リン
運動会まであと一週間しかないというのに、その子はそのタイミングで転校してきた。
三条リン。
すらりとした長い脚をホットパンツから伸ばした女の子は、そう自己紹介した。
男子が可愛いと騒ぐには少し勝気すぎる目をしていたけれど、見慣れない女子が一人加入したことで、クラスの雰囲気は一気に華やいだ。
普段は、良くも悪くも他のクラスに比べて大人しい、なんて言われるクラスだというのに、担任の森先生が何度も「はい、みんな授業に集中して」と手を叩かなければならないほどだった。
リンはすぐにクラスに馴染んだ。
明るくはきはきした性格で、女子たちの彼女の呼び方はすぐに「三条さん」から「リンちゃん」に変わった。
運動会間近で転校してきたことも全く問題にはならないことがすぐに判明した。
学年全体のダンスの振り付けは一回の練習でたちまち覚えてしまったし、体育の時間にはカモシカのような長い脚でグラウンドの土を華麗に蹴り上げ、クラスの女子で一番足の速い小峰レイナをちぎってみせた。
「あいつ、すげえな」
タカキにそう話しかけられ、手持ち無沙汰に自分の走る順番を待っていたカズマは「何が?」と尋ね返した。
「三条リンだよ。足、めちゃくちゃ速いじゃん。小峰に勝っちゃったぜ」
それのどこがすごいんだよ。小峰に勝ったってすごくもなんともないだろう。カズマはそう思った。
「別に女子の中で速くてもな。俺の方が速いし」
カズマがそう答えると、タカキは「そんなの当たり前だろ」とつまらなそうな顔をする。
「カズマより速いやつなんて、この学年にいないじゃんか」
「まあな」
多分、六年生にだって負けないだろう。
分かり切ったことだが、そう言われればそんなに悪い気はしない。カズマは、澄ました顔で女子の列に戻っていくリンを見た。
「でも小峰に勝ったんなら、あいつリレーの選手になるんじゃないの」
「あー、なりそう」
タカキは頷く。
「女子のアンカーかも。そしたらカズマにバトンパスだな」
そう言って、バトンを渡す仕草をしてくる。
「カズマ君、お願い」
「よせよ」
カズマは身をかわしながら、もう一度ちらりとリンの方を見た。
走り終えたリンは、ほかの子のようにはあはあと息を切らすでもなく、一人地面に腰を下ろしてぼんやりと校舎の方を見ている。
何を考えているのかよく分からない女だ、とカズマは思った。
リンの周囲にはいつも人が集まっているので一見そうとは分からないのだが、カズマは気付いていた。
リンは誰かから話しかけられればにこやかに応対するが、自分から他の子に話しかけることは、ほとんどない。少なくともカズマは見たことがない。
「はい、次。最後の組」
森先生の指示で、カズマは立ち上がる。一番速い組は、いつでも一番最後だ。
徒競走の練習なんて、走り慣れてない遅いやつだけでやってくれればいいんだけどな。こっちはいつ走ったって変わらないんだから。
カズマは校庭の隅にある鉄棒を見るとはなしに見る。
ああ。こういう日はずっと鉄棒にぶら下がって、ぐるぐるぐるぐる回っていたい。そうしたら、めちゃくちゃ気持ちいいだろうな。
「よっしゃ、今日こそカズマに勝つぜ」
タカキの言葉に、カズマは薄く笑う。
勝てるわけねえだろ。
ぱあん、という号砲とともに飛び出したカズマは、もういちいち横も見なかった。
リンは、運動もできるが勉強もできる子だった。
社会の授業で先生に指名されたリンが立ち上がって答える。
そのごく短い発言を聞いただけで、ヒロナリには彼女が賢いのだということが分かった。
答え方が、ほかのクラスメイトたちと違う。塾でしか会わない、他の小学校の上澄みの賢いやつらの答え方。
三条リンも、受験するんだろうな。
そう思った。
でも、それだけだった。別にリンの成績が良かろうが悪かろうがヒロナリには関係なかったからだ。
