第25話:『暁の剣』の凋落
頬に残るセシリアのキスマークを、ハンカチでそっと拭いながら宿屋に戻ると、ルナが腕を組んで、部屋の入口で俺を待ち構えていた。
その赤い瞳は、明らかに不機嫌な色をしていた。
「……遅かったわね」
「ああ、少し話が長引いてな」
「ずいぶんと、『甘い香り』がするじゃない」
彼女の鼻は、暗殺者らしく、常人よりも遥かに鋭いらしい。俺から漂う、セシリアの香水の匂いを正確に嗅ぎ取っていた。
「……何でもない。それより、何か変わったことはあったか?」
俺が話を逸らそうとすると、ルナはチッと小さく舌打ちをしたが、それ以上追及はしてこなかった。
「別に。ただ、あなたの『元仲間』たちが、ずいぶんと荒れているようよ」
「……『暁の剣』か」
「ええ。さっきまで、すぐそこの酒場で、ヤケ酒を煽って大騒ぎしていたわ。バウマイスター子爵家が、あなたとのオークションの一件で、王都中の笑いものになったのが相当堪えているみたいね」
その情報は、俺にとっても興味深いものだった。
彼らは、バウマイスター子爵という後ろ盾を失いかけている。まさに、今が叩き時だ。
「セシリア会頭も、同じことを考えているようだった。近いうちに、何か仕掛けてくるだろう」
「……あの女狐、何を企んでいるのかしら」
ルナは、セシリアのことを全く信用していないようだった。その警戒心は、護衛としては頼もしい限りだ。
そして、セシリアの動きは、俺の予想よりも遥かに速かった。
翌日の昼過ぎ、王都中に、一枚の『瓦版』が、クリムゾン商会の名で大々的に配布されたのだ。
そこには、衝撃的な見出しが、大きな文字で踊っていた。
【緊急開催! クリムゾン商会主催、次世代冒険者選抜トーナメント! 優勝パーティには、王家御用達の栄誉と、賞金金貨100枚を授与!】
その瓦版は、瞬く間に王都中の冒険者たちの心を鷲掴みにした。
王家御用達の称号。金貨100枚という破格の賞金。
一攫千金と名誉を夢見る冒険者たちが、色めき立たないはずがなかった。
「……なるほど。これがセシリアの策か」
俺は、瓦版を読みながら、彼女の狙いを正確に理解した。
このトーナメントの真の目的は、新しいスター冒険者を発掘することではない。
それは、これまで王都最強とされてきたSランクパーティ、『暁の剣』の権威を、公衆の面前で完全に失墜させるための、公開処刑台なのだ。
トーナメントの参加資格は、Aランク以下のパーティに限られている。
だが、その優勝パーティには、『暁の剣』への挑戦権が与えられる、と記されていた。
もし、『暁の剣』がこの挑戦を受けなければ、彼らは「格下のパーティに恐れをなして逃げた臆病者」として、未来永劫笑いものになるだろう。
もし挑戦を受け、そして万が一にも負けるようなことがあれば、彼らの『最強』という看板は、木っ端微塵に砕け散る。
どちらに転んでも、『暁の剣』にとっては地獄。実に、セシリアらしい、狡猾でえげつないやり方だった。
「……どうするのかしらね。あのプライドの高い勇者様は」
宿の窓から、冒険者ギルドの方角を眺めながら、ルナが面白そうに呟いた。
その答えは、すぐに出た。
トーナメント開催の発表から数時間後、『暁の剣』は、優勝パーティからの挑戦を、受けて立つと公式に表明したのだ。
リーダーであるアレクサンダーの名で出された声明には、こう書かれていた。
「我々の実力を、改めて愚民共に知らしめてやる良い機会だ。どんな挑戦者が来ようとも、我々『暁の剣』が最強であることを、その身に刻み込んでやろう」
その尊大で、自信に満ちた言葉の裏に、彼らの焦りが透けて見えた。
もはや、後には引けない。彼らは、自ら公開処刑台へと、その足を踏み入れたのだ。
