第3話:商人アルス、第一歩
裏路地の冷たい石畳の上で目を覚ました俺は、まず最初に頬をつねった。じんわりとした痛みが、昨夜の出来事が夢ではなかったことを教えてくれる。
「……本当に、俺のスキルは覚醒したんだ」
空っぽだった胃は、昨夜食べたおにぎりのおかげで満たされている。体にかけられた毛布は驚くほど温かく、おかげで風邪一つひいていない。俺は改めて、自分のスキルウィンドウを開いた。
半透明のスクリーンには、やはり【次元連結システム】の文字が輝いている。
さて、商人として生きていくと決めたからには、まず計画を立てなければならない。最大の課題は、元手となる資金がないことだ。アレクサンダーに投げつけられた銅貨数枚では、商品を仕入れるどころか、今日の食事にも事欠く。
だが、今の俺にはこの【次元連結収納】がある。
俺は早速、スキルの詳細な仕様を確かめることにした。
「まずは……コストだ。昨日はおにぎりや水を簡単に出せたけど、もしかして何かを消費しているのか?」
自分のステータスを確認してみる。すると、MPが最大値から僅かに減少していた。どうやら、アイテムを異世界から取り寄せる際には、魔力を消費するらしい。おにぎりや水、毛布といった安価なものなら、消費量は微々たるものだ。
「それなら、金塊みたいな高価なものはどうなんだ?」
好奇心から、試しに「純金の延べ棒」と念じて検索してみる。ウィンドウには確かにそれらしき画像が表示されたが、取り寄せようとすると、警告メッセージがポップアップした。
【MPが不足しています。このアイテムの転送には、莫大なMP、あるいは指定座標『地球(Japan)』の通貨が必要です】
「……なるほど。やっぱり、そううまい話はないか」
どうやら、このスキルは万能の打ち出の小槌というわけではなく、何らかの等価交換の法則が働いているらしい。直接的な富そのものを無から生み出すことはできないようだ。だが、それでいい。その方が、ゲームみたいで面白いじゃないか。
今の俺には『地球』の通貨などないし、MPも潤沢ではない。となれば、取るべき戦略は一つ。
『MP消費が少なく、この世界では価値が高いもの』を地球から取り寄せて販売し、元手を作る。
「この世界にあって、地球にないもの……逆だ。地球にあって、この世界にないもの……」
考えを巡らせる。昨夜のおにぎりは衝撃的な美味さだった。食料品は良い商材になるかもしれない。特に、醤油や味噌、マヨネーズといった調味料は、この世界の料理文化に革命を起こせる可能性がある。
あるいは、日用品か。石鹸、歯ブラシ、あるいは――火だ。
この世界で火を起こすには、火打ち石を使うか、火の魔法が使える魔術師に頼むしかない。どちらも手間がかかるし、決して手軽ではなかった。
「……これだ!」
俺は「ライター」と念じて検索する。ウィンドウには、様々な種類のライターが表示された。その中から、最も安価で大量に手に入りそうな、何の変哲もないプラスチック製の使い捨てライターを選ぶ。MP消費は、ほとんどゼロに近かった。
試しに一つ、取り出してみる。カチリ、と親指でホイールを回すと、いとも簡単に安定した炎が灯った。
「すごい……。これなら、絶対に売れる」
火を自在に、しかも片手で操れる道具。冒険者はもちろん、一般家庭でも喉から手が出るほど欲しいはずだ。これなら最初の元手稼ぎには十分すぎる。
商材は決まった。次は、自分自身の問題だ。
今の俺は、何日も風呂に入っていない薄汚れた格好をしている。こんな姿では、商品を売る以前に誰も話を聞いてくれないだろう。
「まずは、身なりを整えないと」
俺はスキルを使い、清潔な下着と、地球の衣服と思われる『Tシャツ』と『ジーンズ』という服を取り寄せた。伸縮性があって動きやすい。この世界のゴワゴワした麻の服とは比べ物にならない着心地の良さだ。近くの井戸で体を洗い、新しい服に着替えると、気分まで一新された。鏡はないが、少なくとも浮浪者のようには見えないはずだ。
準備は整った。
ライターを【収納】に数十個ほど仕入れ、俺――アルスは、商人としての第一歩を踏み出すべく、街の市場へと向かった。
大通りに出ると、活気のある声が聞こえてくる。市場は、朝から多くの人々で賑わっていた。野菜を売る農夫、串焼きの屋台、怪しげな薬を売る行商人。誰もが生活のために必死に声を張り上げている。
その喧騒の中を歩いていると、ふと聞き覚えのある声が耳に入った。
「聞いたか? 『暁の剣』の連中、昨日『深淵の迷宮』の30階層をクリアしたらしいぜ」
「さすがはSランクパーティだな! 勇者アレクサンダーの活躍は、吟遊詩人が歌にするほどだ」
冒険者たちが集まる酒場の店先で、男たちが噂話に花を咲かせている。俺は思わず足を止め、聞き耳を立てた。
「そういや、いつも一緒にいた荷物持ちのガキ、見なかったな」
「ああ、アルスとか言ったか。あいつ、クビになったらしいぜ。なんでも、ボス戦でヘマしてパーティを危険に晒したんだと」
「そりゃダメだな! 戦闘能力のないやつは、せめて邪魔しないことだけが取り柄なのにな。アレクサンダー様も、ようやくお荷物を切り捨てられて清々しただろうよ」
下卑た笑い声が、俺の胸に突き刺さる。
――違う。俺は、みんなを助けようとして……。
言い返したい衝動に駆られたが、ぐっとこらえた。ここで何を言っても、負け犬の遠吠えにしか聞こえないだろう。それに、彼らはもう関係ない。俺の人生とは交わることのない、過去の人間だ。
俺は彼らに背を向け、再び歩き出す。
心に宿るのは、怒りよりもむしろ、冷徹な闘志だった。
見ていろ。お前たちが馬鹿にしたこの俺が、お前たちなぞ足元にも及ばない存在になってやる。金も、名声も、自由も、全てこの手で掴んでみせる。
市場の一角、比較的人通りの少ない場所に、空いているスペースを見つけた。露店を出すには、ギルドへの登録や場所代が必要になるのが普通だが、今の俺にはそんな金も資格もない。無許可の路上販売だ。衛兵に見つかれば追い払われるだろうが、やるしかなかった。
地面に布を広げ、その上に仕入れたライターを5つほど並べる。
さあ、ここからだ。
俺は一つ息を吸い込み、覚悟を決めた。
「さあさあ、お立ち会い! 見てってよ、持ってけよ! こいつは革命だ! 指先一つで火がつく魔法の道具だよ!」
商人アルスの、記念すべき初商売が始まった。
最初は誰も見向きもしなかったが、俺がカチ、カチ、と小気味よくライターで火をつけて見せると、次第に何人かが興味深そうに足を止め始めた。
その中の一人、腰の曲がった老婆が、恐る恐る俺に話しかけてきた。
「に、兄ちゃん……。そりゃあ、本当に魔法の道具なのかい?」
チャンスだ。俺はにっこりと笑みを浮かべ、老婆にライターを一つ手渡した。
「ああ、ばあちゃん。魔法なんかじゃない。もっとすごい、『科学』の道具さ。まあ、試しに使ってみてくれよ」
俺の新しい人生が、小さな炎と共に、今、静かに幕を開けた。
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