クラスで順位を競っているわけではないし、同じ受験組だという連帯感があるわけでもない。いつもみんなに囲まれて、華やかに楽しそうにしているリンのことを、ヒロナリは別世界の住人だと思っていたし、自分がそちら側の世界に行けるとも思っていなかった。
だから、休み時間に突然リンが話しかけてきたとき、ヒロナリは驚いた。
「その本って、図書室の?」
休み時間ともなればたちまち廊下や校庭に駆け出していくクラスメイト達を尻目に、一人で読書を始めるのはヒロナリの常だった。教室に残ってお喋りに興じているのは女子がほとんどだし、そうではない少数の男子グループがしている話題には、最新のゲームをプレイしていなければついていけない。
「この学校の図書室ってまだ行ったことないんだけど、そういう本もあるんだね」
横からリンにそう声を掛けられて、ヒロナリは顔を上げる。
リンは大きな目でヒロナリの本を覗き込んでいた。
「いや、こういう本はうちの図書室にはないけど」
またガリ勉がおかしな本読んでる、とからかわれるのが常だったので、ヒロナリはリンの視線から本を遮るように素早く自分の腕を机の上に置く。
「そっか、ないのか」
リンは残念そうな顔をした。
「新書が置かれてるのなら、図書室に行ってみてもいいかなって思ったのに」
「ジュニア向けの新書ならあるよ」
そう言いながらヒロナリはさりげなく本を机の中にしまう。
「後ろの方の棚。ほとんど誰も行かないから行ってみれば」
「ジュニア向けはいいや」
リンは首をかしげて言う。
「興味あるのはほとんど前の学校で読んじゃったから」
「あ、そう」
何だこいつ。何しに来たんだ。
ジュニア新書は大体読みつくしてしまったのは、ヒロナリも同じだった。だからこそ分かる。
小学校に大人向けの新書があるわけないだろ。
ヒロナリの読んでいるのは、塾の近くにあるチェーンの古本屋で二百円ちょっとで買った大人向けの新書だった。
大人向けの本が読みたければ、そういうところに行け。
そう思ったが、そんなことをリンに話してやる義理もなかった。
別に行きたいわけでもなかったが、ここを離れるためにトイレにでも行こうかな、とヒロナリが思ったときだった。
「ペルシア帝国の本?」
「え?」
思わずヒロナリは瞬きする。
「だって、アルタクセルクセスって書いてあったよ」
リンは舌を噛みそうな名前をすらすらと言った。
「アケメネス朝ペルシア帝国の大王の名前でしょ」
「ああ、うん」
意表を突かれたせいで、素直に頷いてしまう。
「よく知ってるね」
「名前くらいはね」
そう言って、リンは手を差し出した。
「見せて」
「……」
「ね。その本見せてって」
仕方なくヒロナリは机から本を出す。
「やっぱりペルシア帝国の本だった」
リンは嬉しそうに頷く。
「古代史に興味があるの?」
「別に」
ヒロナリは首を振った。
「日本史は一通りやったから。世界史を順番に勉強していこうと思っただけ」
四大文明の次が、ギリシャとペルシアだったというだけのことだ。
「ふうん」
リンは本を手に取って背表紙を確かめる。
「あ、この古本屋さん」
そこに貼られた値札を指差す。
「どこにあるの。ほら、私引っ越してきたばっかりだから」
「僕の塾の近くだよ」
ヒロナリは答える。
「学校からだと、校門を出て右側にずーっとまっすぐ行って」
道順を説明すると、リンはメモも取らずに大きな目をくるりと回して微笑んだ。
「あの辺か。なんとなく分かった」
「ねえ、リンちゃーん」
教室の向こうで女子たちがリンを呼んでいる。妙に大人ぶって化粧の真似事なんかを始めた、ヒロナリの一番苦手なグループだ。
「あ、はーい」
リンは返事をして、ヒロナリに本を返した。
「ありがとう」
女子グループの方に足を向けながら、リンはふとヒロナリを振り返った。
「六宮君、多分その塾、私も通うよ」
「え?」
「向こうで会ったら、よろしくね」
うへ。まじかよ。
とっさにそう思ったが、ヒロナリはその気持ちと裏腹に自分の胸がやけに高鳴っていることに気付く。