三十七幕 小覇王の冒険~神医との邂逅
朝日が昇り、周瑜は目が覚めた。
キョロキョロと周囲を見渡し、現在自分たちに起こっていることを再確認し、ため息が漏れた。
四日前のことだ。
友人の孫策が、急に訪ねてきたと思ったら、「散歩に行こう」と言い出した。
彼の誘いはいつものことだったので、周瑜は二つ返事で彼に同行した。
しかし、孫策の散歩は、散歩というわりには遠出だった。日が暮れ夜営の準備を始める頃には、周瑜は目的地がどこなのか、聞き出す勇気がもてなくなった。
頭の中を駆け巡る『駆け落ち』という言葉を必死に否定して、覚悟を決め、どこに向かうつもりなのかと問いかけを発することができたのが三日目のこと。
揚州の北端を流れている淮水という河が見えてきたころだった。
それに対して、お気楽な幼なじみ(バカ)は脳天気にこう言った。
「青州まで行って、黄巾の薬剤拠点を割り出そうかと思ってよ」
昨年、孫策は父親たちと北部の情勢を調べながらいくつかの州を廻った。
その時仕入れた情報をもとに、周瑜は黄巾軍の重要拠点が青州にあるのではないかという仮説を立てた。
薬剤拠点と孫策が言ったのは、周瑜が思い描いた最悪の展開の際に、造られているであろう拠点が薬剤拠点である、と周瑜が言ったためだった。
死に至るほどの病を保菌させた大量のネズミを確保し、その病に対する特効薬を保持し、後漢に対して脅迫を行おうとしている、と周瑜は推察している。
この推察は、噂話や地理的条件などから導き出されたものであり、やや強引なきらいがあるため、説を打ち立てた周瑜自身が半信半疑だったが、孫策の中では既に事実となっているようだった。
どちらにせよ、青州のどこかに、何らかの重要拠点がある、というのは孫策の父・孫堅や側近の程普、地元の役人である朱治との間で共通認識となった。
しかし、青州のどこにあるかは一切の情報がなかった。
それ故、孫策は独断で動くことにしたのだ。
そして家を出発して三日目。
二人は謎の少女に襲撃され、次いで、鈴蟷螂と呼ばれる連続殺人鬼との戦闘を行い、辛くも勝利を収めたのだ。
そして一夜を明けた四日目。
周瑜と孫策と共に、二人を襲った少女がいた。
少女は鈴蟷螂との戦闘で負傷しており、未だに意識を取り戻さない。
応急処置は済ませたが、腹部を刺されており、予断を許さない状態だった。
「ソイツ、まだ目を覚まさないのか?」
孫策が起きて、周瑜に訪ねてくる。
それに対して、周瑜は表情を暗くしながら頷いた。
「熱も出てきて、全然引く気配がないの。このままだと、危険かも………」
「………うーん、そっかー」
孫策も困ったように頭を掻いた。
少女―――泰の傷は、致命傷には至らなかったものの、十歳前後の幼い少女の身にできていいような傷ではなかった。
意識も戻らず、高熱に曝された状態であれば、如何に裏の世界で育てられようとも、命の危機は十分にある。
二人も泰が真っ当に生きてきたわけではないことは察している。
しかし、関わってしまった。
ならば助けたい。
そう思うが、ここまで深い傷の手当てなどしたことのない二人には、ただただ、祈ることしかできなかった。
「おやぁ?」
そこに、救いの手が差し伸べられた。
二人の前に立ったのは、がたいのいい男だった。
角張った顔つきに細い目。顎には無精髭を生やし、髪はボサボサで乱雑に後ろで括っている。
「なんだ、血の匂いがするから足を向けてみりゃあ、どうなってんだこりゃ。ひっどい傷だな」
その男は、背中に背負っていた箱を降ろすと、がちゃりと開けた。
「お、おい、なんだあんた。誰だ!?」
孫策が周瑜と泰を庇うように前に出ると、男をキッと睨みつけた。
「おっと、威勢のいい坊主だなぁ。―――ん? お前さんもか。ぜんたい、何があったのやら」
しかし、男は孫策の問いかけを無視すると、孫策を眺めてから少し思案顔になった。
「さてはて、穏便にするにはどうするかな………?」
挙げ句の果てに、そんな事まで言い出す男に、孫策は痺れを切らしたかのように、拳を握った。
「何を訳のわからんことをごちゃごちゃと!? オレたちをそこらのガキと一緒だと思ってると、痛い目見るぞ!?」
「ちょ、伯符!?」
周瑜の制止の声も遅く、戦鐙を装備したままの孫策は男に向かって殴りかかった。
「やれやれ、血の気の多い坊主だなぁ」
しかし、男はあっさりと孫策の一撃をかわすと、背後に回り込み、孫策の首に何かをした。
「な、ぐっ」
それだけで、孫策の意識は途絶え、その場に倒れてしまう。
「なっ、伯符!? 伯符!!」
周瑜の呼びかけにも孫策は答えない。
それを見て、周瑜は一歩、後ろに退がった。
(なに、何をされたの!? わからない。けど、次はわたし!? 少しでも距離を取って逃げないと。この人がわたしを追ってくれば伯符が目を覚ますまでの時間を稼げ)
