九十九幕 今昔馬物語
何が悲しかったかというと、父と母の顔が思い出せなくなったことだった。
人の顔。
人の顔というものは、髪の毛があり、眉が二つあり、目が二つ、鼻が一つに口が一つ。頬が二つ。外側に耳が一つずつ。
目には瞼があり、瞬きをする。睫毛がある。
鼻には穴が二つあいており、そこから息をする。
口には歯が生えており、中には舌もある。
全部知っている。
知識としてではなく、実感として知っている。
世の人間は、例外を除けば、当然のように知っている物事だ。
それも、目が見えるのなら、それは確実に知っていなければならない物事だ。
セツ、と呼ばれる少女も、当然のようにその現実を受け入れていた。
物心ついた時、まだセツの目は人を、物事を正常にとらえていた。
優しい両親。いつも笑顔な近所のおばさん。少し意地悪な隣の家の男の子。
決して裕福とは言えない生活。しかし、特別足りないものがあるわけでもない、そんな満ち足りたような、光のような、生活だった。
いつだったか。
セツは、母親から頼まれた買い物をしに市に来ていた。
初めての一人での買い物。
とても興奮したし、とても緊張したのを覚えている。
一人で来た市は、いつも母親の隣で見ていたものと、全く違う景色に見えた。
騒がしい喧噪。無秩序な人の波。
そして。
並べられている全ての物に、値札がついていた。
家にいれば当たり前に見る箒や布巾。
捌く前の魚や、大きな肉の塊。
机や椅子、扉や瓦など、家の一部だと思っていた物。
筵、家。
いろいろな物に値段がついており、いろいろな物が買えるようになっていた。
そして。
市から一本外れた裏通り。
そこに迷い込んだ時に、見てしまった。
人にも。
値段がついていた。
それからしばらくして、セツは自分の異変に気付いた。
一瞬。目がぼやけるのだ。
その頃から、セツはしきりに、目をこする姿を周りから注意されるようになった。
しかし、セツはやめるどころかどんどん目をこするようになった。
村の薬屋に、記録が残っている。
目の端が切れても目をこするのをやめないセツに、薬師が尋ねたら、こう答えた。
『お母さんとお父さんの顔が見えなくなっちゃうっっ!!』
そうして幾日かして、セツは諦めた笑いと共に、目をこすらなくなった。
きっかけが何だったのか、それははっきりとはわからない。
しかし、この薬屋にかかって以降、セツは薬師の薬を飲むことはなかった。病ひとつせず、健康に過ごした。
桓彬という男がいた。
父は桓麟といい、豫州潁川郡の許県で県令をやっていた。
そんな家に一三三年に生を受け、若い頃から物事をよく知る者として名を知られていた。
十八になると孝廉に推挙された。
孝廉とは、特に孝行を良くし、清廉であることを条件に、毎年一人、各郡から選出されるものだ。
孝廉に推挙された者は郎官という下級役職に就く。宮廷の実務を実地体験しながら経験を積むためだ。そうしてしばらく郎官をこなし、慣れてきたと判断された者から様々な役職に選抜されていくことになる。
県令や県長、国相に任命されるのが多いが、中央官職に選抜されることもある。
桓彬は、孝廉として推挙された後、尚書郎に任じられた。
尚書郎とは、尚書台の下級官である。
尚書台は部署の名前で、その長官のことを尚書令という。尚書台の末席に侍郎という役職がある。この侍郎に任命された初任者の者を尚書郎と呼んだ。満一年に達すると尚書郎は郎中と呼ばれるようになり、郎中は満三年に達すると侍郎と呼ばれるようになる。
尚書台は公文書を主に取り扱う役職で、郎中は特に朝廷発布の文章の起草を行っていた。
尚書郎はまだ一年目ということで、起草を行うことはなかったが、その補佐を行っていたりする。
これから忙しくなる。
桓彬はそう思った。
それから十五年。
桓彬には一四になる中という名の子ができていた。
家は大きくなり、名も売れた。
桓彬が特異な能力をもった少女と出会ったのは、そんな時だった。
「おじさん。それ。粗悪品だよ。買うならこっちにしといたら」
出張中の桓彬が妻と子への土産を選んでいるところだった。
そう言って、差し出された品を見る。今、自分が買おうとしていた品と見比べても違いが判らない。よくよく見てみて、少しだけ、細工の継ぎ目がずれていることがわかった。
