺の胸に、再び飛び込んできた。
もはや、恒例行事のようになってしまっている。
「うわっ、と! ミリア、ただいま」
「お、お帰りなさい……! よかった……本当によかった……!」
彼女は、ただそれだけを繰り返し、俺の胸に顔をうずめて、子供のように泣いていた。
俺がいない間、彼女は彼女で、ずっと戦っていたのだ。店の切り盛りと、俺たちへの心配と。
その健気さが、たまらなく愛おしかった。
「よしよし。もう大丈夫だ。俺たちは、帰ってきたぞ」
俺が彼女の頭を優しく撫でていると、その後ろから、ルナとアリアたちが、どこか生温かい視線を送ってきているのに気づいた。
「……ずいぶんと、仲がよろしいのね」
「まあ、ミリアさんは、アルス様の『特別』ですから」
「きゃっきゃっ!」
ルナとアリアが、何やらひそひそと話している。シエラは、ただ楽しそうに笑っているだけだった。
俺は、気まずくなって咳払いをすると、ミリアの肩をそっと離した。
その夜は、店の全員で、ささやかな祝勝会を開いた。
ミリアが腕によりをかけて作った、温かいシチュー。
ベーカリーコーナーで新しく焼き上がった、ふわふわのパン。
そして、アリアたちが、俺たちのために歌ってくれる、優しい『感謝の歌』。
食卓を囲むのは、俺と、四人の少女たち。
真面目で心優しい、店の看板娘、ミリア。
クールで腕利き、俺の相棒、ルナ。
そして、歌姫三姉妹の、アリア、セレン、シエラ。
いつの間にか、俺の周りは、こんなにも賑やかになっていた。
俺は、シチューを頬張りながら、しみじみと思う。
追放されたあの日、俺は全てを失ったと思っていた。
だが、失ったものよりも、遥かに多くの、大切なものを手に入れた。
ここが、俺の帰る場所。
俺が、守りたいと心から願う、俺の『家族』のような場所。
「店長、シチューのおかわり、いかがですか?」
「……アルス、そのパン、一つもらってもいいかしら」
「アルス様! 今度、私たちの里の料理も、ご馳走しますね!」
彼女たちの声が、温かい料理が、そして穏やかな時間が、俺の心をじんわりと満たしていく。
もう、復讐も、過去の因縁も、ここにはない。
あるのは、明日への希望と、大切な仲間たちの笑顔だけだ。
「……ああ。おかわりを、もらおうかな」
俺は、笑ってそう答えた。
商人アルスの物語は、一つの大きな嵐が過ぎ去り、穏やかな航海へと入ろうとしていた。
だが、彼がこの世界にもたらした『異世界の産物』は、彼が思うよりもずっと大きな波紋を広げ、やがて、この国の、いや、この世界のあり方そのものを、大きく変えていくことになる。
彼の本当の伝説は、この温かい食卓から、静かに始まろうとしていた。
これは、まだその序章に過ぎないのである。
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