「逃げるのは勘弁な、お嬢ちゃん」
そこまで考えた周瑜は、しかし、そこから一歩も動けなかった。
首筋に違和感を覚え、そのまま意識を失った。
後に残されたのは、男一人。
「やれやれ。荷物が増えた。しかし、俺の顔を見るや臨戦態勢とは。傷つくね、まったく」
頭をがりがりと掻きむしりながら、男は溜息を吐くと、残りの少女のもとにしゃがみこむ。
「さーてと、サービス残業、始めますかー」
そして、そう、鼻歌混じりに呟いた。
ふわふわとする。
柔らかな布団に、微かに鼻をくすぐる香の香り。
温もりに包まれて、周瑜の意識は深く深く落ちていく。
周瑜は普段、長旅などはしない。
必要な物も、情報も、周家子飼いの諜報屋に依頼すれば、集めてきてくれた。
故に、今回の孫策との旅は、周瑜が今までに経験したことのないような大冒険だったのだ。
室外にいるというだけで、夜の闇があそこまで心細さを感じさせる物だということも知らなかったし、寝台ではなく地面に寝るのがあんなに安眠を妨げるものだということも知らなかった。
草の上ならば多少寝やすいかと思ったが、翌朝、朝露で体が濡れていて、寒い思いをした。
もちろん、悪いことばかりではなかった。
月明かりがあることで、どれだけホッとしたか知れない。
焚き火を孫策と囲んだ時の温かさも、その灯りに照らされた昼間見れるものとはまた違う孫策の顔も。
だが、周瑜の身体にはしっかりと疲労が蓄積されていた。
そして、周瑜は微睡みの中でふと思う。
(――――――あれ、ここ、どこだ?)
その瞬間、自分たちに起こった出来事を思い出し、周瑜は飛び起きた。
薄暗い部屋だった。
窓には布張りがしてあり、日の光を遮っている。張られている布も複雑な模様が刺繍されたもので、如何にも高価な物のように見えた。
周瑜の枕元には寝台より少し高い棚が置かれており、その上には小さな香炉が置かれていた。
室内には寝台がいくつか並べられており、視線を巡らせると、鈴蟷螂に刺された少女―――泰も寝かされている。
そこまで考えて、周瑜は気づいた。
(伯符が、いない―――!?)
その事実に、周瑜は青ざめた。
(まさか、人売り!? 私とあの子は女だから、商品価値があるから、別にされた!? 伯符は!? 伯符の鎧なんかを見れば、いいところの子息ってことはわかるはず。それなら、身の代金とかを要求して稼ごうと―――)
考えながら、周瑜は自分の楽観が過ぎる妄想に涙が浮かんだ。
そもそも、どこかのお坊ちゃまだとわかったとして、それを調べる労力を一介の人売りが払うだろうか。
それよりも簡単な方法がある。
(―――それは、嫌だ)
起こり得るであろう最悪の事態を想定して、目からは涙がこぼれた。
頭を振って嫌な考えを打ち消そうとする。
(でも、遠からずそうなる可能性はある。そのためには)
何か、自分の持っているもので交渉の材料になるものはあるだろうか、そう考えて、荷物を漁ろうとして、気づいた。
周瑜の着ている服が変わっている。
「――――――」
思考停止に陥る。
体が傾いでいくのに気づき、倒れる直前で、手で支えた。
顔から血の気が引いていくのがわかる。
なにがショックかと言えば、このことに前後が不覚になるほどの衝撃を受けていることこそがショックだった。
寝台の脇に立ってみる。
一歩、二歩と歩いてみるが、特に下腹部に違和感はない。
しかし。
どれほど寝ていたかはわからないが、服は薄い木綿のものに変えられており、下着は上も下も姿を消している。
それで逆に周瑜の覚悟は決まった。
自分の女であることを最大限に使って、孫策だけでも助けてもらう。
(それだけでもなんとか為してやる。だからお願い。どうか、どうか神様。手遅れにだけはなってないでください―――)
いつもなら絶対にしない神頼み。
周瑜はそこまで追い詰められていた。
その時、扉が開く。
覚悟を決めたはずの周瑜の身体が、ギクリと強張った。
それを気合いで押し留め、音のした方へ顔を向ける。
「あら、目が覚められましたか?」
そこにいたのは、髪を後ろに結い上げた、温和そうな女性だった。
「――――――」
一瞬の思考停止の後、脳が急速に回転していく。
人売りに仕える下女。
商品を管理する女性職員。
いくつかの希望的観測を打ち消し、可能性として残ったのはその二つだった。
だから、その場で土下座をした。
「お願い! お願いします!! あなたの主人に伝えてください!! わたしを好きにしていいです!! だから!! 彼だけは!! 彼だけは、どうにか解放してもらえないでしょうか!? お願いします―――!!」
「え、ちょ」
「なんの騒ぎだ!?」
聞き覚えのある声に、周瑜は頭を床に打ち付ける。
「何でも言うことを聞きます!! 死ねと言われれば死にます!! 股を開けと言うのなら従います!! だから!! お願い、お願いします!! お願い―――」
