百三幕 今昔犬物語
漢という国で、特異な扱いを受けている地が二つある。そのどちらもに共通するのは、国内にあるというのに、扱いが異国である、という点だ。
南の最果て、交州。
西の僻地、益州。
二つの地は、それぞれそう呼ばれていた。
交州が異国扱いされるのは、単純に、首都である洛陽から遙か遠くに位置しているのが理由だ。
当時の交州は現在のベトナムに入り込んでおり、風土的に見ても十分以上に異国だった。ベトナム史で見る第二次北属期のことである。
前漢の時代。武帝が国土を広げるために遠征を行い、当時南にあった南越国が攻め滅ぼされた。元鼎六年(紀元前一一一年)のことである。この時からこの地を交州と呼ぶようになっている。
後漢の時代になり、一度支配体制が崩れたが、すぐに持ち直した。それを境に、ベトナム史では第二次北属期と呼ぶ時期になったのだ。
そんな交州に赴任することになった者は、ほとんど左遷と同義だ。
面倒な中央から離れられることに喜ぶ者、出世の道が完全に閉ざされ絶望する者。
悲喜こもごも、様々な感情が入り乱れる土地なのだ。
そして。
もう一つ。
西の僻地、益州。
益州が異国扱いされるのは単純なその立地による。
益州は四方をぐるりと山脈に囲まれた地である。
要所要所に山を通り抜けられる桟道が配置されてはいるものの、交通に不便であることは疑いようがない。
自然と人の出入りが減っていき、漢という一つの国の中にいながら、独立した国家のようなものとなっていた。
今回の物語は、そんな益州に生まれた、一人の女を中心とした物語である。
益州漢中郡安陽県。
漢中郡は、益州と司州の出入り口にある郡で、安陽県は司州との要衝として成立した県である。
女は、そんな安陽県のとある豪族の家に生まれた。
礼儀作法を学び、淑やかさを作り上げる。
この時代、儚げな女性ほど美しいと言われていた。
儚さは作る物だ。
食事を細くし、常に顔色が悪くなるようにしておく。
幼い頃から小さい靴を履き、足の成長を阻害する。
常に足が締め付けられることで足の感覚が鈍り、歩くときによろよろと動くことになる。それがさらに儚く見えるのだそうだ。
わけがわからない。
それでも、それが男受けするのだ。淑女なのだ。
もちろん、地方ではそんなことをやってるような者はいない。田舎という場所で、中央と同じようなことをやっても奇異な目で見られるだけだ。
しかし、女の父は憧れた。
そもそも、安陽県は古都・長安県に通じる要衝の地ということで、多くの人々が行き交う。益州という僻地にもかかわらず、中央を良く知る商人たちと知り合いになったのが原因だ。益州という陸の孤島で生まれ育ったにもかかわらず、中央にかぶれた男。
それが、女の父、平京、字を雅豊という男の、困った性質だった。
平京の娘である平理は、そんな平京の被害者と言ってもいい。しかし、平理自身はそんな困った父親を疎んじることなく接していた。
そのように育てられたから、というのももちろんある。
体に苦痛を与えることも、物心がついた時からずっと続けているのなら、それを特別辛いことだと思うことはなかった。
自分が普通と違う、というのはもちろん理解している。
周りの家の子女たちと顔を合わせると、たいてい困惑したように平理がずれているということを遠慮がちに教えてくるのだ。平理からしたら耳にタコだった。
そもそも、益州という田舎において、健康的な女性が好まれるのだとしても、関係が無い。それでは、益州というド田舎の男しか捕まえることはできない。平理はそんなところで満足したくなかった。
中央の男に嫁ぐ。それには、儚げな方がいいのだ。
煌びやかな意匠を施した飾り帯も、鼈甲と宝石がふんだんにあしらわれた簪も。
美味しい食事も、書物も、人のひとりひとりに至るまで、こんな辺境とでは比べるべくもないほど洗練されている。
それは、屋敷に招かれた商人たちの言葉の端々からも伝わってくる。
そんな輝きに、憧れるのは、少女として当然のことといえた。
中央にかぶれている父の思惑とも合致する。
十四の少女は、目をぎらつかせながら、安陽県に、中央から独身男性が派遣されるのをただひたすらに待っていた。
潘周。字を回央。
長安の近くにある村で生まれ育った。
親孝行をよくするということで評判になり、長安の県令から孝廉に推挙された。
洛陽で郎官の職務を全うし、いざ赴任という段になって、出身が長安であることを考慮され、安陽県の県令として任命された。
運にも恵まれた、間違いなく望外の出世だった。
しかし、潘周の表情は暗い。
彼はまったくといっていいほど、自身の境遇を恵まれている、とは感じていなかったのだ。
(ああ。ああ! ああああああ!! こここ、こんな辺境の県令を普通若造に任せるのかね!? そそそ、それが普通なのか!? ししし、しかも要地だぞ、ここは!! そそそ、それを若造に任せるとか、おおお、終わってる! 漢終わってる!!)
