百四十九幕 下曲陽決戦~四日目②
朝が来た。
陽が昇るとともに、下曲陽城の城壁で守備についていた黄巾兵たちは呆然と、眼下を見下ろすことしかできなかった。
北の城壁にいた者たちはもっとひどい。
力なく、座り込んでしまっていた。
眼下の光景を見て。
下曲陽城の北を流れる滹水に巨大な堤ができていたからだ。
滹水を両断するように建てられた堤。高さは二丈(約4m)ほど。
川岸からすら一丈以上飛び出して見える。
北の守備を担当していた兵たちは既に城内に退避している。その中に、北側で指揮を執っていた黄巾将・厳政もいた。
城内は既に惨憺たる有様だった。
夜更けから懸命に行われた水対策も十全に効果を発揮することはなかった。
広い城内。
流れ込んでくる水から便所の汲み取りを守ることも、汚水が井戸に流れ込むのを防ぐことも叶わなかった。
一部は防ぐこともできたが、城内全てを清潔に保つことは間に合わなかったのだ。
少しでも汚水の侵入を防ぐため、建物を打ち崩して堰を作ったが、あとからあとから押し寄せる滹水の水に、堰も限界を迎えつつある。
そんな現状を、厳政は呆然と見ることしかできない。
自身の失策。
滹水の対岸にまで、警戒を広げるべきだった。
自分の判断の愚かさが、この城の窮地を招いているのだ。
座り込み、頭を抱えることしかできない。そんな厳政を、他の兵たちは見守ることしかできなかった。
そこに大柄な影が近づいた。
「おう、厳政。無事か?」
この下曲陽城の最高指揮官のひとり、鄧茂が厳政のもとに歩み寄ってきていた。
「………あ、鄧茂、さま」
水をかき分けながら、鄧茂はまっすぐに歩み寄ってくる。そして疲れたように小さく笑った。
「へっ。『さま』なんてよぉ。言われる立場かってんだ。皇甫の野郎にこれでもかってくらいやりこめられてよぉ。立つ瀬がねえわな」
鄧茂は肩を竦めてみせる。
「挙句の果てに、望まない命令を忠実にこなしてくれてた奴に責任でも背負い込まれてみやがれ。穴を掘って埋まりたくもなるってもんだ」
「そ、そんな、鄧茂さまは悪くありません! 悪いのは―――」
悪いのは。
厳政がそう告げようとしたところで、鄧茂がにっこりと、笑みを深めてくる。その笑顔に気圧されて、厳政は黙った。
「そうだな誰が悪いかとか、今はそんなことは言ってる場合じゃないやな。厳政。しゃきっとしろよ。お前は兵を率いる指揮官だろ?」
鄧茂が、大きな音を響かせて厳政の背を叩いた。
厳政は瞬間絶息する。
次に息を大きく吸い込んだ時、厳政は生まれ変わったような心持ちになった。
厳政の目に光が再び宿ったのを確認した鄧茂は、満足したように頷くと、政庁に向かって歩き出した。
「城内の兵は八万。民が三万。このまま時間が過ぎればどんどん不利になるわ。今日中になんとかしないと」
程遠志の言葉に、部屋に戻ってきた鄧茂が呆れたように言う。
「そんなん、やることは決まってんだろ。鄡城に向かう。この城はもうダメだ。いい拠点だったからもったいないけどな。水攻めされたんなら捨てるしかねえ」
鄧茂の言葉に張宝も頷く。
「それしかないかしらね。探ってみたけれど、鄡は敵の手に落ちた訳じゃない。補給路が潰されたせいで補給が届かないけれど、城自体はまだこちらの勢力下」
「そうなると、東方向へ脱出ですね。問題は敵の包囲の突破ですけど」
「それに関してもほぼ平気だ。水攻めのせいであいつらの機動力も落ちてる。対応は後手に回らざるを得ない。あいつら、全部合わせても三万ちょいしかいないんだぞ? 対するこっちは十万越えだ。力押しでも十分突破はできるさ」