桓彬が目を丸くして、少女を見る。少女も切れ長の目を、桓彬に向けていた。
「あ、てめ、この銭娘! 商売の邪魔してんのか!? 寄るな!!」
店主が少女に向かって棒を振り下ろす。それを少女は危なげなく躱すと、路地裏に逃げ込んでいく。路地に入る直前、桓彬に、ぺこり、と礼をした。
「………今のは何者だ?」
「ああ? いやなんか、おかしな娘さ。ものすげえ目利きの腕をもってるんだとかなんだかで、ちらっと見ただけで物の良し悪しがわかるとかいう不気味なガキだよ」
苦々しそうに言う店主に、桓彬は粗悪品と良品、二つ分の値段を払って、両方とも手に取った。
「あの子はどこに住んでいるんだ?」
「毎度。あの路地裏の奥ですよ。両親はあのガキを置いてどっかに行っちまったそうでね。なんでもあのガキ、目利きの腕が高じて物事が全て金に見える呪いがかけられてるそうですぜ。で、気味悪がった親が捨てていったんだと」
でひひひひ、と笑う店主に礼を言うと、桓彬は路地裏へと入っていった。
路地裏に入っていった桓彬は、労せず、少女を見つけた。
「やあ、お嬢さん」
「こんにちは」
少女は、まるで桓彬を待っていたかのようだった。
冷たい、氷のような雰囲気の少女。
まだ、子供だ。桓中と同い年くらいだろうか。そのような少女が、諦めたような目をしているのが気になった。そして、その目の奥深くで、わずかに期待をしているような熱を残している。
何を、諦めようとしているのだろう。
何を、期待しているのだろう。
「先ほどはありがとう。あの一瞬で、良く見分けたものだな」
そう言って、桓彬は先ほど買った土産品を掲げた。
「え?」
少女は、その土産品を見て、驚いたように目を丸くした。
「え、そっちを買ったの? あはは。信じられなかったかな、やっぱり」
「驚いたな。ほとんど品を見せていないのに、一目で粗悪品だとわかるのか」
桓彬はもう一つ、良品と言われた方も見せながら、笑顔で言う。
「………………………………」
「君は親がいないのだと聞いた。私は洛陽で官職に就いている。もし君が良かったら私の家に来ないかな。住み込みの女中という形で雇いたい」
「………………………………。あなたは、私が気持ち悪くはありませんか? 私は物をしっかりと見ることができません。物の価値を直接見ることができます。それをあなたは―――」
「ははあ、なるほど」
桓彬は、あえて少女の言葉を遮った。
「物の価値を見る。それでこの品を一目で粗悪品だと見抜いた、と」
「………はい。あなたの値を見るに、地方の官僚ではないと思いました。もし、うまく私を売り込むことができれば」
「ふうむ。売り込むことには成功していた。しかし、君はあえて自分を気味悪いものだと説明したね。普段なら自分の価値を上乗せしようとしたのだ、と邪推するところだが」
「そんなことは」
「とーこーろーだーがー。君の瞳には、諦めと期待が混ざり合った悲しい色をしているように思う。これでも人を見る目はある方なんだ。君の能力が本当ならさらに給金を支払おう」
少女は桓彬をじぃっと見つめた。
そして、不意に目を逸らす。
最後に桓彬に向き直ると、
「どうか、よろしくお願いします」
そう言って、拝礼をした。
蔡雪、という名の少女は、桓彬の息子である桓中よりも一つ年下だった。
そうして、蔡雪は桓彬の家で家事手伝いをするようになった。
「視界の中で焦点を合わせると、その対象物の上に数字が表れるんです。それが上であればあるほど価値が高いみたいです。物ならば長持ちしたり、機能が上だったり。人ならば長生きしたり、出世したり、資産が多かったり」
そんな説明に、桓彬は頷き、桓中は目を丸くした。
「私はどれくらいだ?」
「彦林様は、私が見たことないくらい高かったです。………ただ、この地では、だいぶ低くなってます」
「ほう。場合によってその数値は変動するのか」
「私もこんなことは初めてでした。あの村を出たことはありませんでしたから」
「まるで値段みたいだな」
その言葉に、桓彬と蔡雪は桓中を見た。
桓中は突然視線を向けられて、狼狽えたように目を白黒させている。
「なるほど。物の価値、というよりも値段、か。確かに、私はあの村においては高級品だったかもしれないが、ここ、洛陽ではただの木端役人。私よりも才のある物はいくらでもいるな」