彼には、自信というものが、ない。
孝廉に選ばれたのも何かの間違いだと思った。何度も確認した。しかし、そうやって何度も確認する姿が、謙虚であると映ったそうだ。意味がわからない。
当然、断った。何度も、断った。
しかし、長安の県令は、潘周の言葉を黙殺した。
ほとんど強制で、潘周は洛陽にまで出向かなければならなかったのだ。
突出するということは、目立つということで、目立つということは、周りから関心をもたれるということで、関心をもたれるということは、自身の把握している以上の人間から常に見られているということで、人から見られるということは、人から何かしらの感情を向けられるということだ。
自分が把握できる範囲であっても、人の心の中はわからない。誰が、自分に対し怒り、妬み、邪魔に思い、殺意をもつかわからないのだ。
だからこそ、潘周は付き合いを最低限にし、反感をもたれないように生きてきた。
人付き合いをまったくしないと、それはそれで余計な考えを持つ人間が絶対にいる。
適度に付き合い、適度に離れる。そうやって生きてきた。
失策だったのは、適度に離れる際に親を言い訳に使ったことだった。
潘周は親が老齢だったことをこれ幸いに、父母を長い間、自分の目の無い状態にしておけない、と言って人の誘いをよく断っていたのだ。
それが周囲からは、何よりも父母を大切にする人間だと、そう映ってしまっていた。
孝廉に推挙された日、初めてそれを知った潘周は、涙を流した。
こんなはずではなかった。
もっと考えればわかっても良さそうなことだった。それを察することができない自分は、なんと愚かで、なんと無能なのだろう。
一切の誇張なく、潘周は枕を涙で濡らした。
そして次の日、洛陽へと向かった。
洛陽でも、どうにかして他人から余計な感情を向けられないように、そのことだけを念頭に動いた。
悲しいかな、無能で非才な潘周は、以前と同じやり方をすることしかできなかった。そして、それがまた、洛陽ではウケた。ウケてしまった。
評価が自身のあずかり知らぬところで高騰し、気づけば、郎官上がりでいきなり県令になるという大出世をぶちかましていた。
当然のことながら、周囲からは羨まれ、目の敵にされた。
県令として挨拶をした日も、周りの配下たちの目に宿るのは、敵愾心と嫉妬と、蔑みの炎だった。
当然だ。誰がどう考えても、賄賂でもってこの職に就いたとしか思えない。
(なら譲る! 俺の代わりに、誰かやってくれ!! 俺は下級役人ですら荷が重い! 家に帰りたいんだ!! 畑を耕し、細々と、天から定められた寿命を生きていたいんだ!!)
