百七幕 今昔天物語
張衡たちが出合った張輔漢という男。
名を陵といった。
張陵は三人を豫州の梁国蒙県にある自身の家まで案内した。
「お父様。お帰りなさいませ」
そんな四人を十代も半ばの少女が出迎えた。
「ムー。久方ぶりだ。なかなか帰ってやれなくて済まなかった」
「いえいえ! お父様こそ、太学での学問お疲れ様でした。………………ところでこうして帰ってきたというのはどういうことですか? 確かお父様、洛陽で官職に就くと言っていませんでしたか?」
「あ、あー、いや、実はな。向こうで官職に就くのはやめたんだ」
「やめた!?」
「そうなんだよ実は。やっぱ薬師を続けるかってな」
「呆れました。お父様は本当に仕方ないですね。でも、お久しぶりに会えて、ムーも嬉しいです。………そちらはお客様ですか? 申し訳ありません、私ったら。こんな玄関先で」
「あ、いえ、こちらこそ。突然お邪魔してしまい申し訳ありません」
少女が慌てたように張衡たちに言ってくるが、張衡はその恐縮を手で制した。
「ムー。こちらの方たちは張衡殿と馬優殿、そして彼女は張衡殿の妹の張玉殿だ。張衡殿。これは俺の娘で張夢という。ムー。この三人をしばらくうちに住まわせようと思う」
「張夢さん。よろしくお願いいたします」
「は、はい、どうも」
張衡に微笑みかけられた張夢が頬をサッと朱に染める。
その光景に張玉はムッとした表情をし、馬優は幼馴染の如才のなさに舌を巻いていた。
そして三年の月日が経った。
降ってわいたような幸せで穏やかな時間。
ずっと貧民区で暮らしていた三人にとって、目がくらむような生活が始まった。
張衡と馬優は二十二となり、張玉も二十歳になった。
張夢にとっても夢のような時間だった。
父である張陵が洛陽に発ってしまったのは張夢が十歳の頃だった。張夢の母は張夢が幼い頃に死んでしまっており、残された張夢は、広い家に一人ぼっちとなった。
もちろん、店の管理は他の人間がやっていた。調合に、接客にと、常に家の中には人がいた。恐らく、父が従業員たちに言ったのだろう。驚くほど、一人きりになることはなかった。それでも、この家の中、自分が一人ぼっちなのだと感じた。
そうやって孤独に沈んでいた少女はお祭り騒ぎのような日々にあっという間に笑顔になった。
年の近い、同性の友人というものが初めてできた。
今まで知りもしなかった悪いことを教えてくれる癖の強い兄貴分も初めてできた。
そして。
視界に入るだけで胸が高鳴り、顔が火照り、それでもそばにいたいと、その人が見ている世界を自分も一緒に見たいと、そう思える人も、初めてできた。
張衡は三年間の間、張陵に従って精力的に薬学を学び、張玉は張陵が持っていた書物を読み漁った。特に軍学書を好んでいた。
馬優は張陵の家を拠点としながらも、頻繁にその姿を消した。
帰ってくるたびに様々な土産物を持って帰り、張夢を喜ばせたが、何をしているのかは決して話すことはなかった。
そうして時間が過ぎていった。
三年が経ったある日。
その日は馬優もどこからか帰ってきており、食卓が一人分、賑やかになった。
張夢はその空気に心を弾ませながら、夕餉の支度を終わらせると、食卓に着く。それを見計らったかのように、張陵が口を開いた。
「ムー。引っ越しをしようと思う」
「お、お引っ越し、ですか? お店はどうするのですか?」
「この店のことは弟子に任せようと思う」
「お弟子さん………」
そう聞いて、張夢は張衡の顔を窺った。そんな娘のわかりやすすぎる態度に張陵は苦笑する。
「張衡は私たちと一緒に引っ越し先だ。張玉もな」
「お世話になります」
張陵の言葉を受けて、張衡が会釈する。それを見て、張夢が顔を綻ばせた。
「オセワニナリマス」
張玉はそんな張夢を見て苛立ちを募らせている。
「さて」
張陵は話を続ける。
「行先は益州蜀郡の成都県だ」
「え、益州!? それはまた、随分と遠方への引っ越しですね」
「ああ。長旅で苦労を掛けるが耐えてほしい。すでに住む家の用意はある。そうだね、馬優」
「はい。遺漏なく」
「ありがとう。それから、ムー。馬優はこっちに残ることになった。馬優とはここで別れる」
「え!?」
張陵の言葉に、張夢が思わず立ち上がる。
「ば、馬優さん。一緒に行かないんですか!? な、なんで………」
「あー、すまんね。ちょーいとこっちでやることがあるんだ。俺もできるなら一緒に行きたいんだけどさ」
「やること?」
「そうそう。ほら、前話したことがあったろ? 引き取った子供がいるって。そいつらほっとくわけにもいかないからよ。ま、また顔出すからさ」
「そう、ですか………」
まなじりを下げつつも、張夢はなんとか納得した様だった。それを見て張陵は話をまとめる。
「そういう訳だからムー。引っ越しの支度を手伝ってほしい。来月には出発するつもりだ」
「わかりました」
こうして、馬優を除いた四人は、翌月、益州へと向かうことになった。
益州は国の最西に位置しており、州境は深い山が横たわっている。そのため、交通の便は悪い。
ほとんど隔絶されてしまっている土地だ。
蜀郡はそんな益州の中でも北西に位置する場所で、四人が向かっている成都県が郡治である。
なぜ、そんなところに向かうのか。
それを張夢は知る由もなかった。
半年後。
