第三章 ⑦
「誰かいたか?」
「いや、誰も」
一階の老婆の部屋を出た後、僕らはアパートの部屋の確認を再開したものの、あの老婆の他にこのアパートに人を見ることはできなかった。
アパートがいつ崩壊してもおかしくないという不安で出ていってしまったのかもしれない。もしくは、戦闘が激しく、この地にいることに危険を感じたのかもしれない。
もしくは・・・・・・。
ゼルブ軍に連れ去られたのかもしれない・・・・・・それはあまり考えたくないことだった。だけど殺戮が繰り返されているこのブルータの街では何が起きてもおかしくない。
アーニャ・エステルの表札を掲げている部屋は二階にあった。
部屋は破壊を免れていたものの、部屋には誰の姿も確認できなかった。
「・・・・・・」
部屋は物色され、荒らされ、電化製品をはじめ目ぼしいものは全て運び出されてしまっていた。そしてその犯行を行った人間はその場で食料や酒を食べ散らかし、飲み干していったようだった。床に酒瓶や食料の入っていた包装が捨てられていた。
不快な光景だった。そしてその不快な光景はその部屋でも見ることができた。
このアパートは三十以上ある大きめの三階建てアパートだ。そのアパートの住人の所有物を盗んでゆくには、大型のトラックが何台も必要だったはずで、個人で行動する泥棒には絶対にできない所業だ。間違いなく組織的犯罪だ。ゼルブ兵に支配されたこの街で、それができるのはゼルブ軍だけだ。この薄汚い卑しい泥棒行為はゼルブ軍の人間がしたものだ!
僕はテーブルに倒れていた写真立てを手に取った。
そこには小さい頃であろうアーニャと彼女の両親の姿があった。皆、笑っている。幸せそうな家族だと思った。
彼女は自分が西部のドーリア地方の出身だと言っていた記憶がある。そして、いつかドーリア地方にある緑のトンネルに行こうと言ってくれたことを思い出した。挨拶代わりの言葉だったのかもしれないが、それは僕にとって、本当にうれしい言葉だった。
僕は彼女に自分の想いを伝えたかった。
僕がアーニャのことが好きだったことを僕は彼女に伝えたかった。
「アーニャ・・・・・・」
霧雨の中に小粒の雨が混じってきたのだろう。雨の音が聞こえてきた。
気温も下がってきた気がする。
「・・・・・・」
僕は廊下に出た。そして窓の外を見た。
本当に戦争というのもがいかに恐ろしく、一瞬で平和を奪うものであるかが分かる。つい一か月前まで、どこも平和で人が笑いあっていた場所だったはずだ。それが突然の侵攻によってどの建物も廃墟のようになってしまっている。
この地ではあまりにも人が死に過ぎている。
そして人を狂わせている。
あの老婆のように・・・・・・。
「雨がひどくなっているな」
僕はそう一人、呟いた。
目の前の風景は悲惨だ。それ以外の言葉はない。ゼルブ軍に破壊された全ての物が雨に濡れ、黒く染まっていた。まるでこの世が終末を迎えたように見えた。
静かだった。
雨音とエステリア兵士の動き回る音しか聞こえなかった。
「こっちはもう誰もないようです」
「二階も誰もいません」
「一階東側も同様です」
「一階西側はあの老婆以外は誰もいません」
そんな声が飛び交った。一階にいるディビットのところにエステリア兵が集まって報告をしているようだ。僕もそこに向かった。
「了解」
ディビットは平坦な声が聞こえた。
僕はディビットに感謝しなければならない。ここを確認することが出来たのは、彼が「確認する」言ってくれたからだ。だけどここにはアーニャはいなかった。代わりに老婆に怒鳴られ、なじられることになってしまった。だけど、ディビットと彼の部隊の兵士はそれに対し不平も言わなかったし、怒ることもなかった。
彼らには本当に申し訳なかったと思う。
雨足が急に強くなった。
「この建物から出る」
一階に下りた僕を見て彼はメンバーにそう言った。どうやらここに集まってきたのは僕が最後だったようだ。ディビットの言葉に一人のエステリア兵が反応した。
「あの老婆はどうしますか?」
「精神状態も健康状態もよくない。食料もないあの状態のまま放置はできない。装甲車に乗せてキャンプに連れてゆく」
それに対して誰も反応しなかった。当然だろう。
「僕がやってみます。日本人の見掛けの僕であれば、ゼルブ人とは思われないと思うので」
「なっ」
誰かの驚いた声が聞こえた。
僕には何の自信もなかったが、少なくともこれ以上あの老婆によってここにいる人間が不愉快になる必要はないはずだ。僕が説得すべきだ。
「またひどいことを言われるぞ。大丈夫か?」
ディビットの言葉が聞こえた。僕はただ頷いて、老婆の部屋へ歩きだした。
あの老婆は、好きでああなってしまった訳ではないはずだ。そうなってしまったのは、全てこの戦争のせいだ。悲惨で、非道で、とても人間が人としての精神状態を保てないほどのストレスが、普通に暮らしていた人間に課され、結果精神を狂わされてしまったのだ。自分の愛する家族を殺された人なら、なおさらだ。正常でいる方がおかしい。
僕は老婆の部屋の前に立った。そして部屋のドアをノックして、そのまま老婆の部屋の玄関に入り、彼女がいる居間に入った。
さっきと同じだ。何も変わっていない。老婆は椅子に座りながらも憎しみに満ちた表情で僕を見ていた。睨み付けていた。それは本当に恐ろしい表情だった。憎しみに駆られている表情だった。
「我々はエステリア軍の人間です」
「嘘を言うな!」
その激しい怒鳴り声に僕は次に何を言うべきか迷った。混乱してすべきことが分からなくなった。さっきと同じ状況になることを恐れた。
何か心に響くこと・・・・・・何か心を動かす効果的な言葉がないのか!
