百三十二幕 大将問答
広宗城に籠る黄巾軍の指揮官、張梁。
髪を剃り上げた禿頭の男で、戦場にあっても頭一つ、抜き出た体の大きさをもっている。そんな巨漢が、目を丸くして見下ろしてくるのが、卜己にはなんだかおかしかった。
光和七年(西暦一八四年)、十月七日。
遂に漢の援軍が広宗城に到着した。
―――決戦が始まる。
広宗城に籠る黄巾軍は、末端の兵に至るまでがそう考え、そして、熱く闘志を煮え滾らせていた。ほとんどの者が黄巾軍総大将の張角が死んだことを知らない。
大賢良師のいる城を守り切る。
それが兵たちの共通した思いだった。
翌日。
十月八日の日の出とともに、張梁は角楼に上った。
既に兵の配置は通達してある。
東西南北の城壁に五百。そして、本営に予備軍として五百。
それで落とされないように抵抗するしかない。
南陽郡の宛城に籠った黄巾軍。彼らを救うためには皇甫嵩が宛城を攻める朱儁に援軍を要請する必要がある。
城の機能を最大限に使い、皇甫嵩が攻めきれない形を作る。そうすれば宛城の攻め手を割かざるをえず、宛城の黄巾軍が逃散する機を作ることができる。
すべてを無理やりに楽観し、城壁の上から布陣を始める漢軍を睨んだ。
その漢軍から一騎、こちらに歩いてくる姿がある。
その姿は城壁の陰に隠れ、すぐに張梁からは見えなくなった。しかししばらくしてすぐに張梁の元へ伝令兵が駆けてきた。
「卜己中方長が、城門の前に!」
意表を突かれた張梁は目を丸くし、次いで開門指示を出した。
「張梁様。申し訳ありません。援軍を呼ぶこともままならず、管亥様に張角様の死を伝えることしかできませんでした」
張梁の前に跪き報告する女は、確かに張梁にとって慣れ親しんだ女だった。
それだけに疑問が残る。なぜ、漢軍から卜己が現れるのか。
そんな疑問を察して、卜己が先に説明を始める。
「三悪党をもう一度動かそうと青州に向かおうとした途中で皇甫義真と遭遇し、無様を晒しました。捕虜となっていたのですが、ある条件と引き換えに開放を許されたのです」
「条件?」
張梁の視線が厳しくなる。その状況で出された条件。碌なものではないに違いない。
「はい。皇甫義真は張梁様と話がしたい、とのことです。私に出された条件は会談の打診を張梁様に行うこと。会談が実現してもしなくても、私は解放する、と言われました」
そこまで言って、卜己は眉尻を下げる。
「申し訳ありません。私は最期は張梁様と過ごしたかったのです。卜己のわがままを、お許しください」
そう言って頭を下げてくる卜己を責めるつもりは毛頭ない。
「戻ってこれてよかった。苦労をかけるな、蔡雪。皇甫義真が何のつもりかはわからんが、奴の思惑に乗るとしよう。卜己。もし、俺が殺されたら、すぐに全軍を鼓舞し、城門を開いて突撃しろ。兵たちを復讐の鬼と化させて、敵軍に痛打を与えるんだ」
「………………………はい。わかりました」
卜己の目に、張梁の顔は写らない。ただ、数値が浮かび上がるだけだ。張梁の顔がどんなものなのか、卜己は知らない。しかし、勝利を諦めていない、ギラギラとしたきらめきを、その瞳に宿しているのだろう、と、確信することができた。
十月八日。
一夜明けたその日、紀孔は兵を指揮しながら皇甫嵩と張梁が行う会談の場の設営を終了させた。
城と漢軍の駐屯地の中間地点。
それが張梁と皇甫嵩で取り決めた会談の場だった。莚の敷物を敷き、その上に小さな畳を置く。簡易的な食べ物と飲み物を膳に乗せて畳の敷物の前に添え、待った。
城から三十人ほどの人間が歩いてくる。その中には昨日解放した卜己も見えた。
会談の場まで二十歩ほどの場所で、その集団は足を止め、そして禿頭の大男が一人で歩み出てくる。
会談の場には既に皇甫嵩が座っており、紀孔や郭典は張梁の供と同じようにニ十歩ほど離れて会談を見守っていた。
張梁は靴を脱いで敷物の上に乗り、皇甫嵩の正面に腰を下ろす。
(こいつが、皇甫義真か)
討伐軍を指揮する将として抜擢された男。討伐軍の指揮官に任命されるより前は経歴も不確かだった。しかし、異民族討伐で大きく功をあげた皇甫規の甥であるということで、張梁は注目していた。叔父について幼い頃から何度も戦場で指揮をしていたという噂もある。
漢政府が見逃さなければ、実戦経験豊富な、厄介極まりない将であると、張梁は乱の蜂起以前から警戒していた。
