再会
帰宅したヒロナリは、玄関ドアを開けようとして鍵がかかっていることに気付いた。
ああ、そうか。
ヒロナリは思い出す。
今日は病院の日か。
ヒロナリの母は、ひと月に一度、クリニックに通っている。
二年前、兄のヒロカズが書置きだけ残して失踪してしまってから、母は不眠に悩まされているのだ。
最初の頃は症状がひどかったが、今は表面上は落ち着いている。
ヒロナリが中学受験を考える歳になってからだ。
ヒロナリには、母が自分を第二のヒロカズとして育て上げようとしているように感じられた。
それでもいい。母がそれで満足しているのなら。家の平和が保たれるなら。
鍵を開けて、家に入る。
静まり返った無人の家は、何だか広く感じた。母のいつも発している重苦しい空気がないせいかもしれない。解放感に浸る暇もなく、さっさと塾に行かなければならないのが残念だった。
とはいえ、今日は小テストだ。遅刻はできない。
ヒロナリが自分の部屋にランドセルを置いて、塾のバッグの中を確認していたときだった。
急に、玄関の鍵が開けられる音がした。
母が帰ってきたのだろう。
どうせすぐに出かけるのに、ヒロナリはいつもの癖で鍵を閉めていた。
母からはいつも、帰ってきたら鍵は絶対に閉めなさい、と言われていた。鍵を開けたままだったら、ひとくさり小言を言われるところだった。
それにしても母さん早いな、とヒロナリは思った。
病院は、電車で十駅も向こうの大きな街にある。母が、近くの病院に通うことを嫌がったからだ。
病院はいつでも混んでいるらしく、予約して行っているにもかかわらず、その時間を一時間も二時間も過ぎてからやっと呼ばれるのだと、母はよく愚痴っていた。
そのせいで、病院の日は暗くなるまで帰ってこないのが常だった。
今日は珍しく病院が空いていたのだろうか。
そう思ったが、家に上がってきた足音で気付いた。
母ではない。
それは、明らかに男性の足音だった。
え、と思う間もなく、足音は真っ直ぐにヒロナリの部屋に近付いてきた。そして、隣の部屋のドアを開ける音がした。
そこは、兄の部屋だ。
がさがさと何かを動かす音。
……泥棒だ。
どうしよう。
通報しようにも、リビングに行かなければ電話はない。
ヒロナリは息をひそめて気配を殺しながら、隣の部屋の音に集中した。
しばらく、がさがさと何かを探すような音がした後、はあ、というため息が聞こえた。
それから、足音の主は隣室を出てヒロナリの部屋の前にやって来ると、乱暴にドアを開いた。
「ひっ」
ヒロナリは身を竦ませた。
侵入者と、真正面から目が合った。
「……ヒロナリか」
父に似た、低い声。
ヒロナリは自分の目を疑った。
「兄さん?」
くたびれたカーキ色のパーカー。すり切れたジーンズ。若いのにどこか疲れたような、老成した顔。
それは、兄のヒロカズに間違いなかった。
「兄さん、帰ってきたの?」
「大きくなったな」
ヒロカズは、ヒロナリを見て微笑んだ。
「いや。帰ってきたわけじゃない。またすぐに行かなきゃ」
「父さんも母さんも心配してるよ」
「そうだろうな」
ヒロカズは頷く。家にいた頃は青白い顔だったのに、今のヒロカズはすっかり日焼けしていた。体つきも以前に比べてがっしりしているし、顎にはちょろりと髭を生やしていた。
「でも、まだ帰れない。今日は物を取りに来ただけだ」
そう言って、ヒロカズはヒロナリの部屋の中に目を走らせた。
「どこにあるのかお前が知ってるはずないよな。俺の――」
「ヘリオス・ネオ?」
ヒロナリが言うと、兄は目を見張った。
その反応で、正解だったことが分かる。
何となくそんな気がしたのだ。
「ここにあるよ」
ヒロナリは、自分の引き出しからヘリオス・ネオを取り出した。
「偶然、見付けちゃったんだ。それで、勝手に借りてた。ごめんなさい」
「そうか。よく見付けたな」
ヒロカズは苦笑した。
「あそこ、いい隠し場所だったろ」
「うん。ちょうど僕の目線の高さで偶然気付いたんだ」
ヒロカズは受け取ったヘリオス・ネオの電源を入れて、それから目を丸くした。
「お前、暗黒竜の秘宝をやってるのか」
「あ、うん」
ヒロナリは頷く。
「勝手にインストールされてた」
その言葉に、ヒロカズは息を呑む。
「一人でやってるのか」
「ううん」
ヒロナリは首を振った。
「一応、友達と三人でやってる」
そう言ってから、自分の状況を思い出して律儀に言い直す。
「三人でやってた」
「……やってた?」
やはりヒロカズもそこを聞き咎めた。
「どういうことだ?」
「僕以外の二人は、なんて言えばいいのかな」
ヒロナリは言葉を探した。
「どこかに、行っちゃった」
「……そうか」
ヒロカズは頷いた。