そう泣き叫ぶ潘周の心中は、決して誰にも理解されることはなった。
平理は、身が震える思いだった。
目の前には、平理が求めてやまなかった、年若い県令様がいた。
潘回央という男だ。
興奮を必死に押し隠しながら給仕をした。
彼は県令として各豪族にあいさつ回りをしに来た。
もちろん最初は父である平京が県城に挨拶に登った。
その後、平京は県令を家に招いた。
最初は平理も、そこまで父が人を気に入るとは珍しいこともある物だ、と疑問に感じたが、父からされた紹介を聞いて、なるほど、と納得した。
長安からの来訪者。
年若い県令。
父と平理。二人の理想を兼ね備えたような男が、そこにはいたのだ。
『(何としてもこの男をモノに!!)』
親子の望みは完全に一致した。
ぎらぎらぎらぎらとした視線を向けられ、潘周は訳もわからずに身震いをした。
無難に終わらせたはずの会食を終わらせ、家に戻って一息を吐いた潘周は、ようやくひと心地がついた思いがした。
安陽県の県城に入り、県令に用意されていた邸宅に腰を落ち着けた。
城内にある専用の邸宅に入ると、使用人たちが一斉に頭を下げる。
これも最初は面食らった。
潘周が安陽県に入り、案内されるがままに邸宅に足を向けた。今まで住んだこともないような大きな屋敷に口を開けていると、屋敷の中には既に使用人たちが動き回っていた。
それから一週間。
未だに慣れることができない。
「お食事になさいますか? お湯も沸かしてありますよ」
侍女長がそう言ってくる。
邸宅内には風呂が作られており、湯を帰宅に合わせて湧かせておいてくれる。
上級の役人から下級の役人に至るまで、城に務めている人間は全員が城内の宿舎で暮らす。城下にある自宅へ帰れるのは、五日に一度の洗沐日という日だけだった。
儒教の影響で髪を切る習慣の無かったこの時代、城勤めをするような教養のある人間であればあるほど、髪は長く伸ばされていた。一度風呂に入り、髪を洗うと、乾くのに一日はかかってしまう。そのため、休日として五日に一度、家に帰り、身だしなみを整えるのだ。家族と接するのもその日だけである。
妻帯していない潘周にとっては関係のないことだった。しかし、洗沐をするのに、家に帰らなければならない。そう思っていた潘周は、城内に建てられた県令用の邸宅に絶句したのだ。
城下の住まいに帰る必要が無い。
他の役人たちの宿舎とは離れており、完全に個室、というかもはや別荘だった。初日など、自分の割り当てられた部屋を探していて笑われてしまったほどだ。
地方とはいえ、一つの県の長。
このような特例はもはや当たり前で、少しも疑問に感じていないようだった。
それならば、と潘周もその当たり前を享受しようとはしているのだが、いかんせん、すわりが悪い。分不相応なもてなしに、困惑しながらも必死に慣れようとしていた。
平家から縁談が持ち上がったのは、そうして四苦八苦と必死に慣れようとしている潘周が、悪戦苦闘を始めて二週間が経ってからのことだった。
縁談が持ち上がり、そしてすぐに決まった。
県令として、当地の豪族と無用に揉めても仕方がない。それよりも、後ろ盾ができるのだから得しかない。
絶対に断られることはない。
そう確信していた平理は、しかし、うまく決まったことを知ると大きく息を吐いた。
「これでご安心なされましたね、お嬢様」
そう、侍女から言われて、平理は今の息が安堵のため息だったのだと気づいた。
平理は十五になっている。
結婚する身としてはちょうどいい時期だ。
妻となるに相応しい心得も授けられている。
それでも、ほ、と安堵した。
そして、目をぎらつかせた。
様々な礼法、作法。学びに学んだそれらを、ようやく生かすことができる。そのことに、平理はにやりと、口元を歪める。その様は、自身の技量を思う様に試そうという、挑戦者の様だった。
それからは大変だった。
婚儀の支度や、その際に執り行われる儀礼の確認。吉日の調整。
そういった出来事が流れるように過ぎていった。
そうしてひと月が経った頃の吉日。
平理は無事に、潘周の元へ嫁ぐことができた。
「これから幾久しく、よろしくお願いいたします、シュウ様」
「あああ、ああ。わわわ、わかった」
平理の挨拶に、潘周はどもりながら答える。
次の日、平理はいつもの時間に目を覚ました。
「………………あれ?」
平理はキョロ、と周りを見渡し、すぐ隣で潘周が寝ているのを確認した。そして起こさないように床几を抜け出し、静かに部屋の戸を開ける。
まだ外は薄暗い。こんな時間に起きれたのは、ひとえに普段の習慣のおかげだ。そうでなかったら決して起きることはできなかっただろう。
下腹部に異物感を感じ、歩き辛さを覚える。
注意して歩かないと、生傷を作ったばかりの下半身がつきつきと痛んだ。
それを無視しようとして、
「~~~~~~~~~~~~」
無理だった。
声にならない叫びを上げ、廊下にしゃがみ込む。
昨夜、平理の挨拶にどもりながら答えた潘周を見て、平理は少し情けなく思った。
そして、自分が夫を支えていかねばならないと、そう思ったのだ。
しかし。
(あんな、あんな! あんな!?)