ふたを開けてみれば、波才の策謀渦巻く潁川を攻略し、異能を自在に操る卜己を撃破した。
黄巾軍で最も厄介な男と、最も異質な女。
どちらも並の将であるなら、捌ききれない難物であったはずだ。それを、損害もほとんど出さずに乗り切ってみせた。
そんな男は、張梁の予想に反して大人しそうな男だった。威厳があるわけでも、貫禄があるわけでもない。思わず気がそがれるかのような思いに駆られる。
暢気そうな空気にあてられて、戦意が霧消しそうになり、慌てて気を引き締め直した。
「張梁だ」
短く名乗る。皇甫嵩は張梁の言葉を受けて頷いた。
「皇甫義真だ。漢軍の指揮官をやってる。朱公偉が総大将なんで将としては二番手だがな」
肩を竦める皇甫嵩に、また、張梁は妙な気分になる。これから殺し合おうという関係の交わす言葉ではないような気がした。しかし、皇甫嵩はそんなことは思っていないようだ。
「あ。ちなみに、お前さんが桓伯彦だってことは知ってるから、どっちで名乗ってもいいぞ」
「そこまで調べがついているのか」
「あーまあ、というか、郭書規がこっちにはいるからな」
そう聞いて、討ち漏らした幼馴染のことを張梁は思い出した。
包囲軍を指揮する将の中に郭典がいると知り、悔しさと、それから安堵が溢れたのを覚えている。そんな甘さがこの敗勢の所以なのだと、何度も自分を戒めた。
しかし。
「というか、太学の時に遠目で桓のこと見たことあるんだよな、俺。てっきり書規とできてると思ってたよ」
「下種な勘繰りはやめろ」
目の前の指揮官は、甘い、とは言わないがどうにも『軽い』。
張梁が思い描く将軍とは全く異なる異質な存在だった。故に、張梁の心中は困惑で支配されている。これも心理戦なのかとそう考えても、困惑させることで皇甫嵩にどう有利に働くのか、いまいちわからない。
「それで」
これ以上相手のペースに乗るのはまずい。
「こんな会談の場を用意したんだ。何か話したいことがあるんじゃないのか」
目に力を入れ、皇甫嵩の不思議な魅力に飲み込まれないよう気を引き締める。
そうして睨み続けていると、皇甫嵩はふい、と視線を張梁から逸らした。
「あーー、えーー、なんというかーー、そのーー」
きょどきょどと目線を左右に動かしながら皇甫嵩は挙動不審にそわそわと体をゆする。
「?」
張梁はわからない。もはや皇甫嵩が何を考えているかわからない。何か話があるから呼んだのではないのだろうか。降伏勧告でも探りを入れてくるわけでもない。これならいったい何のためにこのような暴挙を犯しているのか。
混乱の最中にいながらも『暗殺』という可能性に身構える。
そんな張梁の緊張が、皇甫嵩に伝わった。皇甫嵩はため息を吐いて、頭を掻くと張梁に目線を戻した。
「あー、すまん。こんな状態だとそりゃ警戒するよな。気にしないでくれ。本当に、ただ単純に、顔を見て、言葉を交わしたかっただけなんだ」
皇甫嵩の言葉に、張梁が訝しげな表情を向けてくる。説明を求められていることを感じ、皇甫嵩は頭の中で整理しながら話し始めた。
「俺は十を超えた頃から叔父について戦場で走り回ってた。初めて指揮を任せられたのは十二の頃だ。向いてたんだろうな。次の年には三千の兵を率いていた。………今考えるとよく従ってくれたもんだよ」
一瞬遠い目になって昔を懐かしむように視線を虚空に向ける。
「そうやって戦場で戦っていると、色々な敵将の率いる軍とぶつかるんだ。けれど、敵将の指揮する兵とかち合うことはあっても、指揮をしている将本人にはなかなか会えなかった。ようやく会えてもそれは物言わぬ骸としてだった。戦場で戦って、相手の用兵の好みとか、狙いがどこなのかとか、そういうのは感じ取ることができるのに、どんな顔なのか、どんな声なのか、最後までわからないんだ」
皇甫嵩は張梁の表情を伺う。
案の定、張梁は理解しがたいものを見るような目つきで皇甫嵩を見ていた。
(やっぱり理解は得られないよなぁ)
少し寂しくなりながら皇甫嵩は続けた。
「戦場で戦う敵同士。そこには何か特殊な絆が生まれる。友人でもないのに理解と共感を覚え、たくさんの仲間を殺されたのに憎み切れない。そんな特殊な関係の奴と、けれど顔を合わせる時はどっちかが死んでるんだ。虚しく感じた。けど、ひょんなことから今回、敵の総大将と交渉ができそうだった。だからまあ、会って、顔を見て、言葉を交わしてみたかったんだ」
