百三十幕 急行
十月に入っていた。
うだるような暑さが落ち着き、陽の光も弱まっている。
皇甫嵩はようやく軍を冀州に向けた。
八月に卜己の軍を打ち破った皇甫嵩は兗州を平定。後任として豫州刺史に任命された王允と、兗州刺史の橋瑁に諸々の引継ぎを行っていたら時間はあっという間に過ぎ去っていた。
冬の先駆けのような乾いた空気と、そして暖かな陽光が馬に揺られる皇甫嵩を包み込んでいた。
「平和だなぁ」
「義真様。馬の上で寝ると落ちますよ」
ウトウトしながら呟く皇甫嵩に、従者の紀孔が近寄る。揺れていた皇甫嵩の身体を支え一言注意した。
皇甫嵩の麾下には張邈、蓋勲、傅燮、伍瓊、楊密の五人の将がいる。
そんな将たちも、今は皇甫嵩のいる先頭で後ろに続く兵たちを走らせていた。
のんびりとした発言をする皇甫嵩とは裏腹に、皇甫嵩の軍は一路、冀州へと駆けに駆けている。
「いやいや、皇甫将軍。あの状態でなんで寝れるんですかね!?」
冀州にいる敵は黄巾軍の本隊だ。
敵の首魁、張角が指揮をする黄巾軍。
それを一つの城に押し込め、漢軍が包囲をしている状況だ。とはいえ、漢軍の兵力は多くはなく、敵を逃がさないようにするのが精一杯。そんな状況で、他の地で蜂起した黄巾軍とも相対して数か月が経過している。早急な援護が必要だった。
それなのに、皇甫嵩は豫州で無駄に時間をかけた。どこで襲いかかってくるかわからない黄巾兵に対して万全の警戒を布くよう通達するだけでなく、連絡網の構築、各太守や県令との話し合い、民に対する措置、そしてそれらを王允へと引き継ぐ。
そんな細々とした雑務を行っていた。
それよりも、あとのことを王允に任せて早急に冀州に向かうべきではないのか。
そんな疑問が諸将に漂う中、ようやく冀州に向かうことを皇甫嵩が判断したのだ。
出し得る限りの速度で馬を走らせている。そんな状態で寝るなど張邈には自殺行為としか思えない。
「まあ、戦場暮らしが長いとできなくはないな」
対する蓋勲はそれを大したことだとはとらえていない。もっとも、ただ行軍を続けている程度なら寝なければならないというほどでもない。寝れるかもしれないが、寝てはいけない。
行軍の間も斥候は放っている。それらの情報を集め、整理する。
皇甫嵩が今やらなければならないのはそれだ。それを、皇甫嵩はサボっている。しかし。
(任された)
そう感じた。
蓋勲は率先して斥候の情報をまとめ皇甫嵩が起きた時に報告できるように動いていた。
夜になると行軍は止まる。昼夜で走り通すと馬を潰すことになる。それは得策ではない。
皆、焦れる気持ちを押し殺しながら野営の支度をする。
そんな者たちを尻目に、皇甫嵩は鳥の羽を詰めた枕に顔を押し付けて寝転がっていた。
幕営の中というわけでもない。通り過ぎる兵たちが、もはや慣れた顔で皇甫嵩を見下ろしていた。作業の邪魔になってくると皇甫嵩は手で転がして隅の方へと移動させる。
「皇甫将軍。起きてください。明日の予定を確認しましょう」
「んぇ~~~」
「起きてくだ、ちょ、起きて、起き、起きろぉ!!」
張邈が皇甫嵩を起こそうとするが、まったく起きない。結局、張邈が頬を張るまで、皇甫嵩は起きなかった。
「ほっぺ痛い………」
「寝起きをしっかりしてください」
「上官に手を上げるとは何事かぁ」
「ならまずは枕から顔を上げてください」
「や~だ~」
「この人は………っ!」
張邈が頭を抱える。
そこに紀孔が人数分の食事を持って幕営に入ってきた。
幕営の中には皇甫嵩麾下の部隊長と紀孔が揃った。
「ほら、義真様。ご飯は寝転がりながら食べられませんよ」
「はーい」
しぶしぶ起き上がる皇甫嵩に、部隊長たちはため息を吐く。
豫州潁川郡。兗州東郡。
二ヶ所で黄巾軍の将を二人打ち破った皇甫嵩は、それまでの緊迫した空気の反動に襲われているかのように弛緩しきっていた。
誰よりもだらけ、何よりも情けない姿をさらしているこの男こそ、曲者である波才との読み合いに粘り勝ち、異能を操る卜己の指揮を真っ向から打ち破ったのだ。
そんな男を、部隊長たちは尊敬と呆れと期待と失望と親しみと畏怖のこもった複雑な表情で眺めるしかなかった。
「明日には鉅鹿郡に入れます」
紀孔が全員の中心に地図を広げた。
「広宗城までは三日ほどですかね。現在漢軍による包囲が続いています。ただ、安平国、甘陵国の黄巾兵が散発的に攻撃を行ってきています。それに対処しなければならず、兵が足りないそうです」
「そのような状態か。ならば急いだほうがいいか」
紀孔の説明に蓋勲が顔を引きつらせながら言った。
しかし。
「あ~、いいよいいよ」
皇甫嵩が間延びした声で答える。
「今の進軍速度を維持する。十分速いし」
「でも、もう少し速度上げらるっスよね?」
伍瓊が訝し気に皇甫嵩に訊ねる。それを皇甫嵩はまたいつのまにか枕に顔を埋めながら答えた。