昨晩、初夜を迎えた平理は、完全に潘周に翻弄された。
まるで、平理の心を見透かすかのように、潘周の攻めは平理の弱い所を的確に刺激し、逆らう余裕すら浮かばぬままにあっという間に絶頂へと導かれた。
それも、一度や二度ではない。
遂に、平理が泣いて懇願するまでその攻めは続いた。………というより、泣いて懇願しても、潘周はその指や舌を休めることはなかった。
―――自分はこのまま壊されてしまう。
冗談ではなく、本当にそう思った。
そうして、自分が壊されていく恐怖を感じているのに、それがどこか温かく感じた。
そして潘周はようやく―――平理には永遠とも思えるような時間を経て、挿入を始めた。
しかし、その時の感覚を、平理は覚えていない。
一生に一度の破瓜の感覚を、めちゃくちゃ怖いけど覚悟を決めて、臨んだ初めての閨で、それまで散々解された体が、潘周を迎え入れた瞬間、何度目かわからない絶頂を迎えた。
「おあああああああああ………………」
両手で顔を覆ってうめく。
貞淑さの欠片もない、絶望的な初体験だった。
最後の方はもう自分でも覚えていない。
何が何やら、最早理解もできず、ただただ、体がバラバラになりそうな快楽と、平理を安心させるように唇を重ねてくれた潘周の目だけを覚えていた。
「………………シュウ様」
名前を呟くと、ただそれだけで胸が高鳴り、顔が熱くなる。その顔のほてりを抑えるため、平理は洗面所に向かって足を速めた。
朝、目を覚まして隣を見ると、妻となった少女はすでに姿を消していた。
果たして、彼女は満足できたのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら潘周は着物に袖を通した。
どうしてこんなことになっているのか、まったくわからない。
あれよあれよという間に婚姻が決まり、婚儀が進み、気づけば妻ができていた。
自分には無縁だと思っていた所帯ができてしまった。
しかし、嬉しいとは思えない。
ただただ、怖い。
なぜ自分が。
突然持ち込まれた縁談に、素直に喜ぶことができないでいた。
見知らぬ人間から縁談を持ち掛けられるなど、ただの恐怖だ。しかも、断れるのならばまだしも、相手は当地の豪族。下手に断って変に拗れたら面倒なことになる。潘周には、受けるしか選択が無かったのだ。
脅迫されて決行した婚姻のようなものだ。
潘周は、全力で妻に尽くすことしかできなかった。
「お、おはようございます、シュウ様」
「おおお、おはよう」
妻が朝餉の用意ができたと呼びに来た。それに応えると潘周も食卓に向かう。
妻はすでに済ませており、潘周に向かい合って卓についている。
すこぶる美人だ。
そして可愛らしい。
しかし、その瞳の奥に、何かを狙っているような色があった。だから余計に怖かったのだ。
そんな目も、今はその色が失せている。
その原因は理解ができないが、それでも潘周は、ホッと一息を吐くと食事を始めた。
一般的な官僚や兵たちは五日に一度しか家に帰らないという。
洗沐日に家に帰り、そして妻と交わる。
女にしても、男と情を交わすのは美容にも健康にも良いとされており、夫婦ならば五日に一度は男女の営みを行うように、とされていた。
しかし。
潘周は、城内にある邸宅で暮らしており、他の官僚や兵たちと違って彼の個人的な空間が確保されている。
なので、通常は許されていないが、妻が城内の邸宅に居ついていても黙認されていた。
それどころか、新婚なのだから、と気を利かせていた節もある。
結論としてどうなるかというと、平理は毎日のように潘周に抱かれていた。
一般的に、女は主人の子を身籠り、育て、家名を繁栄させることに尽力することを誇りとする。夫婦との間に生まれる感情は、夫から妻、妻から夫、どちらもが親愛の情で繋がることが多い。親しみ、愛着を覚えていく。
