九十四幕 今昔牛物語
兗州。
大陸内部に位置しており、黄河と済水に挟まれた土地である。
黄河の支流が大小様々な川として流れ込み、人々の暮らしに密接に絡み合っている。
川の渡しは発展し、荷物の輸送なども川を利用して行われることが多い。
そんな兗州の中心部に、四国湖と呼ばれる湖があった。
立地が特殊で、兗州の東郡、東平国、山陽郡、済院郡の四つの郡に跨って存在しているのだ。
そんな四国湖は、とある賊の縄張りであった。
蜚賊と、彼らは呼ばれている。
『蜚』とは、古代中国において編纂されたとされる奇書、『山海経』に登場する伝説上の獣の名前である。
太山という山の説明をする項目に記されている獣で、曰く、
『獣あり。その状は牛のごとくにして、白首・一目にして蛇尾なり。その名を蜚という。水を行けば即ち竭き、草を行けば即ち死す。見るれば天下に大疫あり。』
一つ目の牛の姿をしており、水に入れば水は枯れ、野山を歩けば草木が枯れてしまう、猛毒の化け物であるとされている。
太山とは、泰山の別名である。泰山は泰山郡にそびえる道教の聖地である五つの山の一つだ。死者の魂は泰山を登り、泰山の頂上にあると言われている死後の世界で暮らす、と言われていた。
そんな霊峰に棲む化け物の名で呼ばれる賊だ。
その理由は、ひとえに彼らの容赦の無さが故の物である。
襲われた村は人ひとり、鶏一羽すら生きておらず、畑は焼き払われ、家は潰され、破壊の限りをつくされた。
そんな賊に対して、人々は畏怖と、少しの侮蔑を込めて、呼び始めた。
全てを徹底的に破壊しつくす暴虐の賊。蜚賊、と。
「これでこの村も終いだ。野郎ども。いつもの通りだ。男は殺せ。女は犯せ。子供は好きにしろ。終わったら、全ての区別なく打ち壊せ」
大柄な男がつまらなさそうに言う。
その言葉に、配下の男たちは嬉しそうに声を上げ、つい先ほどまで抗戦していた村人たちは絶望に顔を歪めながら泣き叫び始めた。
そんな光景を大柄な男はつまらなさそうに見る。そして少し肩を落とすと、鼻を鳴らして背を向けた。
男は鄧茂。
蜚賊を率いる頭領だ。
五年ほど前。突然一人の男が一つの村を潰した。
理由はわからない。
しかし、突如として村を襲った男は、瞬く間に村人を殺し、家を焼いた。
逃げ延びた村人たちは、つまらなさそうな表情で淡々と作業をするかのように村を破壊する鄧茂を見た。
それからしばらくが経った時。
鄧茂は五百人の賊団の頭となっていた。
「かしらー? 頭は女はいいんですかー?」
鄧茂の後を追うようにして小柄な影が追いかけてくる。
蜚賊副頭領の裴元紹だ。
彼は齢十歳という若輩ながら、鄧茂に見出され、直々に任命される形で蜚賊の副頭領という立場についている。
周りの人間も、もちろん裴元紹も、最年少の小僧を右腕に任命する鄧茂の心中を理解することはなかった。しかし、蜚賊は鄧茂が動くときに動き、命じることを命じられるままに行う集団だ。
それゆえ、副頭領が誰であるのかすら大して気に留めていないのだった。
「おう。俺はいい。お前はどうする?」
「おっち、まだ女を知りたくなる年じゃねーです。頭が戻るんならついていきますよー」
「そうか」
大斧を肩に担ぎながら歩いていく鄧茂に、裴元紹もついていく。
「そういえばとりあえずおめでとうございます」
裴元紹の言葉に、鄧茂は訝しげな表情を向けた。
「めでたい? 何かあったか?」
「え? この村で『二周目』じゃないですか。随分と広がりましたよね」
鄧茂が驚いたように裴元紹を見る。しかし、裴元紹は鄧茂が何を驚いているのかがわからず、首を傾げた。
「………まあな」
鄧茂が、表情を緩めて裴元紹に短く返し、そのまま歩を進めた。