そういった言葉が出てこない・・・・・・。
「いえ、本当です。ゼルブ軍は既にブルータの街から撤退・・・・・・」
「黙れ、ゼルブの犬! もう騙されない。お前たちは嘘ばかりを言う! 我々を騙し、このアパートの中でスパイ狩りをした! アパートの人間を連れ出していった!」
「騙してなんかいないです!」
「いいや、お前たちは何度も騙した!」
糸口が見つからない。
老婆の心の中は憎しみに支配され、もう何も判断ができない状態だ。彼女の表情からそれは本当によく分かる。
戦争は本当に恐ろしい。
物だけじゃなく、人の心も破壊してゆく。ここに残る危険性を語っても、訴えても、老婆を説得できるとはとても思えなかった。だけど僕の行動基準は正義だ。罵られても、怒鳴られても、時間を掛けて説得するしかない。それが正義だ。
僕は唇を噛んだ。
僕の後ろから複数の足音がした。エステリア兵が入ってきたのだ。
「お前たち!」
老婆の怒りで震えた声が飛んだ。一気に緊張感が上がった。またさっきと同じことが起きてしまうと思った。
「出てゆけ! エステリアから出てゆけ!」
老婆はテーブルにあった皿を持って、手を上げた。
怒りに任せてしまっている。心が憎しみに乗っ取られてしまっている。
彼女は僕らに向けて皿を投げた。ただ、皿は僕らに届くことなく、虚しく手前の床に落ち、二つに割れた。それが本当に虚しく見えた。
なんて難しいんだ。人の心を変えるどころか、落ち着かせることすらできない。人の心は本当に難しい・・・・・・。
老婆は再び皿を手に取った。自分を守るために過剰な反応をしている。誰も信じられなくなってしまっているんだ。全てが敵であるゼルブに見えてしまっている。
聞く耳を持っていない。
そういった人間の心をどうやって動かせばいいんだ!
「返せ! 平和だったエステリアを返せ! エステリアを返してくれ!」
エステリア・・・・・・。
「誰か!」
僕は大声で叫んだ。
「エステリアの歌を!」
それは僕にはできないことだ。エステリアの人にしかできない。
「エステリアの国歌を歌ってくれ!」
一人の兵士が反応した。
「おおお、エステリア! エステリア!」
その声は低音で不思議とよく通った。一瞬にしてその場の雰囲気を占拠した。そしてこの電気も何もない、寒い薄暗い部屋に明らかな変化が起きた。
まるで奇跡が起きたように僕には思えた。
神が舞い降りたようにさえ思えた。
「・・・・・・」
彼女から怒りで満ちた表情は消え、和らいだ表情に変わっていたのだ。
他の兵士もその兵士の声に続いて歌い始めた。
「我らの自由の国よ、我らの栄光は永遠に続く。神は我等に微笑み、我等は我らの土地を自らの手で治める。我ら誇り高きエステリアの民よ、立ち続けろ、我々の未来のために!」
ディビットの声も聞こえた。
エステリアの国歌だ。
「おおお、エステリア! おおお、エステリア!」
歌が終わると、老婆は震えながら、立ち上がった。そしてゆっくりと僕らの方に歩き出した。彼女の歩みは遅く、足の具合は本当に悪そうだった。体はやせ細り、十分な食料が取れなかったことが容易に伺えた。
彼女は僕らの目の前で止まった。彼女の態度は真摯なそれだった。さっきまでの怒り狂った態度はもうどこにもない。
老婆は言った。
「ありがとうございます」
彼女は目の前にいた兵士に両手を伸ばした。兵士は、彼女の手を取った。
「ずっと待っていました。ずっとエステリア軍が助けに来てくれるのを待っていました」
そう言い終わった瞬間、彼女は声を出して泣き始め、その場に崩れた。極度のストレスで締め付けられていた感情が、解放されたのだと思った。
それは悲しい声だった。
「・・・・・・」
彼女の経験したストレスは間違いなく人間が耐えられる限界を超えたものだった。それは昨日と今日でこの街で経験したことから、容易に想像できる。相当辛かったに違いない。
「我々と一緒にエステリア軍キャンプへ行きましょう」
一人の兵士が老婆にそう言った。
老婆は頷いた。そしてゆっくりと立ち上がり、テーブルに置いていた家族の集合写真を手に取り、大切そうにそれを抱えながら、アパートの玄関の方へ歩いていった。歩くのもおぼつかない様子だった。女性兵士が老婆の横について、彼女を支えながら、一緒に歩いていった。
雨が降り続いていた。
アパートから出ようとしたとき、一人のエステリア兵が自分の着ていた軍のポンチョを彼女に渡し、それを着せた。彼女はそのポンチョの中で家族写真を大切そうに抱きかかえた。
彼女は大切な夫をゼルブ兵に殺されたと言っていた。その写真は彼がこの世に存在したことを証明する何よりも大切なものなのだ。気持ちが重くなる。
雨の音が突然大きくなった。
「あの写真・・・・・・」
アーニャの部屋にあった家族写真を思い出した。
あの写真はアーニャにとって大切なものだったんじゃないのか?