愛の無い結婚、などと言われることもあるが、それは正確ではない。
愛とは育んでいくもので、長く時を過ごすうえで降り積もっていくものなのだ。
正確に言うならば、恋の無い結婚。
この時代、恋をすること自体はあっても、それがそのまま結婚に繋がることは少なかった。庶民ではよくあることなのだが、家が大きくなるにつれ、恋よりも先に愛を知ることの方が多かった。
しかし。
その点、平理は幸運だった。
愛を育む前に、平理は潘周に恋をした。
体を落とされ、心を落とされた。
終業後に庭で散歩をしたりもした。
月夜に一緒に寄り添いながら杯を傾ける潘周を見つめたりもした。
不意に手が触れ合うと、どきりと胸が跳ねた。それ以上に激しいことをしているではないか、と自分を落ち着けようとして逆に真っ赤になってしまったこともある。
いついかなる時も、そばにいたいと思うようになった。
潘周が仕事に出ている時などは、会いたくて、会いたくて、震えた。
潘周が仕事から帰ってきて、目が合うと、心が満たされたようになり、自然と笑顔になった。
食事をし、湯浴みを済ませると、期待で胸がはちきれそうになった。
毎日しているのに、それでも、もっと、と繋がりを求めてしまう。
そんな自分を、はしたない、と必死で押さえつけ、そして、潘周から手を伸ばされるのをじっと待つ。
いざ、快感の濁流に投げ出されると、流されていってしまわないように、必死になって潘周にしがみつくことしかできない。体がバラバラになり、また繋がり、引き千切られて、感覚が戻り、満たされるような充足感を感じ、ぽっかりと穴が開いたようなもどかしさを覚える。
そして、自分の体の中を、そして外を、触れられ、撫でられる度に、体が快感を求めて疼き、それと同時に潘周に対する愛おしさがこみ上げてくる。
潘周から与えられる快感が、そのまま彼からの愛のように思え、自分も愛を返すように懸命に潘周を愛撫する。
ひと月もする頃には、自分が何のために潘周と結婚したのかなど、忘却の彼方だった。
ただ、嬉しく、ただ、幸せだった。
………機嫌は、悪くないように思う。
妻となった少女は、上機嫌で潘周の回りをうろつくようになった。
潘周には、少女が、いったいどこが嬉しいのかわからない。しかし、どうも、共に時間を過ごすことが彼女は嬉しいようだった。
それならば、なるべく希望通りにしてやるべきだ。
それで満足をして、彼女の父に夫婦仲が円満だと報告が行くのならば、それに越したことはない。
自分が仕事に行っている間、彼女がどのように過ごしているかはわからない。
もちろん、本人は良く潘周が留守の間に何をしていた、あれをしていた、と報告してくる。しかし、それが真実であるという保証はどこにもない。仮に真実だったとしても、今のところ潘周に満足しているだけであって、これから先、何が起こるかわからない。
とにかく、人に向けられる感情というものが怖かった。身近にいる人間の存在が怖かった。人の視線が怖かった。人の評価が怖かった。
だから、潘周にとっては、地獄のような日々だった。
繋がりが増えるというのは、恐怖が増えるということだ。
繋がりが強くなるということは、恐怖が濃くなるということだ。
濃厚な恐怖が、どんどんと増えていく。そんな事実に、心が押しつぶされていった。
「………………」
平理は気づいたことがある。
潘周はとても人をよく見ている。
その人がしてほしいこと。その人が思っていることを察する力が高い。
最初は単純に自分に対してだけなのかと思った。
自分を特別扱いしてくれているのだ、と。
しかし、それが違うということは、皮肉なことに、恋する彼女の観察眼によって暴かれた。
潘周は誰に対しても気を遣う。
どこか、怯えるような表情で気を遣う。
情事の際に必死に気張って潘周の表情を見てみると、やはり、どこか怯えたようにこちらの顔色を窺っているのが見えた。