「あ、わ、私―――」
人に値段をつける。
そんな失礼なことを、桓彬にしてしまったと、蔡雪は泡を食ったように謝ろうとした。
「ははは。いいのさ。正確には同一ではないかもしれない。私たちが君の異能を理解しようとした際に、『値段』というのがわかりやすい、というだけのことさ」
そして、悪戯を思いついたかのように、桓彬はにやりと笑った。
「要は使い方、だ。蔡雪。君の視界は、私やチュウ、そしてもちろん君がうまく生きていくのにとても使える。もちろん、君が了承してくれたらの話だが―――」
今度は蔡雪が桓彬の言葉を遮る番だった。
「いえ。ぜひ、私のこの目をお役立てください」
桓彬は嬉しそうに笑うと、蔡雪の手を取って、何度も何度も頷いた。
蔡雪はようやく手に入れた生活に、深く安堵した。
数年前に捨てられて、それから必死で生きてきた。
そして、自分を引き上げてくれた桓彬に、深い敬愛を抱いていた。自分の異質な力を、使いこなしてくれる人がいるなどと、思いもよらなかった。しかし桓彬は、蔡雪に対して一切の偏見をもたずに接してくれる。それがどれほどの奇跡なのか。
感謝の気持ち意外に持ちようがないほど。
蔡雪にとって、桓彬とは神であった。
だからこそ、信じられなかった。
信じたくなかった。
蔡雪の神が、その価値を、著しく損ねていることを。
「………………え、罷免、ですか?」
罷免。
公職に就いている本人の意思と関係なく、職を辞めさせること。
法を犯した者に対する措置として行われることが多い。
しかし。
「な、なぜ!? 父上、何か不正を!?」
「するかバカもん」
桓彬がため息を吐きながら桓中を小突く。
「曹節様の不興を買ったのだ。奴の義理の息子である馮さんとの交流を拒んだからだろうな」
『―――――――――』
そんな予想をする桓彬に、二人の子供は絶句した。
「私だけではない。多くの者が官職を追われた。中には死罪となった者もいる」
「な、なぜ!? 漢で何が起きているんですか!?」
党錮の禁。
一六六年と一六九年に行われた弾圧事件のことである。
宦官が朝廷の腐敗の原因であると高名な地主や名士たちが声高に主張することに対し、宦官が起こしたものだ。
多くの者が官職を追放された。
今回行われたのは第二次党錮の禁。
その立役者は曹節だ。
外戚と長年に渡ってしのぎを削った宦官で、ついにその年、外戚を打ち破り、政権を手に入れた。その時、数多くの高名な士たちが外戚側に加担していたので、曹節を始めとした宦官は大規模弾圧に踏み切った。
外戚と名士たちが夜な夜な集まって語り合っていたことや、名士たちが集まって宦官を批判していたことを指し、徒【党】を組むことを【禁】じて、禁【錮】刑とする、という布告が出されたのが始まりだった。
「ですが、父上は政治批判などは行っていませんよね!?」
「まあ、そうなんだが」
実際、桓彬は無実である。
外戚に加担した訳ではない。とはいえ、宦官の肩を持ちたいとも思っていなかった。
自分の能力を良く知り、自分のできる範囲で清く正しくあろうとしただけだ。
それが正義でないことは桓彬自身が一番よく知っている。それでも、世を正したい、と声高に言うことはできなかった。自分の才がそれを声高に叫ぶほどにあるとは、どうしても思えなかった。
しかし、罷免されたのは事実だ。
事の経緯はこうだ。
曹節の娘婿である馮方が、突然、桓彬を訴えたのだ。
『桓彦林は劉伯音、杜織細と共に、酒党を作っている』と。
劉伯音は名を韻、杜織細は名を希といい、共に桓彬の上司に当たる人間たちだ。その三人で夜な夜な集まって酒を酌み交わしている、というのだ。さすがにこれを罪とするのは考えられない。
尚書台の長である劉猛は、この訴えを退けた。
それに怒りを露わにしたのが曹節だ。
身内を軽く扱われたとして大激怒したのだ。曹節は劉猛が私党を作っている、要するに個人的な繋がりをもって犯罪者を庇っている、と皇帝に訴え、劉猛は投獄された。
その後、十日ほどで劉猛は釈放されたが、罷免され、訴えを退ける者がいなくなったために馮方の訴えが受理され、桓彬も罷免された。
こんな流れである。
「――――――な、なんだ、そのばかばかしい話は!?」
桓中の怒りももっともである。
それに対して、蔡雪は顔を青くしていた。