「東に向かうのが読まれてたら?」
「そん時は南に向かう。楊氏だ。どっちにも対応できるように兵を分散させるってんなら、突破もしやすくならぁな。そん時も南だな。鄡よりも物資が豊富だ。」
鄧茂の言葉に張宝と程遠志も頷く。
頷くしかない。
鄧茂も、自分の言葉が正しいとは思っていない。
川が封鎖されたのは城の北側。
故に、北側が最も浸水の被害を受けており、南側はたいして水に浸っていない。後漢軍が布陣している城外など、騎馬隊の機動力が損なわれるほどの泥濘にすらなっていないだろう。
分の悪い賭けだ。それでも、張るしかない。
「正午になったら全員に無事だった食料を配って脱出を始めましょう」
張宝の言葉に、鄧茂と程遠志は頷いた。
意識を外に向ける。
視界の端に黒い線が見え、それが宙を走って兵のひとりに取り付いた。
次に、その黒い線が切れるように念じる。するとその線はプツリと切れ、空中に溶けるようにして消えていった。
ふむ、と頷いた小柄な女。
呪いを操る黄巾将・程遠志だ。
意識を二人に向けてみる。黒い線は二本、出てきてそれぞれの兵士と程遠志を繋いだ。
彼女はこの数か月、自分の異能を検証し続けていた。
この黒い線は、無数に出すことができる。視界を埋めるような本数を出してみたこともある。
しかし、接続には限界があるらしい。今の程遠志なら三十人。
限界の数を接続しても何も起こらない。しかしひとりでも超えると頭が痛くなる。
それを堪えて大量に接続し、呪いをかけると、程遠志は死ぬ。
確証はないが、直感で程遠志はそれを感じていた。
以前試した時、全身が総毛立った。
『このままやれば死ぬぞ』と。
程遠志の存在の全てが警告してきた。
慣らすことが必要なのだ、と直感する。
それから程遠志はひと月かけて慎重に試した。すると、最初は三人に接続すると頭痛がしていたのに、数日後には四人に接続した時頭痛が出始めた。
少しずつ、許容量が増えている。
そしてようやく、三十人まで増やしたのだ。
接続までなら死ぬことも無いようだった。三十人を超えると頭痛に襲われ、それでも続けると鼻血が出てくる。そこから先は視界が真っ赤に染まり、倒れる。
しかし、そこまでやり続けると、数日後には接続数が一人増える。
鉄門峡での戦いで自分の異能の重要性を理解した程遠志は、下曲陽で自分を見つめ直さなければならないと感じたのだ。
毎日のように鼻血を垂らし、ぶっ倒れながら異能の限界を伸ばそうとした。
それでも、三十人だ。
敵の先鋒の、更にそのまた極々一部にしかかからない。これではだめだ。
程遠志は空を見上げた。
青く澄んだ空が、眩しく輝いていた。
生き延びなければならない。
生き延びなければならない。生き延びなければならない。生き延びなければならない。
この乱を起こした時、既に覚悟は決めていた。
死ぬ覚悟はできていた。
黄巾党にとって、一番大事なのは張角だ。その張角を守るために張梁と張宝がいて、その張梁と張宝を守るために中方長たちがいる。
それがまさか、最高幹部最後のひとりが自分になろうとは。
張角が背負うはずだった責任が、張宝に降りかかっている。
それでも、前を向いて、背負いきってみせる、と。
自分の命は、もはや自分一人のものではない。
この乱に乗った人たち全てのものとなっている。
だから、他の何を犠牲にしても、生き永らえなければならない。
他の、何を?
鄧茂を犠牲にしても?
程遠志を犠牲にしても?
二人の死を見ても止まらずに走らなければならない?