そんな鄧茂に、裴元紹は不思議そうに首を捻りながらついていった。
「我留さんー。お帰りなさいー」
「おう、ハイゲン。お前はもう帰ってたのか? 可愛い子多かったぞ?」
「いやー、おっち、そういうのはまだちょっとよくわかんないかなーって」
「んだよ、もったいねえ」
蜚賊の武闘派筆頭である我留が根城としている拠点に戻ってきた。
蜚賊は、四国湖の中央にある小島に拠点を置いている。
船を巧みに操る者が多い蜚賊は、湖賊や河賊としての一面ももっていた。
単独行動をしていても、それぞれが小型の笛を持っていて、それを決まった音色で鳴らすと、岸まで船が迎えに出る決まりになっているのだ。
「にしても頭はまーた直帰かいな。真面目なこって」
我留が足取りをふらつかせながら近寄る。酒臭い。呑んでいるようだ。
「我留さん臭いー。酒臭いよー」
顔をしかめる裴元紹に、我留は大口を開けて笑う。
我留のように上の役職になると湖を渡る船を操舵することもない。酔っぱらっていても誰かが根城まで連れて帰ってくれているのだ。
そう。
上の人間であれば多少羽目を外しても許されるのだ。
それなのに。
「どしたハイゲン。そんなため息吐いちゃってまあ」
心中の悩みが胸の内から息の塊となってこぼれ出てしまったらしい。裴元紹は恥ずかしそうに頭を掻くと、もう一度ため息を吐いてから白状することにした。
「頭がさ。ちゃんと楽しめてんのかなって思って。今日みたいな節目の日くらい、もうちょっとゆっくりしてもらえればいいんだけどさ」
「節目?」
「そう。ほら、おっちたちの団ってさ。湖の周りの村を襲ってきたじゃん。で、今まで襲った村の位置とか考えてみると、最初は湖から五十里(約20㎞)地点までの村を襲ってるんだよね。で、それが一通り終わったら今度は湖から百里(約40㎞)地点までの村を襲ってた。その百里地点の村も今回が最後だったんだよ」
「――――――」
我留は絶句する。
裴元紹が言ったことを思い起こせば、確かにそういえば、と思い当たる節はある。
しかし、最初の方の村への襲撃など、裴元紹が入るよりずっと前だ。それをなぜ知り得たのだろうか。
「おっち、この団には後から入ったからさ。いろんな人に話を聞いたんだよね。古い話も新しい話も」
そう言われて、確かに我留も裴元紹に自分が参加した襲撃の話をしたことがあるのを思い出した。あのような与太話を他の人間からも聞き、そして整理し、情報として蓄積したのだ。
我留は思わず笑う。
「俺たちゃ、そんなこと考えたこともなかったぜ。頭の命令にただ従うだけ。それで十分。それで楽しい。けどお前は違ったんだな。さすが副頭領だ」
最近は鄧茂が出ないでも裴元紹がいれば動くこともあった。特に意識したことがないほどに、鄧茂の指揮と変わらない。第二の鄧茂ともいえるような、そんな指揮。
ただの偶然かと思っていた。
しかしそこには、裴元紹の、たゆまぬ努力があったのだ。
鄧茂の思考を追い、鄧茂の考えを読もうとする努力。
しかし。
「でも、それでも、頭が何を考えてそういうことをしてるのか。それがおっちにはわかんねえんだよなぁ」
我留からすれば舌を巻くほどに卓越した観察能力をもつ裴元紹にすら迫れない謎。
我留は訳もわからず、漠然とした怖れを抱くことしかできなかった。
「さて、と」
鄧茂は根城の中の自分の居室に戻ると地図を広げた。
地図にはいくつかのバツ印と、丸印がついていた。その丸印の内の一つに上からバツを書き足した。
印を書き足した鄧茂は、そのまま窓辺に置いてある床几に腰掛けた。この時代、寝る時はこの床几に横になって寝る。
食堂からくすねてきた酒を少しあおる。
