十六幕 蜂起
西暦一八四年(中平元年)二月五日。
黄巾党党首、張角は天下に大号令を発した。
その大号令の内容は以下の通りである。
『蒼天は既に死んだ。黄天こそが、今立ち上がるべきである。今年は甲子の年だ。天下は大吉となる』
蒼天とは、後漢王朝を意味し、黄天とは黄巾の世を指す。
甲子とは干支の年の表し方の一つで干支とは十干十二支を組み合わせてできる六十の年の区分の仕方だ。甲子はその六十年の中の最初の一年を表す年で、新しい世代が始まる、と表明しているのだ。
その年は、天下にとって大吉となる年だ、と宣言している。
言い回しが非常に簡潔で、学のない民間人に向けて発せられた言葉だった。
この大号令が、大陸中にばらまかれた。
「あーあ」
その大号令は、洛陽の王城にまで届いた。
それを受けて暗く憐憫の微笑を浮かべるのは、後漢の第十二代皇帝・劉宏だ。
彼は、父母と慕う十常侍から天下は安寧である、と伝えられており、表面上はそれを信じている立場だった。
「さすがにここまで大事になったら、見て見ぬ振りはできないな。さて、我が父母は、我が義兄はどう動くかな?」
そんな呟きを漏らす。
「………父上」
そんな劉宏を、彼の長子である劉弁が不安げに見つめていた。
「………コウどのー」
そんな親子に、背後から声がかかる。
劉宏が振り向くと、そこには彼の妻・何霊が気遣わしげに立っていた。
「やあ、レイ。どうしたの?」
「………………」
劉宏は何霊にそう言って微笑む。
その微笑みを、何霊は不満げに見つめた。
「コウどのさー。なんかしてほしいことある?」
何霊は劉宏の妻になった。しかし、その関係は冷えきっており、何霊はその冷え冷えとした空間を、男漁りをすることで埋めていた。
劉宏に自分は必要ない。
何霊はそう感じていた。
「………や。無いなら別にいいけど」
正室である自分にすら弱音を吐いてはくれない。自分は彼には必要とされていない。
国家の大事になっても、劉宏は何も変わらない。
その事実を確認して、何霊はまなじりを下げて退がろうとした。
「………レイ。久しぶりに君の手料理が食べたいな」
退がろうとして、その言葉を聞き、何霊の顔に花が咲いた。
「ん。任せなさい。美味しいもん、出したげる」
そう言って、何霊は物凄い速さで、厨房へと走った。
「あにうえ、どうしたのー?」
劉弁の妹の劉協が、表情の明るくなった兄にそう訪ねる。
「いや。父上と母上は、何だかんだで繋がっているよな、って思ってさ」
そう答える劉弁に、
「とうさまもかあさまもなかよしだよー」
劉協が満面の笑みで答えた。
「何皇后様!? お料理でしたら私たちが行いますので、どうかお止めください!」
「下町育ちを舐めないでっての。旦那が妻の手料理をご所望なのよ? これで作らなきゃ女が廃るわ!!」
厨房では皇后の暴挙に悲鳴を上げる女中と、包丁一本で曲芸のように吊し上げられた豚を捌く何霊の楽しそうな声が響いていた。
そして皇后の絶技に自信を打ち崩された料理番が静かに崩れ落ちていた。
「な、なんということだ」
洛陽城に届いた書簡を手に、十常侍の張譲は震えていた。顔面は蒼白で脂汗が滝のように流れており、書簡を持つ手だけでなく、体中がガタガタと震えている。
「す、すいこうどの。遂高殿ーーー!!」
甲高い悲鳴のような声が、使者を走らせた。
『お初にお目にかかる。黄巾党党首、張角だ。貴殿等に、宣戦布告を申し渡すためにこの書を送る。現在、巷を賑わせている奇病については諸兄もご存知のことと思う。我々黄巾党は、この奇病の特効薬の開発に成功した。併せて、この奇病の原因も特定し、隔離している。この意味を、どうかご理解頂けるよう』
「………こんな堂々と脅しにくるとは」
何進は書簡を手に、わなわなと震えていた。
張譲が隣で青い顔をしている。