幸せそうに映っているあの家族写真は、アーニャにとって大切なものだったんじゃないのか? だけど部屋に置き去りのままになっている。荷物をまとめる時間すらない状態で、このアパートから彼女は退避することになったんじゃないのだろうか? だから、部屋に家族写真がそのままに置かれてしまっていた。
雨足が更に強くなった。
ポンチョに雨が強く打ち付けてくる。
アーニャの部屋の中は物色され、荒らされていたが、人が争った痕跡はなかった。そう考えると、アーニャはゼルブ軍から逃げ出せたと考えるのが自然だ。だけど宇宙研究所には現れることはなかった。
アーニャは僕以上に正義感の強い性格だ。ゼルブ軍の侵略に我慢がならなかったのかもしれない。だから宇宙研究所には行かずにレジスタンスとして戦うことを選んだのかもしれない。
「・・・・・・」
そして彼女に不幸なことが起きたということなのかもしれない。
あれっ・・・・・・?
随分長い時間、アパートを出たところで僕は一人で立ち止まっていたのかもしれない。エステリア兵と老婆の集団は随分と先にいるのが見えた。彼らは装甲車の方に歩いて行っていた。
僕は歩き出した。
「?」
アパートから何か物が落ちる音が鳴った。そんな気がした。だけど、雨音ではっきりと聞こえない。気のせいかもしれない。いや、もしかして、まだ誰かアパートにいるのか・・・・・・? いや、いるはずがない。アパートの部屋は全部確認したはずだ。
「!」
また音が鳴った。
さっきより大きな音だ。さっきは気のせいかと思ったが、そうではなかった。とても大きな音で、乱暴な音だった。その音は辺りに響き渡った。
僕は緊張を感じた。言いようのない恐ろしさを感じだ。この音は、おそらくアパートのどこかが崩れた音だ。嫌な予感がした。
「大船クン! 逃げて! 今すぐ逃げて!」
「!」
アーニャの声だ!
何かが崩れるような音が再び鳴った。いや、鳴り続けた。半壊部分が雪崩を起こしたように崩れている! 逃げないと!
そう思った瞬間、耳を吐くような大きな爆発音が鳴った。
世界が赤くなり、凄まじい爆風と無数の建物の破片が僕を襲った。
逃げようがなかった。僕はそれらの破片に打たれながら、僕は飛ばされ、地面に叩きつけられ、その後道路に転がされた。破片が地面に落ちる音が数えきれないほど聞こえ、やがてそれも聞こえなくなった。
強い雨の中、煙が立ち込めていた。
辺りの様子が全く分からない。
頭が痛かった。
額から生暖かい血が流れてくるのが冷たい雨の中でも分かった。
体のあちこちが痛い。足はどうにか動く。手を動かそうとした。左腕が動かない。今まで感じたことがないほど重い。そして痛かった。多分折れている。
瓦礫が崩れたことでアパート内にあった不発弾か何かが爆発したんだ。
「くそっ」
声を出そうと思ったが、声が出なかった。
ディビットとエステリアの兵士、あの老婆は大丈夫だったのだろうか・・・・・・? 距離があったから、爆風に撥ね飛ばされたことはなかっただろう。不幸中の幸いといったところだろうか?
ははは・・・・・・。
気が遠くなってきた。
くそっ・・・・・・。
気を保つことができない。もう無理だ。繋ぎとめようとしても、そんな簡単で当たり前のことが、どうにも難しい。もしかしたら僕は死ぬのかもしれない。
そんな考えが過った。
「くっ、そっ・・・・・・」
まだ死ねない。やり残したことはいっぱいある。死に間際の人はみんなそう言うのかもしれないが、僕には本当にやり残したことがある。宇宙研究所のメンバーが作り上げたロケットをまだ打ち上げてられていないじゃないか・・・・・・。
死にたくない・・・・・・。
僕はまだ死にたくない。
アーニャ・・・・・・。
そして僕の意識はそこで切れた。




