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新説三国志演義 シーズン1 黄巾の乱編  作者: 青端佐久彦
第五集
178/181

付録 【黄巾将列伝:趙弘】

(ちょう)(こう)



正史:

時南陽黃巾張曼成起兵,稱「神上使」,眾數萬,殺郡守褚貢,屯宛下百餘日。後太守秦頡擊殺曼成,賊更以趙弘為帥,眾浸盛,遂十餘萬,據宛城。

雋與荊州刺史徐璆及秦頡合兵萬八千人圍弘,自六月至八月不拔。有司奏欲徵雋。司空張溫上疏曰:「昔秦用白起,燕任樂毅,皆曠年歷載,乃能克敵。雋討潁川,以有功效,引師南指,方略已設,臨軍易將,兵家所忌,宜假日月,責其成功。」靈帝乃止。雋因急擊弘,斬之。

(後漢書:皇甫嵩朱雋列傳)


(なん)(よう)(こう)(きん)軍の(ちょう)(まん)(せい)が挙兵した際、『(しん)(じょう)使()』と称し、数万で(たい)(しゅ)(ちょ)(こう)を殺し、(えん)(じょう)において百日以上駐屯した。後任の太守である(しん)(けつ)が張曼成を討ち取ると、賊はさらに趙弘を総帥として据え、どんどんと集まり、ついには十万以上も宛城に集まった。

(しゅ)(しゅん)(けい)(しゅう)()()(じょ)(きゅう)と秦頡と合流し、一万八千の兵で趙弘を包囲したが、六月に始まったその包囲は八月になっても解くことができなかった。そんな朱儁を欲のままに奏上する者が現れた。()(くう)(ちょう)(おん)(じょう)()したのだ。

「昔、(しん)(はく)()を用い、(えん)(がく)()に任せましたが、どちらも勝つことができる相手に対して怠けて時間を浪費していました。朱儁は(えい)(せん)の黄巾軍を討伐しており、その効果があって、南を指揮する将となったのです。方面攻略を任せられた将としては、対する敵軍があまりにも弱いと、それはそれで困るものです。だから月日をかけてみせようとするのでしょう。それを成功させてはなりません」

しかし、(れい)(てい)が止めるまでもなく、朱儁は趙弘を急襲してこれを斬った。



演義:

《第二回》

(前略)時又黃巾餘黨三人、趙弘・韓忠・孫仲、聚衆數萬、望風燒劫、稱與張角報仇。朝廷命朱雋卽以得勝之師討之。雋奉詔、率軍前進。時賊據宛城、雋引兵攻之、趙弘遣韓忠出戰。

(中略)正追趕間、趙弘・孫仲引賊衆到、與雋交戰。雋見弘勢大、引軍暫退。弘乘勢復奪宛城。

(中略)朱雋大喜、便令堅攻打南門、玄德打北門、朱雋打西門、留東門與賊走。孫堅首先登城、斬賊二十餘人、賊衆奔潰。趙弘飛馬突槊、直取孫堅。堅從城上飛身奪弘槊、刺弘下馬。却騎弘馬、飛身往來殺賊。


(前略)黄巾軍には他にも三人いた。趙弘、(かん)(ちゅう)(そん)(ちゅう)で、軍勢は数万。(ちょう)(かく)の仇を討つと称して熱狂していた。朝廷は朱儁にすぐさまこの将を討ち、この軍に勝てと命じた。朱儁はその(みことのり)を受けて軍を進めた。この時、賊徒は宛城に拠っていた。朱儁は兵を率いてこれを攻めた。趙弘は韓忠を出陣させた。

(中略内容:韓忠の死後)(韓忠が討ち取られ、後漢軍が)追撃をかけているところに、趙弘、孫仲が兵を率いてやってきて、朱儁と交戦した。朱儁は趙弘の勢いが強いと判断し軍を退いた。趙弘は再び宛城に籠った。