覚悟はとうに決めていた。
そのはずなのに。
「………………困ったなぁ。いや、だなぁ」
張宝は頭を抱え、うずくまって呟いた。
戦斧を振るう。
綺麗な風切り音がした。
(女どもはぐちぐちいろいろ考えてそうだ)
振るって、振るって、正眼で止めた。
ぴたりと制止した戦斧は、風を受けてもなお揺れない。
(難しく考える局面は過ぎた)
戦斧を軽く投げ、懐から小刀を出して投げる。
戦斧を右手で受け止めた時には、的の真ん中に小刀が突き立っているのが見えた。
(せめて俺ぐらいは、猪突に猛進しますかねぇ)
鄧茂の調子は、今日も万全だった。
そして、正午になった。
少し、揉めた。
二人が、怒ってくれたことが、嬉しかった。
「いいか、お前ら! 生き残りたければ、ただ駆けろ!!」
そんな声が下の方で聞こえ、門が開く音がする。
地が鳴るような音とともに、黄巾軍が下曲陽城を出陣した。
その音を、程遠志は下曲陽城の城壁の上から聞いていた。
漢軍は東に董卓指揮する一万五千、南に皇甫嵩指揮する二万が展開している。
鄧茂は最も浸水地点から遠い南門を開いて飛び出した。
正面の敵を切り抜いて、ただ進む。
南の漢軍を抜けることができれば、まだ再建の目はある。鉅鹿郡の内部には、まだいたる所に黄巾を支持するという者がいるのだ。
自治領を保持し、国が手出しできない力を手に入れる。
十万を超える兵力というのは、それを可能にすることができる規模のものだ。
城を占拠することができれば、それを維持するのに必要な産業も一緒に手に入る。攻めて落とすのではなく黄巾党の支持者の城に入れば、その産業を統治する官吏も手に入る。
まだまだ。
いくつ目かの山場に行き当たっただけだ。
しかしそれも、この危地を抜けられればの話だ。
十一万対二万。
数の上では負けることはなさそうだ。
しかし、相手は皇甫嵩。この下曲陽城の戦いの中でもすでに、侮れない男だとわかっている。
さらに、東の董卓軍を完全に自由にさせている。一万五千の軍に横腹を突かれたら無事には済まない。
そもそも、この軍には三万の民が混ざっている。城内にいた民たちだ。皇甫嵩が水攻めを選んだ時点で、城内の民は国に許しを請うことを諦めた。そんな民を守るのに、兵を裂いておかなければならない。実際に戦える兵は多く見積もっても五万ほど。
皇甫嵩の軍と組み合っている時に東から董卓軍が横槍を入れてきたら、五万の兵力で二万と一万五千の二方向を対処しなければならない。
五万と三万五千。
数の上ではまだ有利ではあるが、それでも事故は起こりうる数の差だ。
しかし悪いことばかりではない。
民たちの表情に絶望の色は少ない。
そも。
この乱は国政が乱れているから起こったものだ。
悪いのは国だ。
そんな思いを抱えている。自分たちが正義だと思っている集団は絶望に陥りにくい。
(できれば、全軍でもって皇甫の軍を壊滅させて『勝ち』を取っておきたいところだが)
負けが続いた流亡の賊軍よりも、勝ちを掴んで割拠する賊軍の方が民衆の心を掴む。黄巾軍に、寄せる希望が大きくなる。
しかし。
それだけはやめて、と。
逃げることだけに徹して、と。
程遠志が泣きながら言うのだ。
好いた女にそこまで言われて拒絶できるほど、鄧茂は冷酷になったつもりはない。
しかし。
私は残るから、と。
城壁から戦場を見て敵を呪うから、と。
程遠志は笑いながら言った。
愛した女にそんなことを言われて冷静でいられるほど、鄧茂は薄情になったつもりはない。
しかし。
お姉さまをお願いね、と。
二人を絶対に助けるからね、と。
程遠志は誇らしげに言った。
仲間の、そんな言葉を、呑み込めないほど、男をやめたつもりはなかった。
だから。
ああ。頼りにしてるぜ。相棒、と。
愕然と、言葉を発することもできない張宝に代わって、鄧茂は答えた。
好いて、愛した、仲間である女に、相棒に、背中を預ける選択をした。
鄧茂が指揮する五万は、陣形を整えることもなく走った。