そして、トーナメント開催の日。
王都の闘技場は、歴史的な一戦を見届けようと、数万の観衆で埋め尽くされていた。
俺は、セシリアやアリーシャ王女と共に、リングがよく見える貴賓席から、その光景を眺めていた。
「すごい熱気ね! こんなに面白い催し、初めてだわ!」
アリーシャ王女は、目をキラキラさせながら、興奮を隠せない様子だ。
「全ては、あなたの筋書き通りというわけね、セシリア」
「ええ。あとは、役者が期待通りの無様な姿を晒してくれるのを、待つだけですわ」
セシリアは、扇子で口元を隠し、冷ややかに笑う。
Aランク以下のトーナメントは、若く、勢いのあるパーティが順当に勝ち上がり、やがて『疾風の槍』という名の、4人組のパーティが優勝を飾った。
そして、ついにメインイベント。
『疾風の槍』対『暁の剣』のエキシビションマッチが、今、始まろうとしていた。
リングに、両パーティが入場する。
挑戦者である『疾風の槍』のメンバーは、緊張しながらも、その目には闘志がみなぎっている。
対して、『暁の剣』のメンバーは、どこか様子がおかしかった。
リーダーのアレクサンダーは、相変わらず傲慢な態度を崩していないが、その顔には疲労の色が濃い。
戦士のゴードンは、以前俺が一撃で倒した時のトラウマが残っているのか、どこか自信なさげだ。
僧侶のセラは、いつも通り無表情だが、その視線は虚空を彷徨っている。
そして、魔術師のリリアナ。彼女の顔色は青白く、その美しい顔には、焦りと不安がくっきりと浮かび上がっていた。
「……様子が変ね」
ルナが、俺の隣で小さく呟いた。
「ああ。俺という『荷物持ち』がいなくなってから、彼らのパーティ運営は、ガタガタになっているんだろう」
装備のメンテナンス、ポーションや食料の管理、ダンジョン攻略のスケジューリング。
そういった、地味で面倒な雑務の全てを、かつては俺が一人で担っていた。
彼らは、戦闘だけに集中していればよかった。だが、今は違う。慣れない雑務に追われ、満足な休息も取れず、パーティ内の連携は綻び始めているのだ。
その綻びは、最強のSランクパーティというメッキが剥がれた今、致命的な隙となって現れる。
試合開始のゴングが鳴り響いた。
戦いは、一方的な展開となった。
アレクサンダーの剣は、精彩を欠き、『疾風の槍』の素早い連携に翻弄される。
ゴードンの盾は、的確なタイミングで繰り出される集中攻撃に、じりじりと後退を余儀なくされる。
リリアナの放つ魔法は、焦りからかコントロールが定まらず、味方に当たりそうになる場面すらあった。
そして、決定的な瞬間が訪れる。
『疾風の槍』のリーダーが、防御の隙を突いて、アレクサンダーの懐に飛び込んだのだ。
「しまっ……! リリアナ、援護を!」
「きゃっ!」
リリアナは、咄嗟に放った炎の魔法を、あろうことか、味方であるゴードンの背中に当ててしまった。
「ぐわぁぁぁ! 熱い! リリアナ、てめえ!」
「ご、ごめんなさい!」
その一瞬の混乱。
それを見逃すほど、『疾風の槍』は甘くなかった。
リーダーの槍が、アレクサンダーの聖剣を弾き飛ばし、その勢いのまま、彼の胸当てを浅く、しかし確実に捉えた。
ドサッ、という鈍い音と共に、勇者アレクサンダーの身体が、リングの上に崩れ落ちた。
最強のSランクパーティが、格下のAランクパーティに、完膚なきまでに敗れ去った瞬間だった。
闘技場は、一瞬の静寂の後、割れんばかりの歓声と、そして嘲笑に包まれた。
『暁の剣』の伝説は、今日この日、完全に終わりを告げたのだ。
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