仲間
「はい、すみません。テストは金曜日に行けたらそのときに……はい。順位は参考でいいです。すみません」
電話を切ると、ヒロナリは靴を履くのももどかしく家を飛び出した。
塾に、勝手に休みの電話を入れてしまった。
こんなこと、今までに一度もしたことがない。心臓がどくどくとうるさいくらいに脈を打っていた。とんでもないことをしてしまった。
母にばれたときのことを考えると、足がすくみそうになった。
だがとにかく、これで塾から確認の電話が来ることはない。
母さんが帰ってきてしまったら、終わりだ。なるべく早く家から離れないと。
駅に通じる道を避けるように、ヒロナリは足早に歩いた。
大分歩いてから、自分の犯した大きなミスに気が付いた。
家の鍵を閉めずに来てしまった。
……何やってんだ。
自分では努めて冷静なつもりだったが、やはりどこかふわふわしていたようだ。
ヒロナリは家まで駆け戻った。
どうか、まだ母さんが帰っていませんように。
普段、そんな長い距離を走ることなどないヒロナリは、走り出して百メートルも行かないうちに、すぐに息が苦しくなってしまった。
はあはあと喘ぎながら、それでもヒロナリは走った。激しく呼吸すると、喉が痛かった。
こんなとき、自転車があればいいのに。
初めて、カズマの自転車を羨ましく感じた。
ようやくたどり着いた自宅の玄関に鍵をかけ、またヒロナリはよろよろと走り出した。
道の先に母の姿が見えた気がして、そちらを見ることができなかった。
いつもの公園の、いつものベンチ。
どこにしようか色々と迷ったが、結局ヒロナリはここにやって来た。
塾からほど近いここなら、塾のバッグを持った子供がうろうろしていても誰も不審には思わないからだ。
公園の入り口には、まだカズマの自転車が放置されている。
兄の言う通り、ゲームを進めればカズマとリンは帰ってくるのだろうか。
やってみるしかない。
ヒロナリは、ヘリオス・ネオの電源を入れた。
粗いドット絵の、シンプルなタイトル画面。
数日間やらなかっただけで、ずいぶんと久しぶりな気がする。
画面の上に表示された時刻を見る。
午後四時過ぎ。
目標は、カカマナットの巣。
行けるだろうか。僕一人で。
ヒロナリが十字キーを押すと、画面の中で青いローブの魔法使いが歩き出した。
仲間がいなかったせいで失敗したと兄が言っていた理由がよく分かった。
魔法使い一人だけでの探索は、困難を極めた。
「……ああ、くそ」
敵の弾に当たって、魔法使いがばたりと倒れる。
死ぬのはもう何度目だろう。
カカマナットの山に挑戦し始めてから、すでに一時間が経とうとしていた。
本来であれば、塾に行かなければならない時間だ。
でも、今日は行かなくてもいい。休みの電話を入れたから。
それがどんな結果を招くことになるのか、ヒロナリは敢えて深く考えないようにしていた。
ばれたら、きっととんでもないことになる。
それでも。
ヒロナリの耳の奥には、まだ兄の言葉が残っていた。
仲間、大事にしろよ。
勉強は頑張り次第で取り戻せる。でも、多分仲間は取り戻せない。
今やらなきゃ。
しかし、その気持ちとは裏腹に攻略は遅々として進まなかった。
レベルは十分に上げたと思っていた。
けれど、それは三人でこの山に挑むことを前提にしてのレベルだった。
やってみて分かったが、一人での戦いは、三人での戦いとはまるで違った。
ヒロナリは、カズマとリンのありがたみを痛感することになった。
僕は、守られていたんだな。
三人なら何ということもなく通過できた場所が、一人だと危険な場所に一変する。
敵や障害物の配置が、実に厭らしく設計されている。まるで、お一人様お断りとでも言いたげに。
これ、厳しいな。
そう思わざるを得なかった。
魔法使い一人で挑むなら、もっとレベルが必要だ。
それは分かっていた。
確実なのは、もっとじっくり時間をかけてレベルを上げてから、再度挑む方法だ。今のこの時間をたっぷりとレベル上げに費やせば、おそらく明日には何とかなるだろう。
だが、今はそんな時間はなかった。
カズマもリンも、いつまで取り返すことができるのか分からない。今この時間に、この戦力で攻略しなければ。
苦戦するのはいつも同じ数か所だった。そこをもっと素早く通り抜けることができれば。
ヒロナリは集中した。
レベルが足りないのであれば、頭を使うしかない。
