第29話:霧の湿地帯と歌声
翌日の早朝、俺とルナは霧の湿地帯に向けて出発した。
店のことはミリアに任せてきたが、彼女は今にも泣き出しそうな顔で俺たちを見送っていた。その姿に少し後ろ髪を引かれつつも、俺たちは覚悟を決めて街を出る。
「さて、と。まずは情報収集だな」
湿地帯の入口近くには、商隊が野営するための小さなキャンプ地があった。俺たちはそこで、最近被害に遭ったという商人から、詳しい話を聞くことにした。
商人は、疲れ果てた顔で、当時の状況を語ってくれた。
「……あれは、三日前のことです。この先の、ちょうど道が狭くなる谷間で、それは聞こえてきたんです。どこからともなく、女の、それはそれは美しい歌声が……」
「歌声?」
「ええ。あまりに美しい歌声で、私らも、護衛の冒険者たちも、思わず聞き惚れてしまって……。気がつくと、霧が一段と濃くなって、目の前が真っ白になっていたんです。そして、霧が晴れた時には……荷馬車に積んでいた、高価な香辛料の樽が、ごっそりと消えていた、というわけです」
他の被害者たちの証言も、ほとんど同じ内容だった。
美しい歌声、濃くなる霧、そして人的被害はなく、高価なものだけが盗まれていく。
まるで、伝説に登場する幻の盗賊団のようだ。
「……どう思う、ルナ?」
俺が尋ねると、ルナは腕を組んで、鋭い目で湿地帯の方角を睨んでいた。
「歌声で人の注意を引き、霧に紛れて犯行に及ぶ……。手口からして、相当な手練れね。おそらく、複数人の犯行。霧を操る魔法の使い手か、あるいはそういう効果を持つ魔道具を使っている可能性が高いわ」
「人的被害がない、というのも気になるな。ただの金目当てなら、邪魔な人間は殺してしまいそうなものだが」
「ええ。犯人には、何か『殺しができない』、あるいは『殺したくない』理由があるのかもしれないわね。……あるいは、人間ではない、何か別の存在の可能性も」
人間ではない、何か。
その言葉に、俺は少しだけ嫌な予感がした。
俺たちは、準備を整えると、ついに霧の湿地帯へと足を踏み入れた。
一歩中に入ると、空気がひんやりと湿り気を帯び、視界が一気に悪くなる。足元はぬかるみ、奇妙な形をした植物が、そこかしこに生い茂っていた。時折、遠くで未知の生物の鳴き声が聞こえ、不気味さを増幅させる。
「……気をつけて。何かに見られているわ」
ルナが、腰の小太刀に手をかけながら、低い声で囁いた。
俺も、いつでも【収納】からスタンガンやシールドを取り出せるように、意識を集中させる。
俺たちは、商隊が襲われたという谷間へと、慎重に進んでいった。
道は狭く、両側は切り立った崖になっている。確かに、ここは待ち伏せには絶好の場所だ。
そして、その谷間に差し掛かった、その時だった。
―――……la...la la... a...…
聞こえてきた。
それは、これまで聞いたどんな音楽とも違う、透き通るような、しかしどこか物悲しい、美しいソプラノの歌声だった。
霧の中から、まるで空間そのものが震えているかのように、その歌声は響き渡ってくる。
心が、洗われるようだ。全ての悩みや警戒心が、この歌声の中に溶けて消えていくような、不思議な感覚に陥る。
「……アルス! しっかりして!」
ルナの、厳しい声が俺の耳元で響いた。
ハッと我に返ると、俺はいつの間にか、その歌声に完全に聞き惚れて、立ち尽くしてしまっていた。
隣を見ると、ルナも額に汗を浮かべ、必死に歌声の魔力に抵抗しているようだった。さすがは、特殊な訓練を受けた暗殺者だ。精神力も並大抵ではない。
「……くっ……! これは、ただの歌じゃない……! 精神に干渉する、強力な魔法よ!」
「ああ、間違いない。この歌声で獲物の動きを止め、霧に紛れて荷物を奪う……。これが、奴らの手口か」
俺は、すかさずスキルで『耳栓』を取り出し、自分とルナの耳にはめた。
地球の安物だが、物理的に音を遮断する効果は、意外なほど有効だった。歌声はまだ聞こえるが、精神を揺さぶられるような感覚は、かなり薄らいだ。
「よし、これで動ける。犯人の居場所を探るぞ!」
「待って。霧が、濃くなってくるわ!」
ルナの言う通り、周囲の霧が、まるで生き物のように、俺たちに纏わりついてくる。視界は、もはや1メートル先も見えないほど、真っ白に閉ざされてしまった。
歌声の主は、この霧の向こう側にいる。
「どうする、アルス!? このままでは、敵の位置が……!」
「いや、こういう時のための、とっておきがある」
俺はニヤリと笑うと、【収納】から、一つの機械を取り出した。
それは、手のひらサイズの、小さなドローンだった。カメラと、熱を感知するサーマルセンサーが搭載されている、最新式の偵察用ドローンだ。
「なんだ、それは……? 鉄でできた、虫……?」
ルナが、怪訝な顔をする。
「まあ、見てろって」
俺は、手元のコントローラーのスクリーンを起動させ、ドローンを霧の中へと飛ばした。
ブーン、という静かな羽音と共に、ドローンは霧の中を突き進んでいく。
スクリーンには、サーマルセンサーが捉えた映像が、リアルタイムで映し出されていた。
霧で視界は遮られても、生物が発する『熱』は、隠すことができない。
そして、ドローンのカメラが、崖の上、約50メートル先に、複数の熱源を捉えた。
人影が、三つ。
そのうちの一つは、他よりも明らかに大きな熱を発している。おそらく、魔法を使い、歌っている本体だろう。
「……見つけたぞ。崖の上だ」
「! ……さすがね、あなた。本当に、何でも持っているのね」
ルナが、感心したように呟く。
俺は、ドローンをさらに接近させ、映像を拡大した。
スクリーンに映し出されたその姿を見て、俺とルナは、思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、人間ではなかった。
美しい歌声を響かせていたのは、長い耳と、透き通るような白い肌を持つ、三人の少女。
その背中には、まるで鳥のような、純白の翼が生えていた。
「……あれは……」
ルナが、信じられないといった声で呟く。
「……『セイレーン』……!? なぜ、あんな伝説の種族が、こんな場所に……?」
セイレーン。
美しい歌声で船乗りを惑わし、船を難破させると伝えられる、幻の亜人族。
彼女たちが、なぜこんな内陸の湿地帯で、商隊から荷物を奪うようなことをしているのか。
謎は、さらに深まった。
だが、正体は割れた。
俺はコントローラーを操作し、ドローンに搭載された、もう一つの機能を作動させた。
それは、小さなスピーカーから、大音量の『音』を出す、という機能だった。
俺が選んだ音は――地球のヘヴィメタルバンドの、絶叫のようなデスボイスだった。
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