「………………」
その表情が、平理の胸を刺す。
だから、ある日、ぽつりとこぼしてしまった。
少し体調が悪い日が続き、潘周と繋がらずに、それでも、同じ寝室で眠りたいと訴え、それが叶った時に、緩んだ気の中で、ぽつりと、呟いてしまったのだ。
「………シュウ様は、何を、怯えていらっしゃいますか?」
明りを消してしばらく経ってからのことだった。
もう眠ってしまっているかもしれない。
返事がないことに、平理は、そう諦めたように思った。
「ととと、突然、けけけ、結婚を申付けられたんだ。ししし、しかも、ごごご、豪族の娘。こここ、断れると? ななな、何が目的か、ままま、まったくわからない。おおお、恐ろしくないわけが、ななな、ないだろう!?」
しかし、返事はあった。
そして、その内容は、平理が予想だにしないことだった。
「ずっと? そんなことを? このふた月の間ですか?」
「あああ、当たり前だ! ななな、何が望みかわからない人間ほど、おおお、恐ろしいものはない!! だから、おおお、俺は、ひひひ、必死に恨まれないように、ややや、やっていたんだ!!」
ついに自分が断罪される時が来たのだろうか、と勘違いし、自暴自棄になった潘周が、そう叫ぶ。
それを受けて、平理は、なるほど、と頷く。
もし、自分が潘周の立場だったとしたら、きっと潘周のように振る舞うことすらできなかったかもしれない。
自室に引きこもり、周り全てを敵視して、その結果、本当に周り全てが敵になってしまっていただろう。
けれど、潘周は、せめて良き夫、良き主人、良き女婿、良き県令として動こうとした。
その結果が現在だ。
潘周のどもり癖はよく上げられるが、それでも、それ以外は素晴らしい主人だと、素晴らしい女婿だと、素晴らしい県令だと、そう噂されている。それが平理には誇らしかった。
「そうでしたか」
そんな潘周の、闇ともいえる一面に触れて、平理は、少し、誇らしかった。
このような潘周を見て、一瞬、自分を疑った。
このような情けない男を見限るのではないか、と。
少なくとも以前までの自分なら、一番嫌いな男性として自信の無い男を上げただろう。
しかし、今の平理は違う。
そこまで自信が無いのなら、自分を信じてあげられないのなら、誰よりもまず、自分が潘周を信じてあげよう。
一瞬の葛藤すらせずに、そう思うことができた。
それが誇らしかった。
「でしたら、………その、………………は、話さねば、な、な、なりません、ことが、あり、ます」
自分の恥。
それを苦渋の表情で、打ち明ける覚悟を決めた。
潘周が訝しげに眉をしかめる中、平理は瞳に涙を浮かべながら、自分の浅ましい胸の内の想いを、吐き出した。
「私は、そして父は、中央に憧れていました。そして、中央との繋がりをもちたいと、考えていました。そして、ついにその機会を得ました。それが、あなたとの婚姻だったのです。私たちは、その浅ましさでもって、あなたとの婚姻を結びました。………………ですが! ですが、誤解をなさらないでください。私は、あなたに恋をしております。最初は打算でしたが、今ではしっかりと愛情をもっていると、誓うことができます。ですから、どうか私を見限らないでほしいのです。どうか! どうかお願いします。そして、どうか、私を、あなたの味方でいさせてほしいのです。恥知らずな願いを抱く私を、お許しください」
そう言って、手を合わせて、平理は潘周を拝んできた。
その言葉に、潘周は目を見開いた。そのような言葉を言われたのは初めてだった。
ここまで自分をさらけ出したにもかかわらず、自分を見限るどころか、己の醜さを自白して、その上でなお、共にいることを懇願された。
目に涙が浮かぶ。
そんなこと。
「俺で、いいのか? こんなに、醜い、俺で」
「あなたが良いのです。あなたが、私で良いと仰るのならば、そんなに嬉しいことはありません」