理解が、できない。
張梁は目の前の人間が諦めたように語った内容が、欠片も理解できなかった。
黄巾党として活動を始め、いくつかの戦いを経験した。私腹を肥やす豪族や県令を襲う程度のものだ。戦とも呼べぬ賊の行い。
それとは全く異なる、軍と軍との戦。それを多く経験すると人はこうなってしまうのだろうか。
張梁は皇甫嵩が恐ろしくなってきた。
同じ人間ではないような感覚。異なる視点と感性をもった男。そんな存在にどう対抗すればいいというのか。
「ああ、そうだな」
しかし、会談は終わらない。皇甫嵩にその気が欠片もないということはわかっているが、張梁には皇甫嵩が精神攻撃を仕掛けてきているとしか思えなかった。
「いちおう聞いておこうか。張梁。降伏をする気はあるか?」
「ない」
即答した。しかし、声は震えていなかっただろうか。
漢軍の最大の関心事は広宗城を戦場とした張梁指揮下の黄巾軍のはずだ。なればこそ、皇甫嵩が最も心を砕くのはこの戦場をどう制するか、のはずだ。
降伏を呼びかけることは自軍の兵の命を無為に損なわせることになる。もちろん、広宗城にいる黄巾兵たちはみな罪人となり、重い処罰を与えられるだろう。故に、黄巾軍が降伏することはない。しかし、皇甫嵩が何らかの交渉材料をもってきていると、張梁は考えていた。それすら無しに降伏はできない。ここから、交渉が始まる。そうなるはずだった。
決して、「そっか。だよな」などと、軽く頷いて流すような話題ではないはずなのだ。
問いかけの時の皇甫嵩の語調から、本題が交渉でないことを感じ取った張梁は、しかし実際に流されて、空恐ろしくなった。
皇甫嵩は、国賊とはいえ二千五百人の黄巾兵を処断することに、何の感情も浮かんでいないのだ。
対する皇甫嵩は、本当に何も考えていなかった。
(張角だったら交渉の余地もあったかもしれないんだけどな。張梁はダメそうだ。こいつには敵味方の命の数じゃなく、味方の命の数しか見えていない)
黄巾軍の動き方を見て、皇甫嵩は張角のことが朧気ながらも見えてきていた。
人を殺すことでより大勢の人間が死ぬのを回避する。そういう男が皇甫嵩の脳内に像を結んでいる。
昨年まで起こっていた各地での襲撃事件。散発的なものだったが、あれが指揮官の選抜を行っていたというのは波才から聞いた。そして現に、張角がしっかりと指揮を取り出した時から、散発的だった民間への攻撃は一気に収束し、黄巾軍の狙いは民間から国へと移った。それは鮮やかすぎる移行だった。
黄巾幹部の大半が、無為に民を攻撃することはせず、蜂起が行われてから村が襲われたのは青州の薬剤拠点周りだけだ。それ以外の地では国に仕える地方官吏だけが被害にあっている。
最初に野放図に民を襲わせ、その中でも憂国の志をもった者や、暴力の快楽に取り付かれていない者を見出し、幹部に据えた節がある。
国に反旗を翻しながら、国に所属する民たちをいたずらに傷つけない方針で動いているように感じた。
そんな張角ならば、勝ち目がないとわからせれば降伏してくる可能性も僅かにあった。
国賊として、広宗城にいる黄巾兵全員の処刑は免れない。
二千五百人の死は既に確定している。後は、漢軍がどれだけ死ぬか。
軍と軍がぶつかり、殺し合いをすれば、必ず両方に死者が出る。
皇甫嵩の用意している作戦でも運が悪ければ千人ほど死んでしまうかもしれない。
降伏して二千五百人の死者で済ませるか、戦って意気を示し、三千五百人の死者を生み出すか。
二千五百人の罪人だけで済ますか、千の罪なき兵を巻き込むか。
張角はそこでしっかりと悩むことができる男だと感じていたのだ。
しかし、目の前の張梁は違う。
張角のような、甘さともとれるような超越的な雰囲気は感じられなかった。敵は敵。味方は味方。敵をひとりでも打ち倒せるのならば、全滅しても戦う意義がある。
そう考えてるのがわかるので、皇甫嵩は対面した瞬間から説得を諦めていた。
国に反旗を翻した黄巾兵たちに恩赦を与えることは、もうできない。波才の時と異なり、既に投入されている戦費も莫大なものになっている。戦術的価値の大きくない投降に恩赦が与えられる時期は、もう過ぎ去っていた。
(まあ、個人的には、十常侍の蔵から出資されてるらしいし、もっと長引かせて戦費使わせたいけども。十常侍ざまあ)
