侵食
「ただいま。遅くなってごめんねー」
夜遅くに帰宅したカズマの母は、息子がダイニングテーブルにぼんやりと座っているのを見て、眉をひそめた。
「どうしたの、カズマ」
「え?」
カズマが母を見る。その表情に、どことは言えないが違和感があった。
「ごはん、ちゃんと食べた?」
「うん。食べたよ」
カズマはそう答えたが、母は朝、出勤前に流し台に置いていった夕飯用の千円札が、そのままになっていることに気付く。
「あ、これ。何も買ってないじゃない」
「え?」
「夕飯、食べてないんでしょ」
「この前のお金が残ってたから」
妙に機械的な口調で、カズマは言った。
「それで食べたよ」
「何を食べたの」
「コンビニで買ったおにぎりとサラダ。あと、ゼリーも」
「そう……?」
まだ釈然としなかった。
「学校で何かあったの?」
「別に」
カズマの返答はよどみない。母は、落ち着かない気持ちになっていた。
「そういえば、ゲーム」
母は、違和感の正体に気付く。ここ最近、息子とこんな風に正面から顔を見合わせて会話することはほとんどなかった。話すときはいつも自分が料理や何かをしているか、そうでなければカズマがゲームをしていたからだ。
だが、今日はカズマがゲームをしていない。
「とうとう壊れちゃったの?」
ああ、それが原因か、と母は思った。ゲーム、と言ったときだけカズマの目が母をちらりと見たからだ。
「別に」
カズマは言った。
「なんで?」
「だって、最近全然やってないじゃない」
そういえばそうだ。息子がいつも手放さなかった、元夫の買い与えた古い携帯ゲーム機はここ数日、部屋の隅に無造作に転がったままだった。
「動かなくなっちゃったの?」
「ああ、あれ」
カズマはゲーム機を一瞥した。その目が、ひどく冷淡なものに見えて母は戸惑った。
「あれはもういいんだよ」
そう言うと、カズマは立ち上がった。
「もう寝るね」
「ねえ、本当に何かあったの?」
「何でもないよ」
振り向きもせずに、カズマは言った。
「おやすみ」
その翌日、水曜日。
通勤電車の架線が切断されたとかで、電車が止まっているらしく、ヒロナリの父は朝からひどく不機嫌そうにあちこちに電話していた。
何でも、今日は大事な会議が入っていたのだという。
ニュースでは、架線の切られた線路脇の茂みを抉り取るようにして描かれた奇妙な模様のようなものを映し出していた。
暗黒竜の紋章。
「どこのバカだ、こんなくだらんことをいつまでも」
父はテレビに向かってそう声を荒げると、駅前でタクシーを拾うと言って乱暴に玄関のドアを開けて出ていった。
「今日、塾の小テストだったわね」
父の去った後、まるで何事もなかったように母はヒロナリに言った。
「しっかり点数を取るのよ。学校の休み時間にも、ちゃんと復習しなさい」
「うん」
ヒロナリは靴を突っかけたままドアを開けた。
「かかとを踏んじゃだめよ」
という母の言葉が聞こえたが、さっさと家から離れたかった。ヒロナリは、歩きながら靴を履き直した。
その日も、リンは欠席だった。けれど、もう誰もそのことに触れなかった。
家も学校も、何か得体のしれない薄い靄のようなものが覆っているような気分だった。
周りの景色が見えないほどじゃないけれど、視界が悪い。何かを見落としているような気になる。
ヒロナリは、机に座って頬杖をついて窓の外を見ているカズマに近付いた。
「七瀬君」
ヒロナリはそう呼びかけた。
カズマは、ちらりとヒロナリを見上げた。
「何?」
「三条さん、今日も休みだね」
「三条?」
カズマはわずかに顔をしかめた。苦いものを間違って飲み込んだような、そんな顔だった。
「だから?」
「心配だね」
「別に」
カズマはまた窓の外に目を向けた。とりつく島もなかった。
ヒロナリが次の言葉を探しているうちに、チャイムが鳴った。
「先生が来るぞ」
外を見たまま、カズマは言った。
「自分の席に戻れよ」
やっぱり、あれはカズマ君じゃない。
自分の席に戻ったヒロナリはそう確信した。
それを確かめるために、わざと「七瀬君」と呼びかけたのだ。
ヒロナリはカズマのことを、七瀬君、などと呼んだことはない。だが、カズマはそれについて何の反応も示さなかった。
それは、おかしいのだ。
何かが起きている。
ヒロナリがいない間に、きっとカズマとリンの身に何かが起きた。そして、リンは学校に来なくなり、カズマは別の誰かと入れ替わった。
荒唐無稽な推測だったが、現にヒロナリの周囲ではもっと非現実的なことが起きていた。
異界へと吸い込まれるゲーム。現実の空を飛び回るエメラルド色のドラゴン。
だから、そんなことが起きたってちっとも変じゃない。
ヒロナリは、そっと教室の後方に座るカズマの方を窺った。
そして、カズマがひどく険しい顔で自分の背中を見つめていたことに気付き、慌てて前に向き直った。
どうしよう。
怖い。
何かをしなければいけない気がする。
この恐ろしい変化に気が付いているのは、リンもいなくなってしまった今となっては、きっと自分一人だけだ。
けれど、どうしたらいいのかは分からない。
塾の小テスト。
不意に、そんな言葉が頭に浮かんだ。
いつもであればただの作業に過ぎないそれが、今日はなぜだかひどく魅力的に見えた。
そうだ、今日はテストがあるじゃないか。
僕は、テストでいい点を取らなければならない。
それはヒロナリに何もしないでいる大義名分を与えてくれた。
母さんを裏切るわけにはいかない。
だから、仕方ない。
仕方ないんだ。僕にはテストがある。これ以上のことはできない。
「六宮、ちょっといいか」
森先生から、声を掛けられた。
昼休みの教室には、いつの間にかヒロナリ一人になっていた。ほかの子はみんな、校庭や体育館で遊んでいるのだろう。
「午後の授業で使うプリント、職員室から運んでくれないか」
「あ、はい」
ヒロナリは立ち上がる。森先生とともに職員室に行くと、そこでプリントを一束受け取った。
「ありがとな。先生の机に置いておいてくれればいいから」
「分かりました」
職員室を出ようとして、ヒロナリは何気なく、つけっぱなしになっているテレビの画面に目を向けた。
テレビでは、昼のニュースが流れていた。
暗黒竜の紋章が、また映っている。テレビ局のクルーも線路の中に立ち入るわけにはいかないようで、柵の外からそれを撮影していた。
野次馬もたくさんいる。
昼間から、あんなものを見に大人が集まってる。世の中には、暇な人もいるんだな。
ヒロナリがそう思ったとき。
一人の青年が、レポーターの後ろを横切った。
線路の方には目もくれず、険しい顔で通り過ぎていく。くたびれた、カーキ色のパーカーを着ていた。
その姿に、覚えがあった。
ばさり、とプリントの束が足元に落ちた。
「おい、六宮。どうした」
森先生が驚いた声を上げる。けれど、ヒロナリはそれに答えられなかった。
もう、画面は次のニュースに切り替わっていた。
それでも、ヒロナリはテレビ画面から目を離せなかった。
兄さん。
その青年は、ヒロナリの失踪した兄、ヒロカズだった。