その言葉に、潘周は平理に抱きついて、泣いた。平理も、そんな潘周を抱き留めて、その瞳から大粒の涙を流す。
婚姻の儀から、ふた月。
二人の歪な夫婦は、この時をもって、本当の夫婦となった。
それから一年。
二人の夫婦の間には、子供ができていた。女の子だ。名前は金、と名付けた。
幸せだった。
今まで感じたことのない幸せ。
そして、それが怖かった。
今度は、この幸せが、壊れてしまうのが、何よりも、怖かった。
「まったくもう。仕方ないお父さんですねぇ。ねえ、キンちゃん」
そんな恐怖を吐き出すと、平理は困ったように笑った。
「でも、私もわかります。私も、幸せすぎて怖いです。この幸せが壊れてしまうことを考えると、怖くてたまりません。でも、きっと、それは考えてはいけないことなのだと思います。少なくとも私は。シュウ様のように強くありませんから、そういうことを考えると、生きていけません。だから、私はただ、あなたを愛して、あなたに愛されたいです。もしも仮に、これ以上の幸せを求める怖さに屈して、あなたを遠ざけてしまったら、万が一、あなたを失ってしまった時に、私は後悔します。だから、どうしようもなくなってしまった時も耐えていけるように、精一杯、『今』を生きましょう?」
そう言って娘を抱きながら笑う平理は、強く、美しかった。
この言葉が、潘周の恐怖に打ち勝つことができれば、もっと結果は違ったものになったのかもしれない。
しかし、どうしても、潘周には平理を直視できなかった。
眩しすぎて。美しすぎて。
そんな潘周を、やはり平理は困ったように笑いながらも、愛おしそうに見つめていた。
―――五年後。
潘周は、長安県の県令になっていた。
安陽県ではひと悶着が起こった。
「私は絶対についていきます!!」
「それはいい! 許そう! だが儂も行きたいのだ!!」
平理と、平理の父親である平京が揉めに揉めたのだ。
「お父様は安陽で仕事があるでしょう!? 私とキンは、家族として長安に向かう正当な権利があります。ですがお父様にはありません。大人しく、安陽で私の土産話を待っているといいんです!!」
「だったらお前とキンちゃんも残りなさい! 遠方ならば家族も都合をつけて城下に住んだりもするが、安陽のようにすぐに行き来できる距離ならわざわざ行かなくてもよいのだ! せめてキンちゃんだけでも置いていって!!」
「はっ。そんなことで愛し合う夫婦を引き裂こうとか、ちゃんちゃらおかしいってことです。で、キンー? キンちゃーん?」
「なあに?」
「お母さんとお父さんと一緒にお出かけするのと、じいじとお留守番してるの、どっちがいいー?」
「おるすばん、やだ!」
「はい、勝訴~」
「ふぐあああああああ!!」
というような塩梅で、平理と潘金は潘周と共に長安に引っ越した。
人の多さ。物の多さ。熱気の多さ。
そういったものにさらされ、目を回していた平理も、段々と慣れてきた。
潘金は子供の柔軟さゆえかすぐに慣れたのだが、平理は少し時間がかかった。
しかし、平理も順応し、二年が経った。
平理が病を患った。
県令であっても、五日に一度しか家に帰れないのは変わらない。
そして、安陽でやっていたように県令だからと宿舎の方に妻や娘を呼ぶことは許されなかった。目上の人間だろうと目下の人間だろうと、人々は常に誰かの失脚を待ち望んでいた。上にいる人間であればあるほど、多くの人間から失脚を望まれる。
贈賄のように、周りも多かれ少なかれやっているようなことならば目零す癖に、周りがやらないような規律違反を行おうとすると途端に騒ぎになる。そんな悪意の塊のような街だ。
五日に一度しか様子を見に行けないのでは平理の容体が心配だ。
潘金のことにしても、乳母に任せっぱなしになってしまっている。
このままでは良くないと、平理と潘金を安陽に返すことにした。