堰き止められた水が氾濫を起こすかのように、猛然と走る。
鄧茂を含め、騎乗しているのは一万ほど。残りの四万は走っている。
「厳政! 突っ込むぞ!!」
「はい!!」
騎乗している者の役目は敵陣を割り開くことだ。
人間が壁となり、敵を後ろに通さないことが陣形の意味ならば、その壁を打ち破るのが軍の目的だ。
漢軍は横陣を展開している。陣形を組まずに突撃を始めた黄巾軍を見て僅かに動揺が走っているのが見て取れた。
横陣中央には『蓋』と『伍』の旗。蓋勲と伍稽だ。
「脳筋と器用貧乏が相手だぞ! とっととぶち抜いて突き進むぞ!!」
鄧茂がそう叫ぶとどこからか、「お前が言うな!」「ひでぇ!!」と叫び声が聞こえた。
その反応に、鄧茂は楽しそうに笑いながら、遊ぶようにして漢軍に分け入った。
陣形をまともに組むことなく突入してきた黄巾軍に伍稽は顔を引きつらせる。
「やべーぞやべーぞ! 始まった! ってかなんか酷いこと言われてたよね!? 俺! 器用貧乏とか思ってても言っちゃダメっしょ!」
伍稽が叫びながら兵たちに指示を出す。
横陣からの鶴翼の陣。
敵が攻めてきている箇所をわざと下がらせて、攻め気にさせた敵を両翼で包み込み殲滅する陣形。
この乱の中で何度も使った戦法だ。
故に慣れた様子で伍稽は指示を出す。
「報告! 五合目まで下がりました!」
そんな報告が伍稽に入った。それを聞いて伍稽は眉をひそめる。
(『引き』が早い? なんだ? なんか嫌な予感が―――)
「お? 指揮官っぽいな? こいつぁ、僥倖だ。仕留めとくか」
「うげぇ!? 敵将!? うっそだろ!?」
早い。
想像以上に早い。
これは要するに、こちらが引くよりも早く敵が押し込んできているということだ。
敵の将は腕が片方ない。鄧茂だ。
そう思った時には馬上で槍を構え―――。
「あ? なんだそりゃ」
鄧茂が戦斧を振るった時には伍稽は吹き飛ばされていた。馬上で踏ん張りがきかなかったのだ。しかしそれで助かった。
あそこで踏みとどまっていたら、伍稽は両断されていただろう。
「はっはっはっはっは」
吹き飛ばされたからこそ、鄧茂の斧は伍稽の薄皮を裂くだけで済んだのだ。
「はっはっはっはっは」
死を、垣間見た。荒い呼吸しか、吐くことができない。
そこに。
「おお、無事か、徳瑜殿! 黄徒よ! 蓋元固が相手する!!」
蓋勲が矛を構えて兵の壁から飛び出してきた。
「元固さん!」
伍稽は安堵の表情を浮かべる。
蓋勲は皇甫嵩の麾下で最も武に秀でた男だ。
「辺境を守る蓋家の刃、受けるがいいぞ、黄徒!!」
蓋勲の口上を受けた鄧茂は、伍稽に向かっていた馬の向きを蓋勲に変える。
「はっ。なら辺境で大人しくしとけ」
鄧茂の戦斧が、蓋勲の矛が、打ち合わさる。
鄧茂は片腕。そんな鄧茂に、蓋勲は遠慮会釈のない渾身の一撃を叩きつける。それを鄧茂は、受けて、押し返し始めた。
「ぐ、な」
「軽ぃな。蓋家の刃ったぁ、随分ちんけなもんだなおい。鉄門峡のガキの方がまだ重かったぜ」
「ふ、ふざけ」
「だいたいよぉ。お家の力だとか下らねえ。こちとらそういうのを潰すために、賊やってんだっての、よ!」
蓋勲は押され続け、ついに戦斧が蓋勲の身体に届いた。
肩口をざっくりと斬られ、そのまま腰が抜けたように身体から力が抜ける。
蓋勲の身体が馬から落ちていくのを、何か悪い冗談であるかのように伍稽は眺めていた。
鄧茂の視線が伍稽に移る。
「あ、ひ―――」
伍稽の喉が鳴る。口の中が渇き、目は見開かれる。
鄧茂の一挙手一投足を追うことしかできない。
そんな伍稽を見て、鄧茂はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「おら、行くぞ。こんなところで止まるな、お前ら!」
そうして、黄巾軍は僅かに止まった進軍を再開した。
あとに残された漢軍の中央軍は、指揮官二人がまともに指揮をとれず混乱状態となった。
中央が抜かれた。