「あそこを指揮してる奴ならそのくらい平気。しかも補佐に『先生』の生徒だろ? 過剰戦力だよ。兵だけ置いて俺帰りたいもん」
「? 指揮しているのは盧子幹の教え子である阿璋殿では?」
蓋勲の問いかけに、皇甫嵩は首を振る。
「や。報告にあったろ。鉅鹿太守、郭書記。あいつがいるなら阿障ちゃんは書規の補佐に入るだろ。表向きはともかく実態はそうなるさ」
「郭書規。確か女太守ですよね。皇甫将軍は彼女をご存じなのですか? 軍を率いたというような話を聞いたことはないのですが。優秀な指揮官ということですか?」
楊密の言葉に、皇甫嵩はいい加減面倒そうに顔をしかめた。
「あいつは太学の同級生だ。俺や紀孔、公偉と同じ師を仰いだ。講義室の中でも俺とはしょっちゅう仮想戦をやってたんだ。あいつは今回が初陣のはずだが、軍団指揮ってことなら公偉にも負けんさ」
そう言った皇甫嵩の表情には、確かな信頼が乗っている。その事実に、その場にいた部隊長たちは驚いた。
皇甫嵩はうまく人を使う指揮官だ。しかしその実、本当の切所になると人に任せながらも心配そうな顔をする。保険を置いて、少しでも任せた人間が無事に戻る確率を上げようとする。
そんな皇甫嵩が、まったく手を打てていなかった冀州という戦場で戦う味方を、物憂げな表情一つ見せずに語ったのだ。
本人が『信頼している』という認識も出ないほどの無意識の信頼を感じられた。
そして唯一、紀孔だけが不機嫌な空気を醸し出しているのに、その場の誰もが気づかない。
(相変わらず、義真くんは書規ちゃんの評価高いなぁ。まあ、でも確かに久しぶりだしなぁ。元気かなぁ、書規ちゃん)
この暢気さが、未だに皇甫嵩と進展しない所以なのだと、彼女はまだ気づいていなかった。
食事をしながら情報を再確認した部隊長たちは、行軍の予定を確認し、それぞれの幕営に戻っていった。
それを見送って、皇甫嵩は紀孔を連れて捕虜を捕らえている幕営に入った。
「よお。調子はどうだ」
幕営の中には両手を縛られた卜己がいた。
「殺せ」
「いや、何度も言うけど殺さねえって」
皇甫嵩は呆れたようにそう返す。卜己の前に背中を向けて腰を下ろした。
紀孔は用意してあったお湯に布をつけ、紀孔の服を脱がし体を拭く。
「捕虜の待遇としては破格だと思うんだけどなぁ。そろそろ恩を感じてはくれませんかねぇ」
「………………」
「俺は無駄な戦いをしたくないだけなんだ。張角。張梁。広宗城に籠っているこいつらを降伏させてくれ。張角は難しいかもしれんが、張梁は死罪を免除できるかもしれん。張角と張梁の降伏、張宝の行方。どうにか吐いて欲しいんだけども」
後ろを向きながらそう言ってくる皇甫嵩を、卜己はじっと見る。
(銭力8000。さすがは討伐軍を率いる将軍。私の世話をしているこの女も3000。対する張梁様は今どれだけ銭力が残っているか。どちらにせよ無理な相談だ。張角様は死んだ。降伏はできない。張宝様はどこにいるのやら。当初の取り決め通り下曲陽に向かったのか、そうでないのか。情報はない)
卜己は薄く笑う。
「無理だな。三つのうち二つは達成不可能だ。やはり殺せ」
「ほーん。ちなみに達成ができそうなものってどれよ」
皇甫嵩が面白そうに言う。
そこで紀孔が卜己の体を拭き終わった。
服を着せてから皇甫嵩に声をかける。
「義真様。もうこっちを向いても大丈夫ですよ」
「うい」
皇甫嵩は卜己の目を覗き込む。
「で、どれ?」
「………………。張角様はもうお亡くなりになりました」
「――――――げぇ」
皇甫嵩の表情が歪んだ。
「てことは、今鉅鹿の指揮を執ってるのは張梁ってことか。めんどくせえなぁ。………おい。このままだと民衆にも大きな被害が出るそれでもいいってのか?」
「そうね。残念なことね。けれど、私は個人的な理由でこの乱に参加したわ。犠牲になる民たちにも、思うところはないわね」
真っ向から、皇甫嵩の目を見て答える卜己に、皇甫嵩は項垂れる。
卜己を引き込むことは難しそうだった。
「捕虜である私に対して寛大な扱いをしてくれた。これはその感謝の証。けれど、私にできるのはここまでよ。これ以上の情報はないも同然なの。私の価値は消えたわ。それとも、解放してくれるのかしら?」
「………………。ふむ。じゃあ、解放してやろうか」
「―――――――――は?」
とんでもないことを言い出した皇甫嵩に、卜己だけでなく、紀孔も眼を剥く。
そんな二人を見て、皇甫嵩はわずかに笑った。
「もちろん、条件がある。張梁との会談の場。それを設けてくれるなら、卜己。お前を解放しよう」
紀孔は皇甫嵩の突然の提案に動揺しながら、頭を片手で抑えた。
―――ああ、また、何か変なことをやりだしたぞ。と。
さて、広宗城の戦い編、開始でございます。
章番号修正(2024年9月28日)。
誤字、ルビ、表記ゆれの修正を行いました(2025年3月13日)。