「シュウ様。時々でいいから、安陽に帰ってきてくださいね。私はそれだけですごく元気になるんです」
「ばか。そうやって元気に振る舞った後に、体調を悪くしてるじゃないか。しっかりと静養しなさい。治りきるまで俺も仕事に集中する」
そう言って、見送った。
平理は馬車に乗り込むまで不満そうに頬を膨らませていたが、馬車が出る段になって、窓から顔をのぞかせた。
「それじゃあ、頑張って治してすぐに戻ります。待っててくださいね。浮気しないでね」
満面の笑みでそう言いながら手を振ってくる。
そんな平理に、潘周は苦笑しながら手を振った。
ひと月。
ふた月。
み月。
恐怖を振り切るように仕事をした。
仕事の手を休めると、途端に帰り際に見た、やつれた表情の平理を思い出した。
それを振り払うように仕事に努めた。
よ月。
いつ月。
む月。
書簡が届いた。
安陽からの書簡だった。
怖くて、開くことができなかった。
治ったのならば、平理はすぐに飛んでくる。
ならば、きっと、寂しいとか、会いたいとか、そう書いてあるのだろう。それを読んでしまえば、自分もたまらなくなってしまう。仕事を放り投げて、安陽に向かってしまう。
だから読まなかった。
差出人が平京であることも、気に留めようとしなかった。
なな月。
や月。
ここの月。
使いの者が来た。安陽県からだった。
「――――――、――――――!!」
何か言っていたが、良く聞こえなかった。
誰が、死んだっていうんだ?
誰が?
死んだ?
葬儀?
終わった?
何も聞いていない。何も知らない。何も読んでいない。何も見ていない。何も感じていない。何も。何も。何も―――。
ふと気づいて、登城した。
微妙な空気だった。
どうやら、何日も登城していなかったらしい。
使いの者が何か言っていたような気がするが、誰か死んだと言っていたような気がするが、あれはいつのことだっただろうか。
書簡が届いたのは、いつのことだっただろうか。
子がいたような気がする。しかしどんな名前だっただろうか。性別は。年齢は。
妻がいたような気がした。しかしそんな訳がないのだ。自分のような人間に、所帯がもてるわけがない。きっと、夢だったのだ。幻だったのだ。現にほら。この家には何もないじゃないか。妻の持ち物だって、ないじゃないか。
綺麗なものだ。
さっぱりしたものだ。
見知らぬ荷物を、まとめてごみに出す。
自分が買った覚えのない物が多くあった。自分は使わないような物ばかりだった。全て捨てた。自分が使わないのだから、いらないものだ。
妻の痕跡を虚ろな目で探すが、やはり、城下町の邸宅の中には何もなかった。先ほどまとめたごみ以外、何もなかった。
情けない。
独り者の寂しさのせいで、架空の嫁を作ってしまっていたのか。
しっかりしないといけない。
長安の県令は、弛んだ心でやっていけるほど甘くはない。
油断していると、殺されてしまう。
しっかりしないといけない。
それからさらに半年後。
長安の県令が、賊の襲撃にあうという事件が起きた。
県令の生死は不明。
すぐに代わりの県令が送られて、事態は収まったかのように見えた。
しかし、事件は続いた。
まるで、狙ったかのように、長安の官僚たちが襲撃され、殺された。
県どころか郡をあげての捜査となったが、結局賊を補足することはできなかった。
生き残った官僚は、行方不明となっている長安の県令を見たような気がした、と証言したが、その真偽を確かめる前に、襲撃はぱたりと止み、不気味な静寂が、長安を支配した。
記念すべき百幕目がお前かい!
というわけで韓忠の過去話です。
一人の男が心を壊すまでの物語。
+
官僚の生活についての描写です。こうだったんだって!
章番号修正(2024年9月28日)。
誤字、ルビ、表記ゆれの修正を行いました(2025年1月29日)。