「蔡雪?」
桓彬の言葉に、蔡雪は肩を飛び上がらせる。
そして、涙目になりながら恐る恐る桓彬に言った。
「彦林様。ごめんなさい! 彦林様の値が日に日に減っていってたんです。でも、私、彦林様が値を損ねるようなことをするはずがないって、そう思って、でも、心のどこかで、もしかしてって思ってて、だから、彦林様に言えなくって!!」
言葉を連ねながら、蔡雪の目からは涙が流れた。
「もし事前に言ってたら、こうはならなかったかもしれないのに! ごめんなさい! ごめんなさい!!」
泣きながら頭を下げ続ける蔡雪を、桓彬はそっと抱きしめた。
「もし、値が下がっていると言われたとしても、私は馮さんとは親しくしませんでしたよ。だから蔡雪が気に病むことはありません」
そう、声をかけながら桓彬はにっこりと笑う。
「それに、今の状態が長く続くとは思えません。いつかはわかりませんが、必ず、良くなります。だから、二人は心配せずに学識を高めていなさい」
二人の子供を安心させるように、桓彬は自身の不安を包み込んでそう言った。
九年後。
一七八年。
桓彬は病に伏せり、家で死去した。
享年四六。
病にかかる直前まで、桓彬は困ったように眉尻を下げながら、
「朝廷はまだ禁を解かないのか。さて、禁が解かれたらまた下級役職からコツコツやっていかなきゃいけないな。チュウ。一緒に同僚やるかい?」
そんな風に、禁が解かれるのを楽しみにすらしていた。
しかし、そんな笑い声も、家の中にはもう響かない。
桓中は二六に、蔡雪は二五になっていた。
「………………」
静かだ。
蔡雪はそう感じた。たった一人、亡くしただけだ。
桓彬の妻はまだ存命だし、なんなら侍女たちも走り回っている。
いつもと変わらない生活音。
その中に、桓彬の音がしないだけだ。呼吸の音。声。足音。桓彬と話す自分の声。桓彬と話す桓中の声。たったそれだけなのに、世界から音が消えたような、そんな心持ちになる。
「彦林様が、罷免された時」
「うん?」
だからだろうか。何かを話したくて、静けさが怖くて、口を開いた。
「彦林様は言ってたよね。『もし、値が下がっていると言われたとしても、私は馮さんとは仲良くしませんでした』って」
「言ってたなぁ」
「でもさ。仲良くしなくても、対策は立てられたよね? 他の人の誘いにも応じないとかさ」
「………………それは」
それは、否定できない。
父であれば、蔡雪からの提言があれば、いくらでも対処はできたはずだった。
「わ、私の、せい、なんだ。罷免さえされてなければ、彦林様の病だってもっと早くお医者に診てもらえたかもしれないし、高価なお薬も、買えたかもしれないのに!!」
否定できない。
桓彬は、いつまで続くかもわからない出仕停止に対し、極力浪費をせずに過ごしていた。
今回も、簡単な病だと油断して、医者に診せるのが遅れた。診察をしたときには手遅れだった。
罷免されず、財がしっかりとあれば、結果は違ったかもしれない。
それは事実だった。
「………俺はな、蔡雪。少し調べ物をしていたんだ。今の世を不条理として、強硬手段に出ようとしている男がいる」
蔡雪は、何の話が始まったのかと、涙に濡れた顔を上げた。
桓中が何かを探していたのは知っていた。しかし、桓中の言葉に少し不穏な気配を感じる。
「現政権の打倒。宦官だ、外戚だと下らない争いが連綿と繰り返されているこの政権を打ち倒す。そんな志を抱いている烈士だった」
「………………伯、彦、様?」
不穏な言の葉を紡ぐ桓中を、蔡雪は止めようとした。その先を、言わせたくない。
しかし。
「俺は、彼に賭けてみることにした」
――――――。
(あぁ)
「蔡雪。俺と一緒に、来てくれないか」
(神様)
「――――――わかりました、伯彦様」
(あなたは、最低です)
女が願ったのは、ただの平穏だった。安心だった。
心安らかに、生きていきたい。ただそれだけだった。
それなのに、それを許さないかのように、運命は回る。
女にできるのは、神を呪いながら、愛する家族を、孤独にしないことだけだった。
卜己の過去話。
桓彬の身に起こった事件の詳細は張梁の過去話にて詳しく書きます。
章番号修正(2024年9月28日)。
誤字、ルビ、表記ゆれの修正を行いました(2025年1月24日)。




