表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

24/62

第24話:唇にダイヤモンド

セシリアが開けた小さな箱の中に入っていたのは、一本の口紅だった。


だが、それはただの口紅ではない。


ケースは、磨き上げられた黒曜石のように深く、滑らかな黒。そして、その中央には、星屑を散りばめたかのように、無数の小さなダイヤモンドが嵌め込まれていた。


この世界にも、紅を唇に差す文化はある。だが、それはベニバナなどから抽出した、単純な赤色の顔料がほとんどだ。


対して、俺が【収納】スキルで取り寄せたこれは、地球の高級化粧品ブランドが限定生産した、最高級の逸品。ダイヤモンドの微粒子が配合されており、光の角度によって七色に輝くという、魔法のような化粧品だった。


「……これは……?」


セシリリは、見たこともないその美しい化粧品から、目を離せずにいる。


「『口紅』です。ですが、ただの紅ではありません。淑女の唇を、宝石よりも鮮やかに彩るための、魔法の杖ですよ」


俺は、彼女に使い方を説明する。キャップを外し、紅の部分を繰り出す。


セシリアは、おそるおそるそれを手に取ると、自分の手の甲に、試しにすっと一筋、線を引いた。


「……!」


彼女の白い肌の上に、燃えるような、しかし深みのある、上品な真紅の線が描かれる。そして、その線は、店の明かりの光を受けて、キラキラと繊細に輝いていた。


「なんて……なんて美しい色なの……。それに、この輝き……」


彼女は、完全に魅了されていた。


クリムゾン商会の会頭として、これまでありとあらゆる宝飾品やドレスを見てきたはずの彼女が、たった一本の口紅に、少女のような無垢な驚きを見せている。


その姿に、俺は計画の成功を確信した。


「どうぞ、お納めください。クリムゾン商会の象徴である、燃えるような赤。あなたに、最もふさわしい色だと思ったので」


「……わたくしに?」


「はい。俺は、あなたとのパートナーシップを、何よりも重要に考えている。その証として、受け取っていただけませんか」


俺の言葉と、目の前にある抗いがたい魅力を持つ贈り物。


セシリアは、しばらく黙って口紅を見つめていたが、やがて顔を上げ、悪戯っぽく微笑んだ。


「……ずるい男ね、アルス君。あなたは、女の心を掴むのが、本当に上手いわ」


彼女はそう言うと、席を立ち、部屋の隅にある化粧台へと向かった。


そして、鏡を見ながら、俺が贈った口紅を、自身の唇に丁寧に塗り始めた。


その光景は、どこか神聖ですらあった。


彼女の美しい唇の輪郭が、鮮やかな赤色に縁どられていく。そして、塗り終えた彼女が、ゆっくりとこちらに振り向いた時、俺は思わず息を呑んだ。


いつもの、気の強い、怜悧な女会頭の姿はそこにはなかった。


代わりにいたのは、燃えるような色香と、抗いがたいほどの魅力を放つ、一人の『女』だった。


ダイヤモンドの輝きが、彼女の唇を動かすたびに、妖しく煌めく。


「……どうかしら? 似合う?」


彼女は、少しだけ不安そうに、しかし挑発するように、俺に問いかけた。


「……ええ。驚くほどに」


俺は、正直な感想を述べた。


「その唇は、もはや武器ですね。どんな商談も、思いのままにできるでしょう」


「あら、嬉しいことを言ってくれるのね」


セシリアは、満足そうに微笑むと、俺の隣の席に、するりと移動してきた。


彼女から、甘く、魅惑的な花の香りが漂ってくる。


「アルス君。あなたの誠意は、よく分かったわ。わたくしとクリムゾン商会は、これからもあなたの最大の支援者であり続ける。それは、このクリムゾンの名にかけて誓いましょう」


彼女はそう言うと、ワイングラスを手に取り、俺のグラスにこつんと合わせた。


「王女様との関係も、結構よ。むしろ、歓迎するわ。王家とクリムゾン商会、そしてあなた。この三者が手を組めば、この国でできないことなんて、何もなくなるでしょうね」


彼女の思考は、既に次のステージへと移行していた。


俺という存在を軸に、王家と自らの商会を結びつけ、国の経済を完全に掌握する。その壮大な絵図を、彼女は一瞬にして描き出したのだ。


「そのためにも、まずは邪魔者を掃除しないとね」


セシリアの目が、すっと細められる。


「バウマイスター子爵……そして、彼らを操っていた『暁の剣』。あの者たちを、この王都から完全に排除するわ」


「……何か、策が?」


俺が尋ねると、彼女は唇に指を当て、悪戯っぽく笑った。


「ええ、少し面白いことを思いついたの。あなたにも、一枚噛んでもらうことになるわよ、アルス君」


「光栄ですね」


俺とセシリアの間には、もはや疑念の影はなかった。


あるのは、巨大な権力と富を動かす、共犯者としての強固な信頼関係だけだ。


食事が終わり、俺が席を立とうとした時だった。


セシリアが、俺のネクタイをくいと引き寄せた。


「……!」


俺たちの顔が、触れ合うほどの間近に迫る。


彼女の燃えるような唇が、ゆっくりと、俺の頬に近づいてきた。


そして、柔らかく、温かい感触が、俺の頬に触れた。


「……これは、契約の証。そして、今日の贈り物へのお返しよ」


彼女は、俺の耳元でそう囁くと、名残惜しそうに唇を離した。


俺の頬には、ダイヤモンドが煌めく、真紅のキスマークが、くっきりと残されていた。


「……さて、とんだ夜遊びをしてしまったわね。そろそろお開きにしましょうか」


彼女は、何事もなかったかのように立ち上がると、店の出口へと向かう。


その足取りは、来た時よりも、心なしか軽やかに見えた。


一人残された俺は、自分の頬にそっと触れる。


そこにはまだ、彼女の唇の感触と、甘い香りが残っているようだった。


「……やれやれ。とんでもない女に、目をつけられたもんだな」


俺は苦笑いを浮かべながら、呟いた。


王女アリーシャ、暗殺者ルナ、そして女会頭セシリア。


俺の周りには、いつの間にか、一癖も二癖もある、しかし魅力的で、手強い女たちが集まってきていた。


彼女たちとの関係は、俺の運命を、これからどこへ導いていくのだろうか。


商人アルスの、王都での戦いは、まだ始まったばかりだ。

評価、ブックマークしていただけるととても今後の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