(中略内容:(そん)(けん)(りゅう)()が援軍に来た)朱儁は大いに喜んで、孫堅に南の門を攻めるように伝令を出した。劉備は北門、朱儁は西門を攻めた。賊徒は手薄だった東門に逃げた。孫堅は一番最初に城壁にのぼると、賊徒二十余人を斬り倒した。賊徒は壊走した。趙弘は馬上で矛を振るい、孫堅に攻めかかった。孫堅はその勢いを受けるように城壁の上から飛び掛かって趙弘の矛を奪い、落馬させた。孫堅は趙弘の馬に乗り、身を翻して賊を殺していった。




佐久彦三国志:

黄巾軍の一般人視点。

学もなく、知識もなく、覚悟もないが、才覚だけで指揮官となった男。

故郷の村が滅んだ経験から、賊となり、自身に発言権を持った上で地方の窮状を声高に叫ぶ、という目的をもって賊軍に参加した。

しかし、宛城の現状を目の当たりにして、国の腐敗が思ったよりも進んでいたことを知り、絶望。

周囲の人間が故郷の人間に見えるという狂人の振りをしていた。

生き延びることにも希望が持てなくなり、韓忠が逃げる時間を稼ぐために決死隊を組織して朱儁の本陣に突撃をかけた。

最期に、朱儁の言葉によって自身にも至らぬ点があったことを知り、それに僅かに納得して死んだ。



別名:特になし



経歴:

2月、(しん)()(けん)(けん)(れい)()(てき)を懐柔したのを皮切りに、(ちょう)(よう)(けん)(じょう)(けん)(あん)(しゅう)(こく)を降した。

3月、決起を行い、朝陽県から進発して、宛県に向かって進軍。(ちょく)(よう)(けん)県令の()(けん)を急襲。捕縛に成功。

同月、宛城に着き、城を包囲。褚貢が討ち取られると、降伏してきた宛城を制圧。城内の官吏や兵を皆殺しにした。

城内の人間の腐敗ぶりに絶望した趙弘は心を閉ざしてしまった。

4~6月、南陽郡の諸城を攻略。

6月、ようやく回復した張曼成を見て、心を再び開いたが、張曼成が殺され愕然とする。

6~7月、宛城が朱儁軍に包囲される。趙弘は総指揮官として、韓忠の言葉を兵に伝える役割になっていた。

8月、韓忠の策によって朱儁が攻撃してきたので、それを受け止め、韓忠が逃げ出す時間を稼ごうとする。そして朱儁に突撃を仕掛け、朱儁と言葉を交わし、死んだ。



評価:

黄巾軍の一般参加枠。

歪みのない純朴な青年に見えて、結構な歪みを持った人。

目的と手段がちぐはぐになっているが、それに本人が気づいていない。

張曼成、韓忠と組むとどこまでも中庸。

軍団指揮においては先を考えず、その場その場を処理しているだけなので、総合的に見ると実は平凡。ただ、状況処理能力が高く、短期的な局面では間違いを選ばない。

部隊指揮官としては優秀だが、総指揮官の器はない。

朱儁の言葉に納得して自らの敗北を受け入れたが、これに関しては、賊軍となって国に言葉を届ける以外に選択肢を思いつけなかった趙弘が朱儁の言葉を受けて『他の選択肢もあった』と思い至れたから。

朱儁の言葉の内容に関しては「そうは言うけどそれができるのも才能だべさ………」と苦笑い気味。

道がないのではなく、道が見えていなかったのだ、と。

それに気づけたのでした。

黄巾軍側の一般人枠として、民から見た黄巾軍を描写するために準備したキャラクター。

けれど、実際に動かしてる内に南陽黄巾軍がどんどん精神的な面での描写が必要になっていき、バランスを考えて趙弘の精神描写も増やした結果、一般人枠ならぬ逸般人枠になってしまっておりましたとさ。

根っこから純朴なキャラクターを書くことができない。

佐久彦の課題ですね。


誤字、ルビ、表記ゆれの修正を行いました(2025年5月2日)。

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