このゲームを作った人間との知恵比べだ。
過去、一度も経験したことのないほどにゲームに集中した。自分が今どこにいるのかも忘れた。周りの音は全て消え去った。
現実にいながらにして、異界にいるかのような不思議な感覚だった。
画面の魔法使いは、ヒロナリの精神とリンクしたかのように自在に動いた。
それとともに、敵の動きもクリアになる。
ここで、左に。そうだ。敵をやり過ごして、今、このタイミングでファイアボール。いったん画面の端まで戻って、ここからアイスロケットの連射。よし、今だ。次が来る前に走り抜けろ。
トライアンドエラー。繰り返される死と、蓄積されていく経験。
古代史の本を読んでいるヒロナリには分かった。
これは、人類の発展と同じだ。たくさんの犠牲のもとに知識を蓄え、僕は今その上を走っている。
ついに魔法使いが山の最上部に辿り着いたとき、公園はすっかり暗くなっていた。
ヒロナリの顔を、手元のゲーム画面だけが青白く照らし出していた。
「よし」
この公園に来て初めて、ヒロナリは言葉を発した。
カカマナットの棲みかに着いたことが、その雰囲気で分かった。
いつもの癖で音量を絞っていたから、BGMが変わったことには気付かなかったけれど。
人や動物の骨が散らばる、凶暴な竜の巣。
魔法使いはゆっくりと進む。
「……やっぱり。ここにいたんだ」
そこに、灰色の鎧の戦士と白い鎧の魔法戦士がいた。
「僕も来たよ」
ヒロナリは呟いた。
「仲間に入れてよ」
二人のキャラクターに近付く。
突然、ヘリオス・ネオがメッセージを受信した。
「え?」
反応する暇もなく、未読メッセージ数を示す数字がどんどん増えていく。
何だ、これ。
混乱しながらも、戦士と魔法戦士に話しかける。だが、反応がない。未読メッセージの数字は増えていく。
「待ってよ、ちょっと」
ヒロナリは、メッセージを開いた。
『そのままでお待ちください』
『そのままでお待ちください』
『そのままでお待ちください』
『そのままでお待ちください』
『そのままでお待ちください』
『そのままでお待ちください』
『そのままでお待ちください』
「何を待つんだよ」
たくさんの『そのままでお待ちください』に紛れて、いくつか『異界との交信を』とか『受信を』というようなメッセージがあった。
それをしっかりと読もうとしたとき、画面いっぱいに『異界への扉が開きました』というメッセージが表示され、周囲の景色は一変した。
異界。
ヒロナリは、自分がまた別の世界に飛ばされたことを知った。
だが、そこはいつもの庭園ではなかった。
ごつごつとした岩場だ。硫黄のような臭いが辺り一面に充満している。
木も草もない荒涼とした岩のあちこちに、白い枯れ枝のようなものが散らばっている。
いや、枯れ枝ではない。それは骨だった。
「そうか。ここは」
カカマナットの棲みか。
ヒロナリは空を見上げる。
幸い、エメラルド色のドラゴンの姿はなかった。
魔法使いでも何でもないただの小学生がこんなところでボスモンスターと遭遇したら、ひとたまりもない。
「カズマ君!」
カカマナットが近くにいる可能性も考慮して、ヒロナリは遠慮がちに周囲に呼びかけた。
「三条さん!」
しかし、山頂だけあって風が強いせいもあり、ヒロナリの頼りない声は、ほとんどどこにも届かずに消えた。
しばらく二人の名を呼んだ末に、ヒロナリは諦めた。
思いついたことがあった。
さっき、ゲーム画面で見た二人のキャラクターの位置。
あそこに、二人はいるのではないか。
ヒロナリは、高い岩の上へとよじ登った。
ゲームではボタンを押すだけで移動できるのに、現実の身体は岩に上るだけで汗まみれになった。
多分、こっちだ。
ヒロナリは岩の配置から予想を付けた方角を向いた。
正解だ。
そこに、背を向けて座り込んでいる二人の姿が見えた。
「カズマ君! 三条さん!」
そちらに向かって叫ぶと、二人が反応した。
「ヒロ!」
聞き慣れた声が、聞き慣れた呼び方で自分を呼ぶのが聞こえた。
「こっちだ!」
立ち上がったカズマが手を上げる。リンも手を振っている。
「よかった、ヒロが来てくれた!」
その言葉を聞いたとき、自分の胸にこみ上げてきた感情を、何と表現すればいいのか。
「二人とも、ごめん」
ヒロナリはそう叫びながら、岩を滑り降りた。
「やっぱり僕も来たよ。仲間に入れてよ」