「遂高殿。どうすればいい? 病原をばらまかれたらこの国はおしまいだ。黄徒がここまで増長してくるとは思わなかった!」
縋ってくる張譲を何進は意外そうに見た。
「黄巾の増長を予見できなかったのはあなたの落ち度ですが、………意外ですね。あなたも国は大事ですか」
さらりと皮肉を混ぜてくる何進に顔をしかめながら、張譲はそっぽを向く。
「当然だ。この国に危難が訪れれば、割を食うのはこの大陸で最も恩恵を受けている我々だ。私はまだこのようなところで落ち目を迎えるつもりはない!!」
そう言いはなった張譲を見て、何進は薄く笑った。
「………どうやら、俺とあなたの想いは同じのようだ。俺も、この様なところで終わるつもりはない。この国を、共に救おう!」
「話はまとまったみたいだね」
宮廷の内を司る宦官と外を司る外戚が手を取り合うと、まるで見計らったかのようなタイミングで、穏やかな声が割って入った。
その声の主を即座に悟り、何進と張譲は振り返って跪く。
皇帝・劉宏がにこにこと穏やかな笑みで立っていた。
「なるほど。張角はこう来たか」
劉宏の呟いた言葉に張譲は戦慄する。
皇帝に対しては宦官が声を揃えて、「天下は安泰である」と説いてきたのだ。
それを信じていると思い込んでいた張譲は、劉宏の口から張角の名が出たことに動揺を隠せない。
「へ、陛下………」
「僕には僕の、情報網がある」
顔を真っ青にして震える張譲に、劉宏は穏やかな顔を向ける。
「君たちが、僕に対して『天下は安泰である』と言うなら、公的に僕の耳に変事が届くまでは君たちに任せるつもりだった」
劉宏の表情は穏やかだ。張譲に対する敵意も、騙されていたことに対する怒りも見られない。
それが、張譲には恐ろしかった。
「まぁ、それも、ことここに至ったらもう駄目だね。君たちのもっている軍権を何進に移行する。何進。討伐軍の編成をお願い。有能な将帥の選定は任せるよ」
「馬鹿な。陛下。いけませぬ。この者にその様な選定ができるわけは―――」
「できるさ。だって、我が義兄上は、この事態の収束に向けて、既に初手は打っている。最近、軍関係の資料を閲覧していたみたいだよ」
「………流石です。陛下。有事の際に戦力になるであろう幾人かは既に目星をつけてございます。つきましては、陛下の印を頂戴するお許しを戴きたく思います」
「わかった。誰に送るのかな?」
「は。王子師、廬子幹、董仲穎、孫文台、皇甫義真、朱公偉の六名に送りたく」
何進が皇帝に向かって拝礼しながら言った言葉に、張譲は口を開けた。
王、廬の二将軍は歴戦の士なのでまだわかる。しかし、朱は台頭を始めてまだ日の浅い若者で、孫、董は地方でしか兵を率いていない。
皇甫に至っては、その叔父は歴戦の士だったが、今は亡く、家督を継いだその甥は、喪に服すとのたまって、何年も出仕せずに引きこもっている、後漢きっての問題児であった。
「バカな! そも、皇甫が参内する筈がない! 何度奴を招いたと思っている!?」
「そこで、陛下と張中常侍様にお願いがあります」
何進は髪を整えながらそう言う。
「お二方の署名、そして俺の署名。三名の署名によって、皇甫を呼び出します」
皇帝と宦官と外戚。三者の署名があれば、それは確かに、後漢政権全体が、召致を望んでいることに他ならなくなる。
「そうまでして、呼びたい駒なのかな?」
「皇甫は大局を見て動ける男です。素行には確かに問題ありですが、こういった広域戦には必要な男ですよ」
「わかった。ではその者たちに署名を入れた詔書を送ろう」
この時、外戚と宦官は一時的にではあるが足並みを揃えることとなった。
後手に回ってしまった官軍は、遅まきながら、ようやく始動を開始した。
なんか今更すっごいミスを見つけた。
やっべぇ。
王允の字が子師じゃなく師子になってた。直した。
章番号修正(2024年9月25日)。
誤字、ルビ、表記ゆれの修正を行いました(2024年月26日)。




