第24話:唇にダイヤモンド
セシリアが開けた小さな箱の中に入っていたのは、一本の口紅だった。
だが、それはただの口紅ではない。
ケースは、磨き上げられた黒曜石のように深く、滑らかな黒。そして、その中央には、星屑を散りばめたかのように、無数の小さなダイヤモンドが嵌め込まれていた。
この世界にも、紅を唇に差す文化はある。だが、それはベニバナなどから抽出した、単純な赤色の顔料がほとんどだ。
対して、俺が【収納】スキルで取り寄せたこれは、地球の高級化粧品ブランドが限定生産した、最高級の逸品。ダイヤモンドの微粒子が配合されており、光の角度によって七色に輝くという、魔法のような化粧品だった。
「……これは……?」
セシリリは、見たこともないその美しい化粧品から、目を離せずにいる。
「『口紅』です。ですが、ただの紅ではありません。淑女の唇を、宝石よりも鮮やかに彩るための、魔法の杖ですよ」
俺は、彼女に使い方を説明する。キャップを外し、紅の部分を繰り出す。
セシリアは、おそるおそるそれを手に取ると、自分の手の甲に、試しにすっと一筋、線を引いた。
「……!」
彼女の白い肌の上に、燃えるような、しかし深みのある、上品な真紅の線が描かれる。そして、その線は、店の明かりの光を受けて、キラキラと繊細に輝いていた。
「なんて……なんて美しい色なの……。それに、この輝き……」
彼女は、完全に魅了されていた。
クリムゾン商会の会頭として、これまでありとあらゆる宝飾品やドレスを見てきたはずの彼女が、たった一本の口紅に、少女のような無垢な驚きを見せている。
その姿に、俺は計画の成功を確信した。
「どうぞ、お納めください。クリムゾン商会の象徴である、燃えるような赤。あなたに、最もふさわしい色だと思ったので」
「……わたくしに?」
「はい。俺は、あなたとのパートナーシップを、何よりも重要に考えている。その証として、受け取っていただけませんか」
俺の言葉と、目の前にある抗いがたい魅力を持つ贈り物。
セシリアは、しばらく黙って口紅を見つめていたが、やがて顔を上げ、悪戯っぽく微笑んだ。
「……ずるい男ね、アルス君。あなたは、女の心を掴むのが、本当に上手いわ」
彼女はそう言うと、席を立ち、部屋の隅にある化粧台へと向かった。
そして、鏡を見ながら、俺が贈った口紅を、自身の唇に丁寧に塗り始めた。
その光景は、どこか神聖ですらあった。
彼女の美しい唇の輪郭が、鮮やかな赤色に縁どられていく。そして、塗り終えた彼女が、ゆっくりとこちらに振り向いた時、俺は思わず息を呑んだ。
いつもの、気の強い、怜悧な女会頭の姿はそこにはなかった。
代わりにいたのは、燃えるような色香と、抗いがたいほどの魅力を放つ、一人の『女』だった。
ダイヤモンドの輝きが、彼女の唇を動かすたびに、妖しく煌めく。
「……どうかしら? 似合う?」
彼女は、少しだけ不安そうに、しかし挑発するように、俺に問いかけた。
「……ええ。驚くほどに」
俺は、正直な感想を述べた。
「その唇は、もはや武器ですね。どんな商談も、思いのままにできるでしょう」
「あら、嬉しいことを言ってくれるのね」
セシリアは、満足そうに微笑むと、俺の隣の席に、するりと移動してきた。
彼女から、甘く、魅惑的な花の香りが漂ってくる。
「アルス君。あなたの誠意は、よく分かったわ。わたくしとクリムゾン商会は、これからもあなたの最大の支援者であり続ける。それは、このクリムゾンの名にかけて誓いましょう」
彼女はそう言うと、ワイングラスを手に取り、俺のグラスにこつんと合わせた。
「王女様との関係も、結構よ。むしろ、歓迎するわ。王家とクリムゾン商会、そしてあなた。この三者が手を組めば、この国でできないことなんて、何もなくなるでしょうね」
彼女の思考は、既に次のステージへと移行していた。
俺という存在を軸に、王家と自らの商会を結びつけ、国の経済を完全に掌握する。その壮大な絵図を、彼女は一瞬にして描き出したのだ。
「そのためにも、まずは邪魔者を掃除しないとね」
セシリアの目が、すっと細められる。
「バウマイスター子爵……そして、彼らを操っていた『暁の剣』。あの者たちを、この王都から完全に排除するわ」
「……何か、策が?」
俺が尋ねると、彼女は唇に指を当て、悪戯っぽく笑った。
「ええ、少し面白いことを思いついたの。あなたにも、一枚噛んでもらうことになるわよ、アルス君」
「光栄ですね」
俺とセシリアの間には、もはや疑念の影はなかった。
あるのは、巨大な権力と富を動かす、共犯者としての強固な信頼関係だけだ。
食事が終わり、俺が席を立とうとした時だった。
セシリアが、俺のネクタイをくいと引き寄せた。
「……!」
俺たちの顔が、触れ合うほどの間近に迫る。
彼女の燃えるような唇が、ゆっくりと、俺の頬に近づいてきた。
そして、柔らかく、温かい感触が、俺の頬に触れた。
「……これは、契約の証。そして、今日の贈り物へのお返しよ」
彼女は、俺の耳元でそう囁くと、名残惜しそうに唇を離した。
俺の頬には、ダイヤモンドが煌めく、真紅のキスマークが、くっきりと残されていた。
「……さて、とんだ夜遊びをしてしまったわね。そろそろお開きにしましょうか」
彼女は、何事もなかったかのように立ち上がると、店の出口へと向かう。
その足取りは、来た時よりも、心なしか軽やかに見えた。
一人残された俺は、自分の頬にそっと触れる。
そこにはまだ、彼女の唇の感触と、甘い香りが残っているようだった。
「……やれやれ。とんでもない女に、目をつけられたもんだな」
俺は苦笑いを浮かべながら、呟いた。
王女アリーシャ、暗殺者ルナ、そして女会頭セシリア。
俺の周りには、いつの間にか、一癖も二癖もある、しかし魅力的で、手強い女たちが集まってきていた。
彼女たちとの関係は、俺の運命を、これからどこへ導いていくのだろうか。
商人アルスの、王都での戦いは、まだ始まったばかりだ。
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