それは、皇甫嵩のいる本陣まで鄧茂の刃が届くことを意味している。
右翼の張邈と郭典、左翼の楊密と傅燮はそれぞれ泡を食って中央に向かおうとした。
しかし、そこには蓋勲と伍稽の部隊がいる。
将が討たれたとしても、兵がいきなり消えるわけではない。
指揮系統が崩れ、判断ができなくなった兵たちが壁となり、左右の部隊は黄巾軍に直進することができない。
応変の才をもつ郭典と、素早く落ち着きを取り戻した楊密が同時に兵たちに迂回するよう告げた。
張邈、傅燮は左右に分かれた蓋勲と伍稽の兵を纏め始める。
皇甫嵩は本陣から楊密、郭典が左右から迫っているのを見た。
皇甫嵩も陣を進める。鄧茂が兵の壁から出てきた。
その猛進は少しも勢いが落ちることがない。
右から三千。左から三千。正面から四千。
鄧茂と共に走る兵は五万。その後ろを、鄧茂たちが切り開いた道を通るように続く歩兵と騎馬で構成された六万。
数の上では圧倒的な不利。
しかしその不利を、戦術で覆してきたのが皇甫嵩だ。
三方向からの同時攻撃。
敵は数は多くてもまともに陣形を組んでいない。
(捌けるなら捌いてみな―――)
突然の浮遊感が、皇甫嵩を襲った。
ここだ。
ここしかない。
ここで、少しでも遅れれば、蓋、伍の部隊を吸収した張と傅が押し寄せる。
接続を確認する。
二万を超える接続。全てが繋がっている。
ここで、呪いを願うだけで、漢軍全員に呪いが通る。
しかし、その代償に、程遠志は死ぬだろう。
涙が出てきた。
嬉しくて。
誇らしくて。
自分の命で誰かを助けることができる。自分の命で誰かを助けたいと思えた。
それを、泣きながら止められた。それを、辛そうに受け入れてくれた。
自分は、この瞬間のために生きてきたんだ、と思えた。
少しの申し訳なさがある。
(私ばっかり、こんな幸せになってごめんなさい。二人とも。どうか、幸せに)
目を閉じる。
下曲陽城で過ごした幸せな時間が、目の眩むような思い出が、胸が温かくなるような感情が、身体が疼くような快感が、すぐさま思い起こせた。
幸せな時間だった。
そしてそれは今も続いている。
幸せだ。幸せだ。幸せだ!
自分のような忌み子が、こんなに愛情溢れた人生を送れてよかったのだろうか。
申し訳なくなってくる。
目を開いた。
涙が流れる。口角が上がる。
嬉しくて。誇らしくて。幸せで。
心の中を一杯にしながら、程遠志は真逆の言葉を紡ぐ。
「呪われろ」
瞬間。
ぱちゅん、と音がした。
何かが弾けたような、水のような音。
目の前も真っ暗になる。
それでも確かに、程遠志のかけた呪いが漢軍に伝わったことを感じる。
そうして、自分がいなくなることで不幸になる人間がいると露ほども思えなかった未熟な女は、愛する二人のために笑って死んだ。
鄧茂の目が驚愕に見開かれる。
見渡す限りの漢軍の兵が一斉に落馬した。
いや、それだけではない。
歩兵も転んでいる。
そして。
「―――――――――っ」
下曲陽城の城壁から一人の女が落ちるのを認識した。
今日の鄧茂は冴え渡っている。
背中にも目がついているかのようだ。視界が広い。
そんな鄧茂の鋭敏な神経が、本来なら見えるはずのない姿を見た。
(バカ女)
よく見なくてもわかる。
程遠志は笑っている。嬉しそうに笑いながら、鄧茂を助けるために、張宝を逃がすために、自分の命を使い潰した。
「でかしたぞ、程遠志ぃ!!」
先に逝った愛する女に届けとばかりに、鄧茂は叫んで皇甫嵩の本陣を通り抜けるために馬を進めた。
あまりの惨状に思考が固まった。
しかし、予想はしていた。
規模は予想の範囲外だが、それでも落馬を予想はしていた。
だから、皇甫嵩は放り出されながら剣を抜いた。
視線はまっすぐ、狙いから外さない。
そうして振るわれた剣筋は、皇甫嵩の狙い通りにその白刃を煌めかせた。
最終決戦、開幕!
章番号修正(2024年9月28日)。
誤字、ルビ、表記ゆれの修正を行いました(2025年4月13日)。