第三話 一年後
その猫――スケキヨは、今日も飼い主の三葉の足元で丸くなっていた。
三葉が川本夫妻からこの猫を引き取って、もう半年になる。スケキヨ自身も、ちょうど一歳を迎えたばかりだ。
その顔つきは、目の周りが黒く、どこかパンダのようでもある。
だが、スケキヨという名前は、そんな見た目とは少し違った由来だった。
三葉が猫を引き取った日、川本の夫がぽつりとつぶやいた。
「こりゃ、スケキヨだな」
それが妙にしっくりきたらしく、名前はそのまま定着してしまった。
ちなみに川本の妻・房江は「パンダ」あるいは「シャンシャン」や「リンリン」がよかったらしいが、採用されることはなかった。
三葉は最初こそ戸惑ったが、結局「スケキヨ」と呼ぶことにした。
「スケキヨ……なんだか、あなた、似てるのよ。くつろぐ姿がさ。それに、いつも“あの人”がいた場所で寝るし」
そう言いながら、三葉はスケキヨの背を優しく撫でる。
その「あの人」とは、言うまでもなく、半年前に亡くなった夫・大島和樹のことだ。
――そして、スケキヨの正体は、まさにその大島和樹本人である。
事故死した彼は、なぜかこの猫に転生してしまった。もちろん三葉も周囲の誰も、その事実を知らない。
猫となった大島は、妻の言葉を聞くたびに心の中でため息をつく。
『……よりによって、スケキヨとはな』
パンダのような顔をしているのは自覚しているが、それにしてもこの名前は屈辱的だ。
だが、今さら「ネコスケ」や「オカカ」などの猫っぽい名前に改名されても困る。もう受け入れるしかない。
転生して一年が経ったが、大島はいまだこの不条理な現実を完全には受け入れられずにいた。
それでも――三葉のそばにいられるだけで、ありがたいとも思っている。
もし、あのとき助けた母猫が死んでいたら、自分は猫としてもこの世に存在しなかったかもしれない。
『命を救ったお礼ってやつかね……いや、割に合わん気もするけど』
不満を抱えながらも、三葉の手の温もりに包まれ、彼はどこか癒されていた。
彼女に自分の正体を伝える術はない。だが、こうして撫でられるたび、心の奥で再び繋がっている気がする。
――たとえ名前が「スケキヨ」でも、今のこの平穏な日常は、確かに彼にとって大切なものになりつつあった。
ふと仏壇に目を向けると、大島の心に別の不安が浮かんでくる。
小さな仏壇の中にある、自分の遺影。
選ばれた写真は、どこか間の抜けた顔をしていて、「もっとマシな写真はなかったのか」と言いたくなる。
――それよりも。
『まだローン20年も残ってんのに……頭金ちょっと出したくらいで逝くとか、ないだろ俺』
このマンションは、購入したばかりだった。
三葉は高校の養護教員として働いているから、生活はなんとか成り立っているはずだが、保険金だけでは心もとない。
『三葉、ちゃんとやっていけるのか……』
彼女を心配する気持ちは、日に日に強くなっていた。
彼が亡くなった直後、三葉はひどく落ち込んでいた。明るく、芯の強かった彼女が、まるで抜け殻のように毎日泣き続け、家にこもっていた。
そんな彼女が少しずつ日常を取り戻したのは、スケキヨを引き取ってからだった。仕事に復帰し、少しずつ笑顔を見せるようになった三葉。
『やっと、戻ってきたな……』
その姿を見て、大島はほっとしていた。だが――もうひとつ、どうしても忘れられないことがある。
それは、2人の間に子どもがいなかったこと。
結婚してからすぐ、不妊治療を始めた。交際中から避妊をしていなかったが、妊娠の兆候は一度もなかった。
年齢的な不安もあり、周囲の勧めで治療を始めたものの、結果は出ず、三葉の心身は消耗しきっていた。
経済的にも大きな負担だった。治療費はかさみ、生活は圧迫された。
『……俺がもっと稼げてれば……』
猫の体で頭を抱えるように丸くなりながら、大島は深くため息をついた。
今やマンションのローンも、不妊治療の費用も、全て三葉が背負うことになった。
『俺、ほんと何もできないまま逝っちまったな……』
そんな思いを抱えていると、三葉がふと呟いた。
「ねぇ、スケキヨ……」
彼女が自分を見つめているのがわかる。続いて、仏壇の大島の遺影へと視線を移す。
「私たち、もしあの時……赤ちゃんができていたら、どんな生活だったんだろう。あなたと一緒に、家族を作れるって信じてたのに」
その声には、失われた未来への深い哀しみが滲んでいた。
『……ごめんな、三葉』
大島はただ、彼女のそばで丸くなることしかできなかった。慰めの言葉も、支える力もない。ただ傍にいることで、少しでも彼女の心が和らぐなら――それだけが、いまの彼にできる唯一のことだった。
『でも、終わったわけじゃない。俺はまだここにいる。三葉のそばに』
そう誓いながら、彼は彼女の膝に頭を寄せた。
猫の姿でも、自分にできる限りのことをしよう。彼女がもう一度、笑える日がくるように。
――とはいえ、こうして堂々と彼女にくっついていられるのは、猫に転生した最大のメリットでもある。
『にしても三葉の身体、気持ちよすぎる……いや、これは決して下心とかじゃなくて……ええと……』
どうしたらいいか、相変わらず検討もつかないまま。
スケキヨは、今日も彼女のそばでそっと寄り添っていた。