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10.黒い意識

おぞましい憎悪の塊が、こちらに殺到した。

目にうつったのは、ヘドロのように滞留する、渦巻く何かだった。

母の手の中で悲鳴を上げる。

状況が全く分からない。

分からないが……。

先程まで動いていた銀竜、父が身じろぎもしなくなったのを、視界の端で見ていた。

何が起こってる?

誰だ、あの赤い甲冑の男は!

銀の竜を……父さんを……。

殺した……?

その事実を認識するまでに、実に十数秒の時間がかかった。

自分を掴んでいる母の、トカゲの手が震えている。

口から、胸の傷口からとめどなく赤い血を垂れ流している。

空中に飛び上がったことで、空気の渦が目を、耳を叩いた。

ぐるりと視界が反転し、赤子はまた短く悲鳴を上げた。

自分にしがみついていた小さな人影……花妖精のメルトが、慌てふためいた声で絶叫する。


「シュナク様! 無茶です!」


シュナクは花妖精の悲鳴を無視し、更に上空へと飛び上がった。

上へ、上へ。

雲を突き抜けて、闇夜の空に飛び出す。

頭上では煌々と丸い月が照っていた。

こちらの世界でも、月は変わらないのか。

息の詰まる速度の中、どこか達観した目で自分を見ている意識がそう思う。

シュナクは月を背負って翼を広げると、眼下から渦を巻いて一直線に追跡をやめない、魔具グルングルドを見た。


「飛びなさい!」


母は、吼えた。

か細い声を張り上げて、シュナクはもう一度絶叫した。


「飛び立ちなさい! 遠くまで!」


そう言って、彼女は掴んでいた赤子を、花妖精ごと頭上に投げた。

浮遊感。

次いで、気持ちの悪い空気の感触とともに、凄まじい落下の感覚が体を包んだ。


「どうか、無事で……」


落下する赤子の眼と、シュナクの視線が交差する。

母。

僕の、母さんだ。

そう思った次の瞬間。

グルングルドが一直線に、シュナクの頭を串刺しにした。


母さん。


力なく落下していく白い竜を、視線の端で追う。

明らかな致命傷だった。

もう、助かるとは思えなかった。

それは確定された事象であり、抗えない真実そのものの光景だった。


母さん。

父さん。


赤子の目が、グルンと動いた。

その視線が一人でに、眼下の森で左手を空に伸ばしている男に集中する。


敵。

敵だ。


本能的な部分でそれを自覚する。


良いのか?


心の中で、誰かが口を開いた。

それはねっとりと体全体を覆う、憎悪。

向きを変えて飛来する、魔具グルングルドに似た、淀んだ魔力の塊だった。

それが胸の奥で嗤い、耳障りなザラザラした声で、囁いてきたのだ。


お前は、それでも良いのか?

何も遺せず。

何に遺されることもなく。

何も護れず。

己さえも護れず。

「また」死ぬのか?


嘲笑う声。

赤子は目を見開いた。


僕は。

僕は、嫌だ!


口を開けて絶叫する。

背中の小さな羽根が展開し、人現大の赤子が宙を舞った。

目が、爛々と血のように赤く輝いていた。


「坊ちゃま!」


首にしがみついたメルトが大声を上げる。


「魔力に飲まれてはなりません! 正気を保つのです!」


殺せ。


耳元で叫ぶメルトの声を掻き消すように、耳障りなザラザラ声が頭の中を、頭蓋骨の中を反響する。


お前の敵を、殺せ。


その声に命じられるように、赤子は無意識に腕を振り上げた。

その小さな体から、真っ黒な蒸気のようなものが噴出する。


父と母の、仇を討つのだ。


怒り。

胸の奥から噴出したそのどす黒い感情は、怒り。

憎悪。

それら漆黒の感情が胸を染めていく。

空中で向きを変え、赤子に向かってグルングルドが殺到する。


母さんを。

父さんを殺した。

槍。


視界の端で光った魔具を、赤子はしかしまっすぐと見据え、目に捉えた。

森の中で唖然とその光景を見上げていたクロッカスが、そこでハッとして大声を上げた。


「グルングルド! ダメだ、戻れ!」


しかし突撃槍は、咄嗟に速度を変えることが出来ず……。

赤子にそのまま突き刺さった……と思われた瞬間。

黒い蒸気のようなものに打ちあたり、粉々に砕け散った。


「ッぐあ……!」


クロッカスが赤黒い血液を口から吐き出して膝をつく。

その体中の肉が裂け、滝のように血液を撒き散らし始める。


「魔具グルングルドが……砕かれた……!」


屍人ユルドスルドが悲鳴のように叫ぶ。

刀身の部分が粉々になった魔具が、空中を回転しながらクロッカスのもとに戻っていき、そのまま彼の脇に転がった。

竜の赤子は、体から黒い蒸気をとめどなく噴き出しながら、眼下のクロッカスを睨んでいた。

その口が開き……。

赤子は、父がしたように、真っ黒い魔力の塊を、空気の渦とともに吐き出した。

それは一瞬でクロッカスを。

包囲しようとしていたゴブリン達を。

屍人の老婆をも薙ぎ倒す勢いで、巨大な竜巻となり、眼下に撃ち出された。

一瞬、滞留している空気から炸裂音とともに、幾本もの光の柱が、クロッカスに向けて殺到したのが、メルトの目に見えた。

雷。

轟音と共にそれが炸裂して、耳を塞ぐ。

雷の着弾と同時に、竜巻が、もとは花妖精の里だった場所に突き刺さった。

花が、土砂が、木々が割れ、地面が吹き荒れて上下も分からなくなる。


「坊ちゃま! 正気を……!」


メルトが叫んで、赤子竜の頭にしがみつく。


まだだ。

まだ終わらない。

まだ終わらせてなるものか。


胸の奥の黒いモノがそう嗤う。

赤子はもう一度咆哮をあげようとして……。

眼前に浮かんだ、四枚羽根の花妖精に、動きを止めた。


「竜の子よ……」


何処から現れたのか、花の大精霊は手を伸ばした。


「私の命を捧げましょう。鎮まりなさい」

「大精霊様!」


メルトが悲鳴を上げる。


「ダメ!」

「メルトよ」


大精霊は小さな花妖精に、そっと笑いかけた。


「この子を、頼みましたよ」


次の瞬間、黒い蒸気が大精霊に殺到した。

その体が光の飛沫になり、意外なほど軽い音を立てて弾ける。


「が……」


正気を失っていた赤子の目が、ぐるりと反転して白目を剥いた。

竜の赤子と小さな花精霊は、まだ吹き荒れる嵐と、降り始めた豪雨の中。

みるみるうちに、浮力を失って眼下の深い森へ、落下していったのだった。


11 へ続く

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