あまりに言葉足らずなヒロナリの説明だったが、兄はそれだけで了解したようだった。
ヒロカズはデータをざっと確認すると、ヘリオス・ネオをヒロナリに差し出した。
「じゃあ、これはお前にやるよ」
「え?」
ヒロナリは戸惑った。
「いいの? だって、これを探しに来たんでしょ」
「ああ。だけど、お前が選ばれたのなら話は別だ。お前に託すよ」
「選ばれたって、何に?」
「それは、今は言わない方がいいな」
ヒロカズは、弟の表情を見て微笑んだ。
「多分、お前がビビっちゃうだろうからな」
「え」
ヒロナリの困惑した顔に構わず、ヒロカズは話題を変えた。
「じゃあ、お前にも見えるのか。空を飛んでる、あの」
「カカマナット?」
「そう。大したもんだ」
ヒロカズは手を伸ばして、ヒロナリの頭をくしゃりと撫でた。
「俺は、あいつを止めようとしている。そうしないとこの世界が異界と一緒に壊れてしまうから」
「それ、どういうこと」
たまらず、ヒロナリは尋ねた。
「僕、全部分からないよ。あのドラゴンはいったい何なの。異界って、何なの。あのゲームは何なの」
堰を切ったように溢れ出したヒロナリの疑問を、兄は手を上げて押しとどめた。
「暗黒竜の秘宝は、ただのゲームじゃない。今言えるのは、それだけだ」
ヒロカズは言った。
「俺は攻略に失敗した。仲間がいなかったからだ」
「え」
「だから、お前は絶対にその二人の友達を助け出せ。一緒に攻略するんだ」
「助け出せって言っても」
「ゲームを進めるんだ。きっと二人は異界に閉じ込められている」
そう言いながら、ヒロカズはゆっくりと後ずさって部屋から出ていこうとしていた。
「兄さん、帰ってきてよ」
ヒロナリは言った。
「父さんも母さんも心配してるよ。母さんは、それで病院にも通ってる」
「ああ」
ヒロカズの顔に、わずかに苦しそうな表情が浮かんだ。
「分かってる。だけど、これは俺が自分で蒔いた種なんだ。ゲームの攻略に失敗して暗黒竜の封印を解いたのは、俺なんだ」
「兄さんが?」
「だから、俺はその責任を取らなきゃならない。暗黒竜が復活するまでに、なんとかそれを阻止しないと」
「それを父さんたちに話してよ」
十歳以上も年の離れた兄は、ヒロナリにとっては競い合ったり比較対象になったりするような存在ではなかった。
家にいるだけで、その場所が落ち着く。そういう、重石のような存在。
失踪するまで、兄がそんなに悩んでいたことをヒロナリは全く知らなかった。
「ゲームの中の暗黒竜が現実に蘇るから、阻止しないといけない」
ヒロカズはそう言って、少し笑った。
「そんなことをあの二人に言って理解されると思うか?」
ヒロナリは、ぐっと詰まる。確かに、両親がそんな話を理解してくれるわけはない。そんなことは、いちいち話してみるまでもないことだった。
「いつか、話すよ。二人が俺を一人の人間と認めてくれた頃に」
そう言った兄の笑みは、弱々しかった。ヒロナリは、まだ彼が家にいた頃にいつも浮かべていたその笑顔を思い出した。
「俺が成人するまで家を出るのを待っていたのも、そのためだ。二十歳を過ぎた人間が自分の意志で家を出たら、親も警察も無理に連れ戻すなんてことはできない」
だけど、とヒロカズは言った。
「そのせいで、遅くなりすぎた。事態はかなり進行してしまっていた」
「どういうこと」
「お前にも、いずれ分かる。俺から説明することはできないんだ。もう俺は魂を半分掴まれちまってるから」
だけど大丈夫だ、とヒロカズは弟に頷いた。
「お前は友達を助けろ。俺も、現実世界でできることをやる」
「兄さん、行かないでよ」
ヒロナリは言った。
「もうすぐ、母さんが帰ってくる。せめて、それまでいてよ」
「俺が母さんたちに残した書き置きは読んだか?」
「ううん。見せてもらってないけど」
「これからは父さんと母さんの人生ではなく、自分の人生を生きますって書いたんだ」
ヒロカズは自嘲気味に笑った。
「遅れてきた反抗期みたいなもんだ」
それから、涙目の弟の肩を優しく叩いた。
「大丈夫だ。俺たちはちゃんと繋がってる。お前が本当に困ったとき、俺は必ずお前を助けに来る。だから心配するな」
「兄さん」
「じゃあな。仲間、大事にしろよ」
兄が身を翻して部屋を出ていき、その直後に玄関ドアの閉まる音がした。
それっきり、家の中は静まり返った。
ヒロナリは涙を拭った。
ゲームを進めろだって? 仲間を大事にしろだって?
今日は塾の小テストなんだ。いい点を取らなきゃならないんだ。
みんな、勝手なことを言う。僕を何だと思ってるんだ。
ぐちゃぐちゃの気持ちのまま、それでもヒロナリは、ヘリオス・ネオを塾のバッグにつっこんだ。