益州で一つの宗教団体が作り上げられた。
信者に五斗(約20ℓ)の米を寄進させるというところから『五斗米道』という名で呼ばれた。信徒の病を呪術によって治し、流民には食料を施し、悪事を行ったものは三度まで許されるという独自の法を制定した。四度罪を犯した者は道路工事などの軽い労役刑につかされ、許される。
こういった所が人気となり、州内でも多くの人間が入信した。
中でも、五斗米道の本拠地にほど近い成都県の人間は入信していない者がいないほどの普及率であった。
鶴鳴山という山が拠点となっており、山の頂には祭壇が置かれている。これは病の治療の呪いをする際に必要となるものだ。
病は神が人に与える罰であるので、病を治したければ直筆の祈祷文を神に捧げ快癒を祈るのだ。
三通の祈祷文を用意し、一通は山頂の祭壇において山の神に。一通は山の泉に沈めて水の神に。最後の一通は土の中に埋めて地の神に捧げる。
手順としてはそれだけだ。祈祷文には自分が犯した罪と自戒を書き込み、個室に閉じこもって懺悔を行う。そして最後に祈祷文をそれぞれの神に捧げる。
簡単でわかりやすく、市井にもすぐに浸透していった。
「………………………………」
張夢は呆然としていた。
どうにも現実味がない。
夢を見ているみたいだ。
「奥方様。こちらをどうぞ」
「こちらは紅です」
「こちらは上物の絹ですよ、奥方様」
「――――――ありがとう」
捧げもののように渡される様々な品物に、張夢はなんとか笑顔を作って礼を言うことができた。
人の波が途切れ、室内に静寂が満ちると、ようやく張夢は一息つくことができた。
へろへろと床にへたり込みぐったりと脱力する。
半年前。
張夢にとって驚くべきことが二つも起きたのだ。
一つは張衡との祝言だ。
張陵から勧められる形で二人は祝言を上げた。
とはいっても、張夢にとって張衡はずっと憧れていた人間だ。それはもう、夢のような心地だった。
………………張玉からは『泥棒猫』と呼ばれるようになってしまったけれど。
驚天動地のようなできごとだったけれど、しかし、張夢は幸せだった。
問題なのはもう一つのできごとだ。
張陵が『五斗米道』という宗教組織を打ち立て、しかもそれが、大流行していることだった。
張陵の義理の息子ということで張衡も五斗米道の幹部として動き始めた。半年で成都県の人間はみな信者になったというほどの勢いのある組織らしい。
張衡の下につく職員も増え、妻である張夢の元にも先ほどのようにご機嫌うかがいとして貢物を持ってくる人間が増えた。
しかし、驚くべきことで、混乱し困惑し、困ってしまってはいるが、それでも、張夢は幸せだった。
初めて会った時から憧れていた男の妻となることが、できたのだから。
「順調ね、お兄様」
「そうだね」
「組織運営とか向いてるんだろうな、お前さんは」
張衡と張玉、そして張陵が座って話していた。
「実際に病が治れば呪いの信憑性が増しますからね」
「実際は信者さんと会った時にこっそり問診して、症状の改善に有効な薬をお茶に混ぜて出してるだけだものね」
「いやあ。気づかれないものだな。定期的に服用させなくちゃならんものも薬を溶かした水を神水として渡せばいいだけだしな。まさかこんな薬の売り方があったとは」
………………。
そういうことである。
張衡は張陵の薬を使って病の治療を主目的とした宗教組織の設立を企画したのだ。
「信者が増えすぎてて統制が取れなくなってきてるから、組織体制を少し見直したいわね」
「最近じゃあ、ムーの方にも顔を出してる信者がいるらしいぜ。そっちもどうにかしないと」
「そうだね。それなら、階級を何か作ろうか。義父上の方の案件は何人か見繕って警護の人間を作りましょう。その内、県内を取り締まれる自治組織も作りたいですね」
そして二年後。
本当に五斗米道は自治組織と統率された階級制度を作り出すことに成功した。
益州は実験場だった。
張衡と、張玉の。
張陵はそれを支援しているだけに過ぎない。
宗教によって、人を支配することはあたうるのか。
兵を作り出すほどの支配を生むことはできるのか。
偽物の呪いでどれだけの人が信者となるのか。
太平道が生まれる少し前。
張角となる前の男、張衡は、太平道を生み出すための予行練習を行っていた。
そして、十年後。
張衡は愛する妻と、子供たちを争いのない益州の地に残し、大乱を引き起こすために山を越えた。
残された五斗米道は張陵が教祖として君臨を続け、一二三歳で死ぬと、後を孫である張魯が継いだ。姉の張魯が組織管理を、弟の張衛が軍事を管理したという。張夢は薬師の娘であるが故か、それとも体質なのか、神仙に至ってしまったのか。死ぬその時まで決して若さを失うことがなく、夫が作り上げた五斗米道を護ることに生涯を使った。
そして、張衡が作り、家族が受け継いだ五斗米道は、戦乱を乗り越えることに成功し、『正一経』と名前を変えて二〇二〇年の現在に至るまでなお残っている。
というわけで!
第三集の零幕で唐突に思いついた黄巾軍の結成秘話がこちらでございました。
ちょっとした小ネタ的な新説要素ですね。
おまけ的なサムシングですね☆
章番号修正(2024年9月28日)。
誤字、ルビ、表記ゆれの修正を行いました(2025年2月4日)。




