十幕 諜報合戦
夜半過ぎ。
人影の絶えた通りを唐周は走った。
目指す先は、後漢権力の中枢。
「黄巾に所属していた唐周と申します。お知らせしたいことがあります。取り次いでもらえませんでしょうか」
息も絶え絶えに言った言葉は、蹇碩宅の門番を仰天させた。
「もう一度、申してみよ」
蹇碩の言葉に、唐周は仮面を外した能面を向けた。
「私は、黄巾党に属しているのが恐ろしくなったのです。そもそも、我々黄巾党は、医を極め、民を癒すために活動を始めました。礼にと食事や金銭を受け取っていたら、医の知識を学びたいと、人が集まりました。これが黄巾党の前身です」
唐周は訥々(とつ)と語った。
「時と共に構成人員は増えました。教祖・張角は様々な才をもった者が集まれば、より多くの民を救うことができると喜びました。しかし。教祖は民からの願いを聞き届けている内に、いつからか世直しを自らの使命としてしまったのです」
感情の籠もらない目が、蹇碩を射抜いた。それを不快に感じ、視線を手元の紙に落とす。
その紙一枚が、蹇碩に冷や汗を流させた。
「私が願うのは、民の恒久的な平和のみです。国家転覆など私の望むところではありません。今の黄巾党は目に見えない何かに取り憑かれている様に感じて、私は恐ろしいのです」
蹇碩の手元にあるのは、血判状だった。その中には、封諸や徐奉の名前もある。
宦官が既に内通している、確たる証拠だ。
「どうか、蹇碩様。我らの悪しき流れを断ち切って下さい」
そう言うと、唐周は深々と頭を下げた。
「ふむ。なかなかの音曲だの」
人払いを済ませたはずの、その空間に、幼い声が割って入った。その事実に唐周が固まる。
「いったいどんな者が釣れるかと思うたがの。存外、可愛らしい獲物じゃ」
鈴の鳴るような声を転がして、声の主が姿を現した。
「蹇碩様。これは―――」
十歳前後の少女と少年がその場にいた。
「黄巾唐周。汝は既に包囲されておる」
袁術は、その場の支配権を堂々と手中に収め、そう宣言した。
「………、包囲とは? なぜこのような」
「猿芝居はやめよ、唐周。お主の企みは、既に看破しておる」
内心の焦りを押し殺し、困惑の声音でもって発した唐周の言葉を、袁術が打ち消す。
「洛陽に潜伏し、封諸、徐奉を引き込んで、次の獲物は張釣殿のつもりだったであろう。張釣殿と夏惲殿を反目させ、張釣殿の命が危うくなった所で助け舟を出し、張釣殿も味方に付け、さらに、張釣殿を始末できなかった夏惲殿すらをも取り込んで、それを皮切りに十常侍を引き込む。十常侍を味方に付けるよりも、十常侍同士で内乱を誘発し、宮中を混乱させ、さらに止めとして、蹇碩殿に処断させ、後漢という国から宦官を排除する。役割が終われば、蹇碩殿も用済みとして処理されるじゃろう。宦官壊滅。これならば、後漢は大打撃を受けるは必定よな」
袁術は口元を扇で隠しながらコロコロと笑った。
「お主の役割は、十常侍に楔を打ち込む最後の鍵じゃろ。ここで用いる血判状には本来、この倍の数の名前が記されていたはずじゃ。しかし、呂強殿が動いたおかげで、張釣殿を引き込むことができなくなった。それでも、この策を実行したのは、呂強殿が死んだことで、宮中が疑心暗鬼に陥っていると判断したため、かの?」
唐周は無表情の下に、恐怖を感じた。口の中がカラカラに乾く。
袖に仕込んだ暗器を、取り出すタイミングを計るが、全て、少女の背後に控えている少年によって、その動きを封じられていた。
少年は小さな鎌を持っている。
(―――任務、失敗)
退き時だった。
このままでは馬元義も馬芳も梁宇も危うくなる。
唐周は少年を見た。
肩口まで乱雑に伸びた髪。頭頂部からは二本の癖っ毛が、触角のように伸びている。
そして、武器を持っているだけで構えていない。
跪いた姿勢のまま、下半身に力を込める。
敵もまさか、この姿勢から、後ろに跳躍できるとは思うまい。その油断を、突く。
思い切り、後方の扉まで跳んだ。
瞬間。不思議なことが起こった。
跳び退き、空中にいるにも関わらず、時間がゆっくりと進む。
その中で、唐周は確かに見た。
すべてがスローモーションになる中、少年がただ一人、時の制約を受けぬかのように武器を抜き、振るった。
その武器は折り畳まれていたが、少年が振るうと金属音を鳴らして、伸ばされ、少年の手に身の丈ほどの鎌を握らせた。
少年が唐周に肉薄する。
その光景を、唐周は動けずに見守るしかなかった。
「殺すな!」
袁術の鋭い声に、少年は舌打ちをする。
少年の斬撃は、僅かに軌道を変え、唐周の左腕を襲った。
「―――な」
唐周は空中で姿勢を崩され、床に転がる。
(ダメだ)
速すぎる。
武の桁が違いすぎる。
反射的に奥歯を噛もうとする。奥歯には即効性の毒薬が仕込んであった。
しかし。
少年は唐周を斬り、残心も解かないままに、唐周の顔面を蹴り上げた。
唐周は自決もできずに意識を刈り取られた。
「お、お主、仮にも女子に容赦ないの」
袁術がドン引く。
「あんたが殺すなっつったんだろ、オヒメサマ。コイツ、歯になんか仕込んでたみたいだし」
「そうか、なら詰め物を―――」
「平気平気。顎の関節、外したから」
「………そ、そうか」
「で?」
少年の殺気が、今度は袁術に向けられる。
「俺は、楽しい戦いがあるって聞いたんだが? もう終わりか?」
「そう急くな」
その殺気を、袁術はやれやれと肩を竦めて受け流す。
「心配は無用じゃ。この娘を餌にして他の者を釣る。この娘、目に恋を乗せておった。想いを寄せる男子でもおるのじゃろ。情報では、こやつの上司とは淡い恋仲だそうだ。大物じゃ」
袁術はコロコロと笑う。
「兵を率いてみるか? ほーせん」
少年は、新たな戦場を感じて、ニヤリと笑った。
黄巾軍の前半のヒロイン、ピンチ!
誤字、ルビ、表記ゆれの修正を行いました(2024年9月19日)。