しかし、いちおう答え合わせは必要だ。
「なあ、桓。お前はどうして黄巾党に入ったんだ?」
「民を救うためだ」
今度も張梁は即答する。
即答。それは用意された答えということだ。本心ではあるのだろうが、純粋なものではない。
その証拠に。
「民を救う、というだけなら太平道だけで良かっただろ」
黄巾党はあくまで太平道という新興宗教の中にある軍事部門を指す言葉だ。
大平道の基本理念は道教によくある『仙人を目指す』というもの。そして主な活動は薬や呪いによる病の治療。
要するに、太平道は慈善団体なのだ。そのまま慈善団体として活動を続ける道は当然あったはずだ。仮に張角がその太平道を下地にして決起を画策していても、黄巾軍に参加しなければいいだけだった。
今でも、太平道の信徒の半数は、戦に参加せず、天下が平らかになることのみを祈っている。それだけならば。行動に移さなければ、漢も見逃さざるを得ない。決定的に行動した者が、罰を受けるのだ。
「桓彦林。桓のお父上だよな? あの人を不当に貶めた国に対する恨みがあったのか?」
「………いや、違う」
皇甫嵩の問いかけに、張梁ははっきりと首を振った。今度は即答ではない。
「父は、身の振り方を失敗した。失敗した者は失脚する。それは仕方のないことだ。父も、残念そうではあったが最後まで恨んではいなかった。それなのに、子が恨むのはお門違いだろう」
「じゃあ、なんで」
「父の失脚によって、俺は国に仕官することができなくなった。男として生まれたからには兵を率い、戦に勝ち、民に慕われたい。そう感じるのは当然じゃないか。将として兵を率いられる可能性が、国ではなく賊軍だった。そういうことだ」
言葉を受けて、皇甫嵩は思わず空を仰いだ。腹の底からふつふつと苛立ちが湧く。それを感じながら、皇甫嵩は最後の質問をした。
「ちなみに、お前たちは負ける。これは確定だ。降伏すればお前たち全員は処断されるが、我が軍に被害はなくなる。戦ったとしても、お前たちはせいぜいこちらを数百削る程度だ。それでも、戦うか? 無駄な死者を増やすか?」
「バカにするな。一矢でも報いるために、戦っている。数百だとしても、お前たちに黄巾という存在を刻み付けてやるさ」
その言葉を聞いて、皇甫嵩は立ち上がった。
「ああ。よくわかったよ。お前は何も考えていない。民の気持ちも、兵の気持ちも、この分だと、卜己の気持ちも考えてないんだな。よくわかった。俺がやるべきこともわかった」
張梁に背を向け、靴を履き、そして顔だけで振り返る。
「お前の子供のような意地張りに、付き合ってやらなきゃいけないってことだ。まったく割に合わねえな。総指揮官の器じゃないよ、あんた」
そう言うと、皇甫嵩はそのまま歩き去った。
あとには、張梁だけが、ポカンとした表情で置き去りにされた。
「………………………………………………」
皇甫嵩は無言のまま会談を見守っていた面々を連れて本陣に戻っていた。
皇甫嵩という男はどんな時でもめんどくさそうに文句を言いながら必要なことを必要なだけやる。
しかし、今の皇甫嵩は違っていた。
見たことのないような皇甫嵩の態度に、紀孔は動揺してうまく言葉をかけることができない。
しかし、そんな彼に近づいた人間がいた。
「荒れてんねぇ、旦那」
郭典だ。
友人として誰よりも濃い時間を過ごし、皇甫嵩の本質を理解する彼女だけが、かつてないほどに怒気を発する皇甫嵩に、自然体で話しかけた。
皇甫嵩にお茶を渡し、自分も今しがた淹れたお茶をすする。
皇甫嵩はお茶を受け取ると、苛立った視線を郭典に向けた。
「書規。桓はダメだぞ、あいつ」
「まあ、ダメっていうか、部隊長くらいの素質かねぇ。大将は荷が重いよ、伯彦には」
肩を竦めて苦笑する郭典に、皇甫嵩は深く重く、息を吐いた。
「明日、攻撃を開始する。朝飯を食ったら、攻撃を開始する。第一陣は元固。第二陣は子秘。第三陣は徳瑜。各員、三千ずつを率いて城壁を突破して張梁と卜己の身柄を抑える。孟卓と南容、書規は三千ずつを率いて攻める城門以外の場所に陣を布く。明日中に決着をつけるぞ!」
皇甫嵩の言葉に、一同は勝利を確信し、拝礼を返した。
大将同士の奇跡の会談。
章番号修正(2024年9月28日)。
誤字、ルビ、表記ゆれの修正を行いました(2025年3月15日)。