涙を流しながら、必死の形相で額を打ち付けながら、周瑜は懇願する。
その光景に、最初に我に返ったのは、室内に入ってきた女性だった。
「落ち着いてください。お話はわかりました。必ず彼を解放します。ですから、頭を打ち付けるのをやめてください。ね?」
その落ち着いた声音は、周瑜の中に自然に入り込んでくる。
その声音につられるように、周瑜は顔を上げると、すぐそばにしゃがみこんだ女性と目が合った。
困ったように眉根を寄せながら、周瑜を見ている。
「落ち着きましたか? でしたら額を診せてください。血が滲んでます」
そう言って、周瑜の額にいつの間に用意したのか、湿った布をあてがった。
「申し遅れました。私、麦宋と申します。ここで先生の助手をしております」
「先生?」
周瑜の疑問に、麦宋と名乗った女性は背後の男をジロリと睨みながら、告げた。
「はい。そこにいます凌元化先生はこの庵で医師をやっております。私はその助手をさせていただいています」
麦宋は、そう言ってにこりと笑った。
「………ぅ」
周瑜から遅れて数時間して、孫策が目を覚ました。
「お、目が覚めたか。おはよう、坊主」
枕元には安心したように溜息を吐いた周瑜と、見知らぬ男女がいた。
そしてそこで先ほどと似たようなやりとりが行われる前に麦宋が先手を打った。
「先生。まずは謝罪をお願いします。というかですね。患者に対して説明も行わずに意識を奪って搬送するとか、ふつうに犯罪です。先生はいつもいつもいつも、そういったことに頓着しなさすぎです。もう少しでいいので、一般常識を弁えてください!」
麦宋に怒られながらうなだれる男は姓を凌、名を操、字を元化といった。近所では有名な医師で、人々からは尊敬を込めて『華陀』と呼ばれている。
華陀とは、『先生』という意味の尊称を表す言葉だ。それがいつの間にか、凌操を指す呼称となり、今では華陀先生などと呼ばれるようにすらなった。
頭痛が痛い、違和感を感じる、などの言い回しと同様に、意味が重複してしまっている。
しかし、いくらそのことを指摘しても直そうとしない周りの人間に、凌操も半ば諦めているのが現状だった。
「はぁ。で、その『華陀先生』がオレたちになんの用なんスか?」
そんな凌操の自己紹介を聞かされた孫策は、しかしなお疑問を発する。
「あー、いやな」
それに対して、凌操はばつが悪そうに頭を掻いた。
「仕事帰りにちょうどあの辺りを通りかかってよ。壊滅した村があって、その近くで重傷の子どもたちがいたから、保護しようとしたんだがな。あの村の状況から話を聞いてもらえる精神状態じゃないと思って、ちと手荒だったが、強制的に連行したんだよ。いや、ほんとすまんかった。悪気はなかったんだ」
そう言って頭を下げる凌操に、孫策は毒気を抜かれ、事前に話を聞いていた周瑜は苦笑した。
確かにあの状況では、治療してやると言われたとて、素直に従えなかったし、しかし一方で、殺し屋の少女は一刻を争う状態だった。
結果として、三人は凌操に助けられたと言える。
そのことに納得した孫策は、凌操に対しての警戒を解いた。
「そりゃ、こちらこそ、申し訳なかった。どうすりゃいいか途方に暮れてたところだったんだ。今は手持ちが無いが、後日改めて礼をする。あの子をよろしく頼むよ。オレたちはもう行かなきゃならん」
そう言って立ち上がろうとする孫策を、凌操は手で制した。
「まあ、待て。あのおチビさんもそうだが、お前さんもそこそこ重傷だ。休ませて様子を見たが、どうにもまだ治りきってない」
その言葉に、言われた孫策自身が驚いた。
「オレが重傷? いや、体調に問題はないが………」
「やせ我慢するな。右上半身の筋断裂に、内臓が少しだがずれてるな。剄でも食らったか? 本当は絶対安静の重傷だ。どうしてもすぐに動くなら、少し荒療治になるが治療してやる。すぐに済むし、金もいらん。大人しく治療を受けていけ」
その指摘に、孫策は驚く。
確かに身体が痛かったが、それは戦鐙を使った際の後遺症のみかと思っていた。
鈴蟷螂と戦う前に泰から受けたダメージが残っているという自覚は無かったのだ。
それを、見破ってみせた。
「………ちなみに、治療って?」
「なに、剄でずらされた内臓を剄でずらしなおすだけだ。筋断裂に関しては、塗布薬を処方してやる。後は痛み止めも出してやる。変に庇って、別の場所を痛めることもなくなるはずだ。今日中には出発できるようにしてやる」
「なにそれホントに荒療治じゃん!?」
孫策のギョッとした悲鳴が、庵の中で響いた。
孫策の仲間集め編。
凌操。
凌統のパパ。
佐久彦凌操は別名『華佗』。
佐久彦華佗は世襲制。
章番号修正(2024年9月25日)。
ルビ、誤字、表記ゆれの修正を行いました(2024年10月23日)。