窓から湖を超えてきた涼やかな風が吹き込み、ささやかな波音がその風に乗って聞こえてきた。
鄧茂はこの根城が好きだった。
五年前に最初の村を襲ってから、一年は陸上で拠点を転々としながら活動してきた。しかし、鄧茂の噂を聞きつけ武勇に惚れ込んだ者や好き勝手に暴れたい者などが集まって五百人ほどの規模になるとどこかに拠点を定めなければならなかった。
四国湖はそんな拠点には最適だった。
湖が四つの郡それぞれの管轄に入り込んでいるため、討伐の軍をあげようとしても、なかなか実行ができなかった。その間に拠点を定めた鄧茂はその規模を拡大させ、今では千人ほどの兵力を抱えている。
そのような大軍を形成した鄧茂は、しかし根城を要塞化し、様々な欲望をもった者たちを御しきっていた。
そして、近場の村を襲い、壊滅させていった。
今は第二段階。
四国湖から少し離れた村を襲っていた。
それも今日の作戦で終了だ。
次の段階に進むことができる。
現在、蜚賊は四国湖を主な拠点としており、何をするにも湖から移動しなければならない。
最初の内はそれでよかった。
しかしここからは違う。
四国湖の周り、五十里の範囲に村はない。家すら打ち壊して完全に壊滅させたので、新しく移住してきた人間もいない。そして今回の作戦で百里までの範囲から村を消した。
次にやるのは村づくりだ。
五十里の範囲にあった村を復活させる。そうして、団員を移住させる。その村と根城を直線で結んだ湖のほとりに渡し場を作る。そうすれば、官軍は渡し場を攻略する前にまず、村を攻略しなければならなくなる。直接渡し場を制圧しようとしても移り住ませておいた団員たちによる防衛が行われるからだ。
根城は武具の保管庫や幹部の居住区にする。すでにだいぶ手狭になってきているのだ。このまま増えた団員を全て根城に収容しようとすれば、たちどころに溢れかえってしまう。そうならないための措置だった。
そう。
このまま団員が増えていけば、必要になってくるのだ。
蜚賊。
民衆からそう呼ばれているのは知っている。
恐れと、蔑みを含んだ呼び名だ。
なので、鄧茂たちは自分たちのことを『蜚賊』とは呼ばず、ただ『団』と呼んでいた。
そんな恐れられ、蔑まれ、暴虐の限りをつくしている団を率いている鄧茂は目指す形があった。
国を創る。
自分の他に誰も並び立っていない支配地を創る。
それが鄧茂の行動指針だった。
四国湖をうまく使えば官軍であろうと容易に手を出すことはできなくなる。そうして作り上げた基盤を使い、村をつくり、その村に行商を呼ぶ。商業が軌道に乗れば、漢から独立をすることができる。もちろん、声高に声名を送れば漢も無視ができなくなる。事を荒立てず、しかし確実に独立するための下準備を五年間行ってきた。
今後は地盤をつくりながらも周辺の太守や県令を抱き込む政治力も必要になってくる。
しかし。
男に生まれたからには小さく終わりたくはない。
できるところまでやってみたい。
そんな子供のわがままのような意地が、鄧茂にはあった。
そして、そんな子供のような考えを、押し通してしまえる能力もまた、鄧茂には備わっていたのだ。
二年後。
地盤も固まり、村も機能しだし、商業にも着手しはじめ、渡し場も完備した。
次の足掛かりである近場の県令に書面を送り、不可侵の取り決めをしようと準備を始めた頃。
鄧茂のもとに一人の男が訪ねてきた。
男の名は、張角。
黄巾の乱が発生する前年。
光和六年(西暦一八三年)のことだった。
鄧茂の過去編!
国盗りを目指す賊、鄧茂さんでした。
中国の奇書、山海経の紹介も兼ねてみました!
章番号修正(2024年9月28日)。
誤字、ルビ、表記ゆれの修正を行いました(2025年1月17日)。




